其之四 詭計開陳
その日の夜は月が美しかった。満天の星が夜空を
いずれも
その居並ぶ清流派の面々を見てみると……。
まず、屋敷の主にして在野の清流派長老。
「これはせがれの
陳寔に紹介されて、二人の中年男が挨拶をした。周済と同世代というところだろう。陳寔が
「私は
「潁川
優雅な
「ほほっ。
陳寔が笑って言った。
「そうでした。どうも
「潁川の荀氏といえば、あの〝
「そうじゃよ」
目を見開いている
潁川潁陰の荀氏は戦国時代末期の儒学者で、
爽の父の
また、爽の
このように、荀氏と李膺は同じ清流という志を持ち、同郷というのもあって、互いに深い関係にあった。
荀淑には八人の子がいて、どれも英才だったので、人は〝荀氏の八竜〟と尊称したのだが、その八竜の一人が荀爽である。荀爽は李膺をこよなく尊敬し、李膺も常に荀爽を目にかけた。
荀氏は党錮に深く関わった一族である。荀爽も例外ではなく、濁流派の厳しい監視下に置かれることになった。そして、尊敬する清流派長老・陳寔が〝文範〟と号しているのに
陳寔の屋敷に滞在しているのは、十一歳になる甥を文範先生の門下生にするために連れてきたのがきっかけだった。
「――――慈明もちょうどこのくらいじゃったろう。『小神君』と言われて騒がれたのは」
荀爽は弱冠十二歳で『春秋』、『論語』に通じ、当時、
「――――この子は私以上に聡明だと思っています」
その甥っ子は〝
「――――それは楽しみじゃのう。神君の血筋がしっかりと受け継がれておるようじゃ」
「――――陳家にも
「――――うむ、うむ。元方の子が〝
「――――そうですね。それではしばらくお邪魔することに致します」
自らも留まって文範先生の
「私たちは党錮にかかっている立場なので表立って動けないが、何かできることがあれば協力したいと思っている」
荀爽の声は明朗で美しかった。
慈明の性質は外面がまばゆく
彼ら初対面の党人たちはその誰もが名のある清流人で、吉利たちよりもずっと年長であるにもかかわらず、
特に吉利に対しては特別だった。あの
その周済はまだ帰ってきていない。その他には支丹と厳恪、そして、一番の鍵となる人物、
「これほどの名士の方々がこぞって協力を申し出てくださるとは有り難い」
誰を使っても、それなりの効果はあるだろうな――――言いながら、吉利は思った。
「しかし、今回ばかりは清よりも濁、知よりも武で応じなければなりません」
「周済殿がまだ戻っていないぞ、吉利」
「構わん。周済殿には後で話せばいい」
周済は吉利のある密命を帯びて奔走している。
「では……」
吉利は皆の方に向き直った。
「武で応じると申しましたが、戦力的にも情勢的にも圧倒的に不利なのはご存じの通りです。時間もない。しかし、力ずくに襲撃したところで陳君を無事救い出すのはほぼ不可能。この状況で陳君の救出を望むのは、これは
吉利の情報分析は適切だった。だからこそ、この前置きが唯一無二のものとして、次の奇策を導く布石となる。
「
吉利は皆の顔を見渡して言った。一同は静まり返って次の言葉を待った。
班超という名将の名を持ち出され、いよいよ吉利に耳目が集まる。皆の注目が伝わって、
自分の
それを
そういう意味では最上の計だという自信もある。
「……つきましては、この役を元節殿にお頼みしたい。ここにお集まりの方々は皆名士ですが、濁流に一番人気なのは元節殿でしょう。これまでの負い目もあるでしょうが、陳君の救出に協力していただければ、その痛みも少しは和らぐのではないかと思います」
吉利の余りにも大胆不敵な作戦は聞く者を
「なっ……」
厳恪が問題発言の友人を叱責しようと身を乗り出したが、驚きのあまり、言葉にならなかった。ただ引き
「……
暗い表情で
吉利は顔色一つ変えず、沈黙の一同に、これが吉利という男だと無言で告げるのだ。
