其之四 詭計開陳

 その日の夜は月が美しかった。満天の星が夜空をいろどり、束の間の平穏を与えている。本当なら酒でもみ交わしながら、星空会議といきたいところだったが、内容が内容だけにそうもいかなかった。狭い梁上りょうじょうの隠し部屋には錚々そうそうたる面々が集まっていた。それぞれが一様に厳しい表情を浮かべ、今回の陳逸ちんいつ拉致らち事件を憂いている。

 いずれもあるじ陳寔ちんしょくが招き入れた者たちだから、皆、清流のこころざしを持っているということだ。彼らは吉利の陳逸救出計画を傾聴するために集まってきていた。

 その居並ぶ清流派の面々を見てみると……。

 まず、屋敷の主にして在野の清流派長老。文範ぶんぱん先生こと陳寔。

「これはせがれの元方げんほう季方きほうじゃ」

 陳寔に紹介されて、二人の中年男が挨拶をした。周済と同世代というところだろう。陳寔が党錮とうこの身なので、子である陳紀ちんきあざな元方、陳諶ちんじんあざな季方ともに不遇をかこっている。今はどちらも書を読み、父の手伝いをする日々だ。

「私は潁川えいせん舞陰ぶいん韓元長かんげんちょうと申す。古くから文範先生に師事している」

 韓融かんゆうあざなを元長という。潁川の名族であるが、今の腐敗した政局に加担するつもりはなく、度々の招聘を断って陳寔のもとで、陳寔と共に講義している。

「潁川潁陰えいいん文諝ぶんしょでござる」

 優雅な拱手きょうしゅの礼をとって自己紹介をしたその人に、

「ほほっ。慈明じめい、今はいつわりの名は無用じゃよ」

 陳寔が笑って言った。

「そうでした。どうもくせになっているようで……では、改めて。姓はじゅん、名はそうあざなは慈明にござる」

「潁川の荀氏といえば、あの〝八竜はちりゅう〟の……?」

「そうじゃよ」

 目を見開いている厳恪げんかくの問いに陳寔が頷いた。

 潁川潁陰の荀氏は戦国時代末期の儒学者で、孟子もうし孟軻もうか)の性善説に対して性悪説を唱えた荀子(荀況じゅんきょう)の子孫にあたる。支丹の袁氏にも劣らぬ名家で、名家の歴史は袁氏よりも古い。

 爽の父の荀淑じゅんしゅくあざな季和きわといい、汝南郡朗陵ろうりょうの県令となった。任期中、道理にかなった治政で県内に何一つ問題が起きなかったことから、人々から〝神君しんくん〟と称せられた。荀淑はあの李膺りようが師と仰ぎ、陳寔も師事していたほどの人物である。

 また、爽の従兄あに荀昱じゅんいくあざな伯条はくじょうは第二次党錮で殺されてしまったが、李膺と共に「八俊」の一人として万世ばんせに残る英名を得た。その七言評は〝天下好交てんかこうこう荀伯条〟という。同じく党錮にした荀曇じゅんたんあざな元智げんちも爽の従兄あにである。

 このように、荀氏と李膺は同じ清流という志を持ち、同郷というのもあって、互いに深い関係にあった。

 荀淑には八人の子がいて、どれも英才だったので、人は〝荀氏の八竜〟と尊称したのだが、その八竜の一人が荀爽である。荀爽は李膺をこよなく尊敬し、李膺も常に荀爽を目にかけた。

 荀氏は党錮に深く関わった一族である。荀爽も例外ではなく、濁流派の厳しい監視下に置かれることになった。そして、尊敬する清流派長老・陳寔が〝文範〟と号しているのにならって、〝文諝〟という偽名を使っている。