「感謝致します、元節殿。……良かったな、厳恪。ここで元節殿に遇わなければ、この役は君にやってもらおうと思っていた。君も濁流に人気があるようだからな」
「なっ……いや、
一大決心で厳恪は言ったのだが、
「そうだな、
「……にも?」
「名のある二人が餌になれば、これは大した
吉利は
「遅くなった。注文通り、いかにも悪そうな感じのを集めてきた。……どうしたのだ、厳恪? 皆も静まり返って?」
周済は凍結した空気を理解できず、反応の鈍い面々を見て不思議に思うだけだった。
周済が吉利の策に必要な男たちを連れ帰ってきた。吉利はその男たちに簡単な役目を説明するために、未だ
「お主と話したいという者を連れてきた」
「誰です?」
「
周済が告げた名に吉利も驚いた。ずっと土室に
「特に内密の話だそうだ」
「そうでしょうね」
周済の言葉に吉利も納得した。話の内容までは想像が及ばなかったが、それが重大なものであることを悟るのは
袁閎は吉利の父の世代で、四十代の男である。が、その顔にはただの隠遁生活には
「私は袁夏甫と申す」
「吉利です。どういった用件でしょうか?」
吉利は袁閎に同情する気にはなれず、自然とぶっきら棒な態度になった。
「周済から君が中心となって陳君を助けようとしていると聞いた」
落ち着いた口調で袁閎は話し出した。
「成り行きでそうなりました」
「どうして陳君が
「党錮事件が尾を引いていると見ていますが……」
「党錮か……」
その言葉に袁閎は目を
数々の清流派名士が濁流に呑み込まれて消えた。ただの政争の結果ではない。
脈々と続く歴史の裏にある秘密の抗争があった。
「遥か昔よりずっと国家の秘宝を巡る争いがあった。党錮事件はそれが引き起こした一つの事件に過ぎない」
「国家の秘宝……」
「天運をもたらすという五つの宝珠。〝
古代王朝「
五仙珠はそれぞれ代々の王朝によって、東西南北中央の
天に近い山頂で祭祀を行うことで、王朝に天の加護を願ったのだ。いわゆる
この五仙珠に関しては、政治の乱れと権力闘争で流出と奪還収蔵を繰り返してきた裏歴史があり、現在では、五つの仙珠の全ての行方が分からなくなっているという。
党錮事件が起こるきっかけとなった陳蕃と
しかしながら、クーデターは失敗に終わり、その仙珠も宦官に奪われたと見られているが、はっきりした確証はなかった。事件関係者は
「……これは国の最高機密で、今の清流派名士でさえ、ほとんど知ることではない」
「ほぅ、そんなものがあるのですか」
吉利はそんな国家の機密を聞いても、全く動じなかった。軽く聞き流したような感じである。そんなふうでも、
「その話が本当ならば、
吉利は袁閎の話を聞き、天下の情勢を照らし合わせることで、すぐに一つないし二つの仙珠の
実際、フィクサーとして朝廷を
「……ところで、どうしてそのような話を面識もない私に?」
「周済からそなたの話を聞いた。
袁閎もまた
それはまるで赤い星が周囲の星々をその引力で引きつけているかのようであった。
「能臣か
吉利は
「奸雄だと感じたら、ここに来てはいない。このような話もしない」
袁閎は吉利の目を見据えて答えた。袁閎は暗い土室に籠って生きてきた。外界の情報は時々周済らが届けてくれるが、自分の耳目に頼らなくなって、情報処理は心で行うようになった。吉利の話を聞いた時、袁閎の暗く閉ざされた心の宇宙が光った。
「それに、これを託そうという気も起こらなかった」
袁閎は
「それは?」
「全ての仙珠が所在不明というのが通説だが、実はこれが五仙珠の一つ、
黒光りする水晶玉。黒く染まった内部をたゆたう色鮮やかな雲。
袁閎はその宝珠を吉利に手渡した。
「まるで天空のようですね」
吉利は壁の
「袁氏が仙珠を隠し持っていたとは、納得です」
吉利は皮肉にも聞こえるような一言を
「確かに隠し持っていた。濁流派だけでなく、清流派にも我が家の者にも知られぬように」