 陳寔の屋敷に滞在しているのは、十一歳になる甥を文範先生の門下生にするために連れてきたのがきっかけだった。

「――――慈明もちょうどこのくらいじゃったろう。『小神君』と言われて騒がれたのは」

 荀爽は弱冠十二歳で『春秋』、『論語』に通じ、当時、太尉たいいの職にあった清流派名士の杜喬ときょうが、この子はきっと大衆を導く大人物になるだろうと目を見張ったことがあった。ニック・ネームやキャッチ・コピーを付けるのが好きな人々はそれを聞き、〝小神君〟と言ってはやし立て、〝神君〟の再来だと言っては将来を嘱望しょくぼうし、〝荀氏の八竜、慈明は無双〟とうたって話の種にしたものだ。

「――――この子は私以上に聡明だと思っています」

 その甥っ子は〝いく〟という名前なのだが、叔父を真似まねして〝文若ぶんじゃく〟と名乗っている。

「――――それは楽しみじゃのう。神君の血筋がしっかりと受け継がれておるようじゃ」

「――――陳家にも神童しんどうがいると聞いていますよ」

「――――うむ、うむ。元方の子が〝ぐん〟といって、なかなか利発でな。時代さえ適えば、党錮で閉塞へいそくした家運を再隆さいりゅうさせるのは、羣じゃろうと思うておる。今は荀家も耐え忍ぶ時じゃ。どうじゃね、慈明もゆっくりしていっては?」

「――――そうですね。それではしばらくお邪魔することに致します」

 自らも留まって文範先生の薫陶くんとうを受けることにしたのだ。

「私たちは党錮にかかっている立場なので表立って動けないが、何かできることがあれば協力したいと思っている」

 荀爽の声は明朗で美しかった。

 許章きょしょうという人がかつて、〝慈明は外朗がいろう叔慈しゅくじ内潤ないじゅん〟と評したことがある。

 慈明の性質は外面がまばゆくきらめくようで、叔慈の性質は内側にしっとりとした柔らかな光沢こうたくたたえているようだと言ったのだ。叔慈とは荀爽の兄、荀靖じゅんせいあざなである。この評価が示す通り、荀爽の気品に満ちた性質がその声にも表れ出ていた。

 彼ら初対面の党人たちはその誰もが名のある清流人で、吉利たちよりもずっと年長であるにもかかわらず、殊勝しゅしょうに挨拶をして吉利たちを迎えた。陳逸を救出して濁流派にひと泡吹かせようと目論もくろむその心意気に対して敬意を払っているのだ。

 特に吉利に対しては特別だった。あの許劭きょしょうが陳逸救出という大事を任せるに足ると評したらしいという情報が皆の興味を引き、この若き新星に一目いちもく置いているのだ。周済しゅうせいの紹介状にあったのかもしれない。

 その周済はまだ帰ってきていない。その他には支丹と厳恪、そして、一番の鍵となる人物、張倹ちょうけんが部屋の隅に黙座もくざしているだけだ。

「これほどの名士の方々がこぞって協力を申し出てくださるとは有り難い」

 誰を使っても、それなりの効果はあるだろうな――――言いながら、吉利は思った。

「しかし、今回ばかりは清よりも濁、知よりも武で応じなければなりません」

「周済殿がまだ戻っていないぞ、吉利」

「構わん。周済殿には後で話せばいい」

 周済は吉利のある密命を帯びて奔走している。

「では……」

 吉利は皆の方に向き直った。

「武で応じると申しましたが、戦力的にも情勢的にも圧倒的に不利なのはご存じの通りです。時間もない。しかし、力ずくに襲撃したところで陳君を無事救い出すのはほぼ不可能。この状況で陳君の救出を望むのは、これは死中しちゅうかつを求めるようなもので、それには危険を承知での奇策を用いるしかありません……」

 吉利の情報分析は適切だった。だからこそ、この前置きが唯一無二のものとして、次の奇策を導く布石となる。

班定遠はんていえんの事例が良い例でしょう。虎穴こけつらずんば虎子こじを得ず。そこで、私の考えた策ですが……」

 吉利は皆の顔を見渡して言った。一同は静まり返って次の言葉を待った。

 班超はんちょうあざな仲升ちゅうしょう西域せいいき都護とごとなって長年西域に留まり、同地域の安定に貢献しただけでなく、西域諸国を後漢に臣従させた功労者として、定遠侯に封じられた。〝虎穴に入らずんば虎子を得ず〟の逸話をのこしたことでも知られる。約百年前の話である。