陳蕃・竇武の決起から
秘密が漏れないように他の清流派たちにも知らせず、袁家の者でもその事実を知る者は僅かだった。
しかしながら、いかに濁流派から仙珠を守るためとはいえ、袁閎はこのまま仙珠を隠し通すことに疑問を感じた。国家の秘宝を私物化してよいわけがない。
「残念ながら、我が家にはこの仙珠を国へお返しし、私欲を抑え、忠義で国恩に報いようとする者がいない。陳逸殿を助け救おうとするそなたにその仙珠を役立ててもらいたい」
袁閎は一族の者ではなく、強き義心を示そうとする面識もない若者にその秘宝を託そうというのである。
自分が国に役立てないのなら、一族の者に国を救おうという気持ちがないのなら、この若者に天運を授ける手助けをして、亡き陳蕃への恩返しとしたい。
ところが、袁閎のそんな思いをよそに、
「よいものを見せてもらいました。お返しします」
吉利はそれを袁閎へ突き返した。こんな玉っころ一つで自分の運命が左右されてたまるか。現実主義者の吉利はそんな加護をいちいち当てにしないし、安易に信じもしない。世を見返すには、許劭の無言の挑戦に打ち
「天運は与えてもらうのではなく、己自身で引き寄せるものです」
国政を補佐する資質がありながらそれを出さず、心を隠し、身を隠した弱さを持つ袁閎は、突き返された黒水珠を抱えて、吉利という男の強さを知るのだ。
「水は流れてこそ清きを保つのです。留まっていては、清流も
陳蕃の思いに応えたいのなら、人任せにするのではなく、自ら立ってその後を継ぐべきだ。言葉は厳しいが、寒蝉の生き方を止めて、国に尽くせという吉利なりのエールである。弱気を託されたくはない。弱さはいらない。
「それでは失礼致します」
吉利は一礼してその場を後にした。反論の余地もなく、袁閎は常識では計り知れない吉利という若者の後姿を茫然と見送るだけだった。
濁流の
翌朝、許の郊外で吉利たちは
自分のボディー・ガードとして連れてきている弟の
「もう用は済んだ。これ以上の面倒事は御免だ。追い払え!」
早朝に帰郷した張譲に陳逸を引き渡して謝礼を受け取ったまでは良かったが、それが済むと早々に追い返されたのだ。この巨体での長旅は疲れる。その上、陳逸を自分の手で殺すことができなくなって、それが大きく機嫌を損なわせている。
「……でもよ、金になる話だって言ってたぜ、兄者」
馬車の中で受け取った報奨金を入念に数え直していた金藐は、その手を止め、
「何、金になるだと? ……グプ。よし、話だけは聞いてやろう。連れてこい」
再び金という単語に敏感に反応して、ころりと態度を
馬車が左右に大きく揺れ、肉瓢箪が車の窓からその丸い顔だけを
「何だ、その顔は?」
横柄な態度でその男たちを迎えた金藐は奇妙な格好の一団を見て、
「へぃ、あっしらは
「泰山の山賊が一体何の用だ? 金になる話と聞いたぞ」
「へぃ。実はあっしらは賞金首の党人を捕まえようと思いついて、地元の党人を探して兗州予州の
「グプッ……今、張倹と言ったか?」
その名に金藐が豚のような鼻をひくひくさせた。
「へぃ。捕まえたはいいものの、役所に突き出そうにもご覧の通り、山賊の身なんで、それもできずにいたわけでさぁ。……とまぁ、そんな時、偶然も偶然、党人を捕えたというあなた様の
「グププ……おい、それは本物なのか?」
一層馬車が揺れた。金藐が首を突き出して確認しようとする。
「へぃ、本物の張倹でさ。顔の分かる奴にちゃんと確認させやした。おい、連れてこい!」
黒塗りの仲間が後ろ手に縛られた張倹その人を引いてきた。金藐は馬車の窓からさらに首を突き出そうとしたが、すぐにつっかえてしまった。なおも巨体を押し付けたため、馬車が傾いて片方の車輪が浮き上がった。それほど興味をそそる名前なのだ。
「こいつが噂の張倹か、グプ!」
引き