 班超という名将の名を持ち出され、いよいよ吉利に耳目が集まる。皆の注目が伝わって、愉悦ゆえつが吉利の心を満たす。楽しみなのだ。

 自分の詭計きけいに彼らは一体どんな反応を示すのか。どんな表情でこたえるのか。

 それを吟味ぎんみしながら、自分の策を披露ひろうした。変化する状況に合わせて短時間でり上げたものだ。これ以上の策は考えつかなかったし、誰も考えつかないだろう。

 そういう意味では最上の計だという自信もある。

「……つきましては、この役を元節殿にお頼みしたい。ここにお集まりの方々は皆名士ですが、濁流に一番人気なのは元節殿でしょう。これまでの負い目もあるでしょうが、陳君の救出に協力していただければ、その痛みも少しは和らぐのではないかと思います」

 吉利の余りにも大胆不敵な作戦は聞く者をことごとく固まらせ、その衝撃的な発言はその場を一気に凍りつかせた。吉利をよく知る支丹や厳恪でさえも、一瞬、頭が真っ白になった。

「なっ……」

 厳恪が問題発言の友人を叱責しようと身を乗り出したが、驚きのあまり、言葉にならなかった。ただ引きる顔でそれを訴えるだけだ。しかし、

「……うけたまわろう」

 暗い表情でたたずんでいた張倹本人は短い一言でそれを受け入れた。それで、今にも紛糾ふんきゅうしそうな雰囲気が一瞬にしてしずまったのだった。

 吉利は顔色一つ変えず、沈黙の一同に、これが吉利という男だと無言で告げるのだ。

「感謝致します、元節殿。……良かったな、厳恪。ここで元節殿に遇わなければ、この役は君にやってもらおうと思っていた。君も濁流に人気があるようだからな」

「なっ……いや、子実しじつ様の代わりに私がその役をやろう!」

 一大決心で厳恪は言ったのだが、

「そうだな、えさは多い方がいい。じゃあ、厳恪にもやってもらおうか」

「……にも?」

「名のある二人が餌になれば、これは大した御馳走ごちそうだ。張譲も絶対に喰いついてくるぞ」

 吉利は事成ことなれりとばかりに言うのだった。そこに帰ってきた周済が現れて、

「遅くなった。注文通り、いかにも悪そうな感じのを集めてきた。……どうしたのだ、厳恪? 皆も静まり返って?」

 周済は凍結した空気を理解できず、反応の鈍い面々を見て不思議に思うだけだった。


 周済が吉利の策に必要な男たちを連れ帰ってきた。吉利はその男たちに簡単な役目を説明するために、未だ唖然あぜんとする清流派の面々を残して、意気揚々と梁上の部屋を出て行った。しかし、陽動役の男たちに会うその前に、周済が吉利を呼び止めて言った。

「お主と話したいという者を連れてきた」

「誰です?」

袁夏甫えんかほだ」

 周済が告げた名に吉利も驚いた。ずっと土室にこもって世間から忘れ去られた男を連れ出してきたというのだ。その袁閎えんこうが吉利と二人きりで話したいことがあると密談を申し込んできた。この時期に寒蝉かんせんが目覚め、ひっそりと土中からい出てきたというのだから、

「特に内密の話だそうだ」

「そうでしょうね」

 周済の言葉に吉利も納得した。話の内容までは想像が及ばなかったが、それが重大なものであることを悟るのは容易たやすかった。吉利は急遽きゅうきょ、袁閎と二人きりで会談することになり、陳寔邸の小さなあずまやに座して対面した。

 袁閎は吉利の父の世代で、四十代の男である。が、その顔にはただの隠遁生活には相応ふさわしくない苦悩のあとが刻まれていた。その身にまとう気は張倹と同じように陰鬱いんうつとしており、覇気がなく、精気さえも委縮いしゅくしているような感じで、それが陳寔よりも老いているように感じさせた。

「私は袁夏甫と申す」

「吉利です。どういった用件でしょうか?」

 吉利は袁閎に同情する気にはなれず、自然とぶっきら棒な態度になった。

「周済から君が中心となって陳君を助けようとしていると聞いた」

 落ち着いた口調で袁閎は話し出した。

「成り行きでそうなりました」

「どうして陳君がとらわれたかは御存知ごぞんじか?」

「党錮事件が尾を引いていると見ていますが……」

「党錮か……」

 その言葉に袁閎は目をつむった。党錮事件に関わっていない袁閎であるが、世の中を悲観しているのだ。自分を評価してくれた陳蕃ちんばんささげる黙祷もくとうでもある。

 数々の清流派名士が濁流に呑み込まれて消えた。ただの政争の結果ではない。

 脈々と続く歴史の裏にある秘密の抗争があった。

「遥か昔よりずっと国家の秘宝を巡る争いがあった。党錮事件はそれが引き起こした一つの事件に過ぎない」

「国家の秘宝……」

「天運をもたらすという五つの宝珠。〝五仙珠ごせんじゅ〟という……」

 古代王朝「」を創設した伝説の聖王・は、万物は、木・火・土・金・水の五元素でできていて、天地、宇宙、世の中のあらゆる原理がこの五元素の循環によって成り立っていると説いた。これを〝五行説ごぎょうせつ〟という。

 赤火せっか黒水こくすい青木せいぼく白金はくきん黄土こうど珠……。五仙珠にはそれぞれ五行説の火・水・木・金・土の力が封じ込められており、手にした者に大いなる天運を付与するという。神話の時代から存在するとも言われ、秦の始皇帝しこうていも漢の高祖こうそも、そして、後漢の光武帝こうぶていも、この宝珠を手にして王朝を打ち立てたと伝えられる。まさに五仙珠は天が授けた天宝てんぽうであった。

 五仙珠はそれぞれ代々の王朝によって、東西南北中央の五岳ごがくの山頂にまつられた。

 天に近い山頂で祭祀を行うことで、王朝に天の加護を願ったのだ。いわゆる封禅ほうぜんの儀式である。ちなみに、〝封〟は天を祀ること、〝禅〟は地を祀ることである。

 この五仙珠に関しては、政治の乱れと権力闘争で流出と奪還収蔵を繰り返してきた裏歴史があり、現在では、五つの仙珠の全ての行方が分からなくなっているという。

 党錮事件が起こるきっかけとなった陳蕃と竇武とうぶによる宦官一掃クーデター実行の際に、二人は仙珠を手にして天の加護を頼んだといわれる。

 しかしながら、クーデターは失敗に終わり、その仙珠も宦官に奪われたと見られているが、はっきりした確証はなかった。事件関係者はことごと抹殺まっさつされてしまったのである。

「……これは国の最高機密で、今の清流派名士でさえ、ほとんど知ることではない」

「ほぅ、そんなものがあるのですか」

 吉利はそんな国家の機密を聞いても、全く動じなかった。軽く聞き流したような感じである。そんなふうでも、わずかな間に事の枢要すうようは把握している。それが吉利の頭脳だ。

「その話が本当ならば、王甫おうほ曹節そうせつが仙珠を持っているということですね」

 吉利は袁閎の話を聞き、天下の情勢を照らし合わせることで、すぐに一つないし二つの仙珠のを突き止めた。これもまた吉利の推測ではあるが、朝廷での権力図が王甫・曹節が仙珠を保持している可能性を裏付けている。

 実際、フィクサーとして朝廷を牛耳ぎゅうじっているのはその二人の宦官であり、どちらも陳蕃と竇武の誅殺を主導した。陳蕃の息子である陳逸が残りの五仙珠について何か事情を知っているということは十分考えられる。そして、宦官が更なる仙珠の情報を得ようとして陳逸を捕縛したのだと考えれば、より一層筋が通る。