党錮に関わって逃亡中の党人たちには懸賞金がかけられ、逮捕が奨励されていた。中でも、張倹には最高額の懸賞金がかけられていた。
張倹は兗州の山陽郡
侯覧は同郡
その上奏文は途中で侯覧の手によって握りつぶされ、中央には届かなかったが、張倹はこの郡内にはびこる悪党を一掃するべく執念を燃やし、何度も侯覧の悪事を訴え続けた。山陽郡内で清流派の張倹・翟超と濁流派の侯覧一党による激しい抗争が続いたのである。
この闘争によって、翟超も清流の「
翟超はついに侯覧の財産を没収し、張倹の上奏文は中央政府に届いたのであるが、濁流派に牛耳られた政府自体が腐っていた。逆に侯覧の訴えが正当として受け入れられて、翟超は罪に
翟超と張倹の行ったことは正義であり、当然の任務を果たしただけのことである。しかし、濁りのひどい世の中では、純然たる正義さえ
この山陽郡の闘争も第二次党錮の引き金となった。あべこべの世の中で正義を行った張倹が党錮にかかり、逆に悪人として追われる身となった。山陽郡から山深い泰山郡に逃れた張倹はそこから南の予州
張倹らと共に清流派「八及」の一人に数えられた名士に
孔昱は
張倹が訪れた時、孔褒はちょうど留守にしていて、事情を知っていた末弟の
「――――匿ったのは自分ですから、逮捕されるべきは自分です」
と言い放ち、兄は、
「――――いや、元節殿が頼ってきたのは自分である。お前に罪はない」
と言って、弟を
「――――褒も融も私の生んだ子ですから、罪は私にあります」
と言い出す始末。一家で死を争うという事態になった。党人隠匿は死罪なのである。結局、孔褒が罪を
正義のために死ぬことは、仁義であり、美徳であり、清流的行為以外の何物でもない。彼らはそれを分かっていて、あえてそうしたのだ。しかし、
「――――元節一人が死を
同じ清流派の「
「八顧」――――〝八人の
夏馥は
彼は直接濁流派を批判せず、清濁の政争には関わっていなかったが、「八顧」に挙げられたその名声と張倹の件のとばっちりを受ける形で追われることになってしまった。彼の七言評は〝
「――――あなたの正義は万民の意に沿うところです。ですから、人々はあなたを心から敬って、あなたを生かそうとするのです。正義の人が死んではなりません」
孔褒に告げられた思いがあった。そして、張倹は逃げ続け、その懸賞額は上がり続けた。
何とか死を免れて陳寔邸に匿われることになった張倹であったが、自分を匿ったために死んでいった者たちや今も
このまま陳寔邸に居続ければ、やがて、陳寔にも死をもたらすかもしれない。
去り時だと感じた。罪滅ぼしのチャンスも
「私が張元節である」
意を決した張倹は迷いのない顔を上げ、精気を取り戻した声で名乗った。
「グププ……でかしたぞ!」
山賊と名乗る吉利のでっち上げ話にも、金藐は
だが、利用する側としてはこの単純さは有り難い。ここで、もう一押し。
「金藐様のお力で、どうかあっしらをお上にお目通りさせてくだせぇ。口添えしてくだされば、賞金の半分を差し上げやす」
「半分?」
「へぃ。もし、駄目だとおっしゃるんなら、他をあたりやすが……」
演技も駆け引きも
許劭が吉利のことを乱世の奸雄だと評したが、確かにそちらの才能も十分備わっているようだった。
すっかり機嫌のよくなった金藐は、大きな
「いや、待て待て。ワシらはちょうど張譲様の屋敷に行ってきたところだ。すぐに引き返して、特別にワシの部下ということにして仲介してやろう。グププププ……」
「そりゃ有り難てぇ。よろしくお願いいたしやす」
なおも山賊を
半分でも大金だ。いや、相手は山賊だ。後で始末して、残りを奪い取るのもいいだろう。
「よいぞ、よいぞ」
金藐は降って湧いた幸運に笑いを
それが運の尽きであると知らず、吉利の思惑通りであると知らずに……。
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