「……ところで、どうしてそのような話を面識もない私に?」

「周済からそなたの話を聞いた。許子将きょししょうが面白い評価をしたと……」

 袁閎もまた許劭きょしょうの吉利評を伝え聞いて、吉利のもとに集まってきたのだ。

 それはまるで赤い星が周囲の星々をその引力で引きつけているかのようであった。

「能臣か奸雄かんゆうか、どちらだと思われますか?」

 吉利はかすかに笑みを浮かべて聞いた。

「奸雄だと感じたら、ここに来てはいない。このような話もしない」

 袁閎は吉利の目を見据えて答えた。袁閎は暗い土室に籠って生きてきた。外界の情報は時々周済らが届けてくれるが、自分の耳目に頼らなくなって、情報処理は心で行うようになった。吉利の話を聞いた時、袁閎の暗く閉ざされた心の宇宙が光った。

「それに、これを託そうという気も起こらなかった」

 袁閎はふところから拳大こぶしだいの宝珠を取り出した。暗く閉ざされた宇宙。

「それは?」

「全ての仙珠が所在不明というのが通説だが、実はこれが五仙珠の一つ、黒水珠こくすいじゅだ」

 黒光りする水晶玉。黒く染まった内部をたゆたう色鮮やかな雲。

 袁閎はその宝珠を吉利に手渡した。

「まるで天空のようですね」

 吉利は壁の燭台しょくだいの明かりの中、黒水珠をまじまじと見つめ、それを夜空にかかげた。確かにその宝珠は夜の星空を詰め込んだようである。

「袁氏が仙珠を隠し持っていたとは、納得です」

 吉利は皮肉にも聞こえるような一言をつぶやいた。だが、他の清流派にもこれを漏らさず、仙珠を隠匿いんとくしていたのは事実だ。本当に仙珠が所有者に天運を付与する力があるかどうかは分からないが、袁家が次々と高官を輩出し、隆盛したというのもまぎれもない事実である。

「確かに隠し持っていた。濁流派だけでなく、清流派にも我が家の者にも知られぬように」

 陳蕃・竇武の決起からさかのぼること数年前、袁家は宦官の袁赦えんしゃを通じて黒水珠を手に入れた。そして、陳蕃・竇武のクーデター失敗は教訓として袁家を清流派から距離を置かせることになった。本来なら、国宝は皇帝へ献上し、国家で管理するべきものだが、素直に皇帝のもとへ返上したところで、宦官が政権を聾断ろうだんする現在ではそれは彼らに手渡すことに等しい。濁々とした世と宦官の目からしばらくの間黒水珠を隠すために、最初から官職にかずに隠遁していた一族の袁閎のもとに置くのが最適だと考えたのだ。中道の判断である。

 秘密が漏れないように他の清流派たちにも知らせず、袁家の者でもその事実を知る者は僅かだった。御曹司おんぞうしである支丹も知らないことだったのだ。

 しかしながら、いかに濁流派から仙珠を守るためとはいえ、袁閎はこのまま仙珠を隠し通すことに疑問を感じた。国家の秘宝を私物化してよいわけがない。

「残念ながら、我が家にはこの仙珠を国へお返しし、私欲を抑え、忠義で国恩に報いようとする者がいない。陳逸殿を助け救おうとするそなたにその仙珠を役立ててもらいたい」

 袁閎は一族の者ではなく、強き義心を示そうとする面識もない若者にその秘宝を託そうというのである。

 炯眼けいがんの許劭が言うには、漢王朝の色である赤、赤き宿星をその胸に宿すという。

 自分が国に役立てないのなら、一族の者に国を救おうという気持ちがないのなら、この若者に天運を授ける手助けをして、亡き陳蕃への恩返しとしたい。

 ところが、袁閎のそんな思いをよそに、

「よいものを見せてもらいました。お返しします」

 吉利はそれを袁閎へ突き返した。こんな玉っころ一つで自分の運命が左右されてたまるか。現実主義者の吉利はそんな加護をいちいち当てにしないし、安易に信じもしない。世を見返すには、許劭の無言の挑戦に打ちつには、運ではなく、おのが実力で証明しなければならない。吉利の思いはこうだ。

「天運は与えてもらうのではなく、己自身で引き寄せるものです」

 国政を補佐する資質がありながらそれを出さず、心を隠し、身を隠した弱さを持つ袁閎は、突き返された黒水珠を抱えて、吉利という男の強さを知るのだ。

「水は流れてこそ清きを保つのです。留まっていては、清流もよどむだけ。自分の家を嘆く暇があるのなら、あなた自身が世に出て国恩に報いればよい」

 陳蕃の思いに応えたいのなら、人任せにするのではなく、自ら立ってその後を継ぐべきだ。言葉は厳しいが、寒蝉の生き方を止めて、国に尽くせという吉利なりのエールである。弱気を託されたくはない。弱さはいらない。

「それでは失礼致します」

 吉利は一礼してその場を後にした。反論の余地もなく、袁閎は常識では計り知れない吉利という若者の後姿を茫然と見送るだけだった。


 濁流のふちひそ張譲ちょうじょうという大物を釣り上げるには、まずおとりとなる小物からだ。

 翌朝、許の郊外で吉利たちは肉瓢箪にくびょうたんの一行に接触を図った。

 自分のボディー・ガードとして連れてきている弟の金虎武きんこぶから、変な連中が面会を求めていると報告を受けた肉瓢箪こと金藐きんびょうは機嫌の悪さをあらわにして、

「もう用は済んだ。これ以上の面倒事は御免だ。追い払え!」

 早朝に帰郷した張譲に陳逸を引き渡して謝礼を受け取ったまでは良かったが、それが済むと早々に追い返されたのだ。この巨体での長旅は疲れる。その上、陳逸を自分の手で殺すことができなくなって、それが大きく機嫌を損なわせている。

「……でもよ、金になる話だって言ってたぜ、兄者」

 馬車の中で受け取った報奨金を入念に数え直していた金藐は、その手を止め、

「何、金になるだと? ……グプ。よし、話だけは聞いてやろう。連れてこい」

 再び金という単語に敏感に反応して、ころりと態度をひるがえした。

 馬車が左右に大きく揺れ、肉瓢箪が車の窓からその丸い顔だけをのぞかせた。

「何だ、その顔は?」

 横柄な態度でその男たちを迎えた金藐は奇妙な格好の一団を見て、眉間みけんしわを寄せた。連れてこられた連中は顔面を炭で黒く塗りつぶしていた。三年前の花嫁強奪作戦と同じ出で立ちである。

「へぃ、あっしらは泰山たいざんの方で山賊をやっておりやすんで、こうやって顔が割れねぇようにしてるんでさぁ」

 兗州えんしゅうの泰山郡といえば、昔から山賊のはびこる地域である。

「泰山の山賊が一体何の用だ? 金になる話と聞いたぞ」

「へぃ。実はあっしらは賞金首の党人を捕まえようと思いついて、地元の党人を探して兗州予州の界隈かいわいをうろついておりやしたところ、ついに張倹という奴を捕まえやして……」

「グプッ……今、張倹と言ったか?」

 その名に金藐が豚のような鼻をひくひくさせた。

「へぃ。捕まえたはいいものの、役所に突き出そうにもご覧の通り、山賊の身なんで、それもできずにいたわけでさぁ。……とまぁ、そんな時、偶然も偶然、党人を捕えたというあなた様のうわさを聞きやして、何とかお話を聞いて頂こうとやってきたんでさぁ」

「グププ……おい、それは本物なのか?」

 一層馬車が揺れた。金藐が首を突き出して確認しようとする。

「へぃ、本物の張倹でさ。顔の分かる奴にちゃんと確認させやした。おい、連れてこい!」

 黒塗りの仲間が後ろ手に縛られた張倹その人を引いてきた。金藐は馬車の窓からさらに首を突き出そうとしたが、すぐにつっかえてしまった。なおも巨体を押し付けたため、馬車が傾いて片方の車輪が浮き上がった。それほど興味をそそる名前なのだ。

「こいつが噂の張倹か、グプ!」

 引きる豚鼻。金藐の醜い顔が興奮で紅潮した。

 党錮に関わって逃亡中の党人たちには懸賞金がかけられ、逮捕が奨励されていた。中でも、張倹には最高額の懸賞金がかけられていた。

 張倹は兗州の山陽郡高平こうへいの出身で、延熹えんき八(一六五)年、山陽太守の翟超てきちょうに請われて、郡の督郵とくゆう(巡察官)になった時、有力宦官の侯覧こうらん劾奏がいそうしたことがあった。

 侯覧は同郡防東ぼうとうの出身で、侯覧一族はその権力をバックに同地を支配し、貧民の土地を奪い、不法に蓄財し、その一党は強盗、殺人など横暴極まりないといった状態だったので、罪を問うべくそれを厳しく糾弾したのである。

 その上奏文は途中で侯覧の手によって握りつぶされ、中央には届かなかったが、張倹はこの郡内にはびこる悪党を一掃するべく執念を燃やし、何度も侯覧の悪事を訴え続けた。山陽郡内で清流派の張倹・翟超と濁流派の侯覧一党による激しい抗争が続いたのである。

 この闘争によって、翟超も清流の「八及はっきゅう」の一人に数えられるほまれを得た。

 翟超はついに侯覧の財産を没収し、張倹の上奏文は中央政府に届いたのであるが、濁流派に牛耳られた政府自体が腐っていた。逆に侯覧の訴えが正当として受け入れられて、翟超は罪にして免官となった。張倹も偽証の罪に問われ、侯覧の大きな恨みを買った。

 翟超と張倹の行ったことは正義であり、当然の任務を果たしただけのことである。しかし、濁りのひどい世の中では、純然たる正義さえじ曲げられてしまう。

 この山陽郡の闘争も第二次党錮の引き金となった。あべこべの世の中で正義を行った張倹が党錮にかかり、逆に悪人として追われる身となった。山陽郡から山深い泰山郡に逃れた張倹はそこから南の予州国に入った。友人の孔褒こうほうを頼ったのだ。

 張倹らと共に清流派「八及」の一人に数えられた名士に孔昱こういくという者がいた。

 孔昱はあざな元世げんせいといい、魯国魯県の人で、あの孔子の子孫の血筋である。その七言評は〝海内かいだい才珍さいちん孔元世〟。この時、すでに孔昱は亡くなっていた。その弟が孔褒である。孔褒はあざな文禮ぶんれいといった。

 張倹が訪れた時、孔褒はちょうど留守にしていて、事情を知っていた末弟の孔融こうゆうが張倹をかくまってやった。ところが、党人の張倹を匿っているという事実はすぐに露見してしまって、孔褒は張倹を逃がしたものの、自分は党人隠匿罪で逮捕されることになった。この時、末弟の孔融は、

「――――匿ったのは自分ですから、逮捕されるべきは自分です」

 と言い放ち、兄は、

「――――いや、元節殿が頼ってきたのは自分である。お前に罪はない」

 と言って、弟をかばい、その母は、

「――――褒も融も私の生んだ子ですから、罪は私にあります」

 と言い出す始末。一家で死を争うという事態になった。党人隠匿は死罪なのである。結局、孔褒が罪をかぶって死んだ。他にも張倹を匿って死罪になった者は数十人に及び、家を捨てて逃げ隠れた者はそれ以上に及んだと言われている。

 正義のために死ぬことは、仁義であり、美徳であり、清流的行為以外の何物でもない。彼らはそれを分かっていて、あえてそうしたのだ。しかし、

「――――元節一人が死をまぬがれるために万人に災いが降りかかっている」

 同じ清流派の「八顧はっこ」に挙げられた夏馥かふくは、そう言って張倹の逃避行を非難した。

「八顧」――――〝八人の清義せいぎによって人々を導く者〟という意味が込められた清流派の称号である。夏馥は、郭泰かくたい宗慈そうじ巴粛はしゅく范滂はんぼう尹勲いんくん蔡衍さいえん羊陟ようちょくと共にその一人に選ばれた。

 夏馥はあざな子治しちという。張倹と同じ兗州の出身で、陳留ちんりゅうぎょ県の人である。

 彼は直接濁流派を批判せず、清濁の政争には関わっていなかったが、「八顧」に挙げられたその名声と張倹の件のとばっちりを受ける形で追われることになってしまった。彼の七言評は〝天下てんか慕侍ぼじ夏子治〟。夏馥にも懸賞金がかけられ、その行方ゆくえは知れない。

「――――あなたの正義は万民の意に沿うところです。ですから、人々はあなたを心から敬って、あなたを生かそうとするのです。正義の人が死んではなりません」

 孔褒に告げられた思いがあった。そして、張倹は逃げ続け、その懸賞額は上がり続けた。

 何とか死を免れて陳寔邸に匿われることになった張倹であったが、自分を匿ったために死んでいった者たちや今も塗炭とたんの思いで逃亡生活を送っている者たちのことを思うといたたまれないのだ。孔褒の言葉を尊重するならば、何としても生きねばならず、しかし、生きるには夏馥の言った言葉が心にのしかかるように重く、心に刺さるように痛い。それが心の中に深い影を落とし続けていて、生きる以上、その影が永遠に付きまとってくるのである。張倹はずっとその葛藤かっとうに悩まされながら生きている。

 このまま陳寔邸に居続ければ、やがて、陳寔にも死をもたらすかもしれない。

 去り時だと感じた。罪滅ぼしのチャンスももらった。吉利の計画に身を捧げることは、彼らに対する張倹なりの贖罪しょくざいの気持ちの表れである。尊敬する「三君」の陳蕃の御子息を助けるためにこの身を使い捨てることができるのならば、たとえここで命が果てたとしても、今まで辛苦の中を生きてきた意味を、価値を見出せる。

「私が張元節である」

 意を決した張倹は迷いのない顔を上げ、精気を取り戻した声で名乗った。

「グププ……でかしたぞ!」

 山賊と名乗る吉利のでっち上げ話にも、金藐は滑稽こっけいなくらいあっさりと喰い付いてきた。吉利はしまりのない金藐の顔を見て、奴の欲にかられた頭の中では張倹にかけられた懸賞金の額が思い出されているに違いないとあざけりの視線を送った。

 だが、利用する側としてはこの単純さは有り難い。ここで、もう一押し。

「金藐様のお力で、どうかあっしらをお上にお目通りさせてくだせぇ。口添えしてくだされば、賞金の半分を差し上げやす」

「半分?」

「へぃ。もし、駄目だとおっしゃるんなら、他をあたりやすが……」

 演技も駆け引きもうまい。吉利は本当の山賊のような下衆げす口調くちょうで金藐と渡り合っている。昔、悪友たちと放蕩ほうとうしていた頃の経験が役に立っていた。

 許劭が吉利のことを乱世の奸雄だと評したが、確かにそちらの才能も十分備わっているようだった。

 すっかり機嫌のよくなった金藐は、大きな金蔓かねづるを逃すまいと慌てて提案する。

「いや、待て待て。ワシらはちょうど張譲様の屋敷に行ってきたところだ。すぐに引き返して、特別にワシの部下ということにして仲介してやろう。グププププ……」

「そりゃ有り難てぇ。よろしくお願いいたしやす」

 なおも山賊を怪演かいえんする吉利は頭を下げながら、単純で貪欲な肉瓢箪を嘲笑あざわらった。

 半分でも大金だ。いや、相手は山賊だ。後で始末して、残りを奪い取るのもいいだろう。

「よいぞ、よいぞ」

 金藐は降って湧いた幸運に笑いをこらえられずに、上機嫌で言った。

 それが運の尽きであると知らず、吉利の思惑通りであると知らずに……。

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