其之三 清流の館

 予州には豊富な水をたたえる汝水じょすい潁水えいすい渦水かすい睢水すいすいという各河川があり、いずれも南東に流れ下って、大河・淮水わいすいに注ぐ。その淮水は予州を東へと横切って、お隣の徐州を抜け、大海へと流れ出る。予州には、これらの河川とその支流が網の目のように広がっている。

 この水の恵みで大地には穀物が豊かに実り、都の洛陽に近いことから人口も多い。国全体から見れば、予州は開けた都会と言える。予州の北東に洛陽が位置するので、中央の情報があたかも川を流れ下るように予州全体へと広がるのだ。

 このような地理的条件の良さも手伝って、学問も盛んで、結果、多くの清流人を輩出はいしゅつしたし、それと比例して濁流人も多く生み出した。

 予州の一番洛陽寄りが潁川えいせん郡である。潁川郡に属するきょ県はちょうど洛陽と平與へいよの中間地点である。清流派の大御所おおごしょである陳寔ちんしょくと濁流派の大物宦官である張譲ちょうじょうはどちらも許県の出身、許県にはそれぞれの屋敷があった。

 許県は潁水上流のほとりにあり、予州から洛陽に向かう多くの道がこの許県を通過する。

 どうしてこんな災難に巻き込まれる羽目になってしまったのか、未だ整然としない支丹を引き連れて、吉利ら一行は作戦本部と呼ぶべき目的の場所へ到着した。

 許県の中心街からは離れたところにあるつつましやかな雰囲気の屋敷である。

「さすがに顔が広い」

 吉利はここにはいない周済しゅうせいのことを褒めた。清流人の救済に奔走する周済の名は清流派名士たちの間でもよく知れ渡っていて、知人も多かったし、交遊も広かった。

「――――文範ぶんぱん先生にはいろいろお世話になっている。厚かましいかもしれないが、私も先生の弟子のつもりだ」

 許に向かうことになった時、周済が陳寔邸に行くことを勧めてくれたのだった。

 周済が用意してくれた紹介状のお陰で、吉利たちはすんなり陳寔邸に入ることができた。

 陳寔はあざな仲弓ちゅうきゅうといい、文範先生とは陳寔のことである。また、〝太丘たいきゅう〟という呼び名も陳寔のことを指す。陳寔がはい国太丘県の県長になって徳治で治めたところ、それを慕って隣県からも人が集まってきた。正と邪、善と悪を明らかにして人々を教えさとしたので、その言葉に心服しない者はいなかった。県民皆から信頼され、尊敬された。県長を辞去して帰る時は多くの民衆が別れを惜しんで、道端に延々と行列を作ったという。

 陳寔が太丘を去ってから、すでに十余年の歳月が流れているが、未だに太丘の民は陳寔を懐古して、昔日せきじつしのんでいる。

 陳寔は寒門の出ながら誠実に公務に励み、李膺りようほか多くの清流人と親交があった。最初の党錮とうこでは、陳寔も連座して投獄された経験を持つ。しかし、陳蕃ちんばん竇武とうぶに招かれて、竇武の副官となった時に起きた第二次党錮事件では、その罪に問われていない。清流人弾圧の風潮の中、陳寔ほど名のある人物が無事でいられるのには理由があった。

 清流対濁流の政争が激しさを増していたある時、張譲の父親が死んだ。葬儀が執り行われることになっても、当然ながら清流派名士たちが弔問ちょうもんに訪れることはなく、ただ陳寔一人が同郷のよしみで弔問に訪れた。その事がいくらかの好感に繋がったのか、第二次党錮の際、張譲は陳寔だけはその罪を免除している。

 陳寔自身の徳行が身を救ったのだ。党錮事件の最中、一時、清流派の杜密とみつの故郷である陽城ようじょう山麓さんろくに隠れていた陳寔は、その弔問で許に帰郷したのを契機に許に留まり、おとなしく隠居してしまった。

 張譲の目が届くところに落ち着いて、自分には何の策謀もないという態度を示して見せたのだ。それで、さらに目をつけられることもなくなった。

 引退してからの陳寔は文範先生として子弟を集めて教授する日々を送っているが、清流派名士の最長老として、依然、彼らの精神的支柱であり続けている。

 郷里の人々も陳寔を尊敬することはなはだしく、むしろ刑罰を加わるところと為るも、陳君のそしるところとは為らじ――――陳寔に非難されるよりは罰を受けた方がよいと、そう言い合った。

「さぁさぁ、ゆっくりしていきなさい」

 幾分背中を丸めているものの、よわい七十とは思えないくらい老健なおきなが会堂の前で吉利たちを迎えてくれた。その老人こそ、徳行のかたまりとでも言うべき、陳寔その人である。厳恪は緊張の面持おももちながら、えりを正して挨拶をする。

「先生、この度はお会いできて誠に光栄です。私は東平寿張の厳恪と申します。こちらは吉利、そちらは支丹です」

「ほぅ、ほぅ」

 今の状況を熟知している陳寔である。それが本名であろうとなかろうと一向に気にしない。ただ年に似合わぬ歩みの速さで、屋敷の一番奥まったところにある客舎に若者たちを案内しながら、一言断った。

「今日は客舎がいっぱいじゃから、済まんが、門弟たちが使っておる部屋に泊まってもらうよ。そこしか空いておらんでなぁ……」

「いえ、構いません」

 厳恪は神妙に返した。

「周済の紹介というからには、お前さんたちも追われとるのかね?」

「これから追われることになりましょう」

 吉利はこの清流派の長老を前にしても全く緊張する様子はなく、妙にほがらかに答えた。逆に支丹の方はさらに顔を暗くして、また溜め息をついた。

「ほぅ。若いのに難儀なことじゃのぅ。……じゃが、気をつけなされや。この辺りは張譲の手の者が目を光らせておるからの」

「ですが、その張譲と事を構えることになりそうなのです」

 吉利はそれがまるで面白いことのように言う。

「ほっ! 何とまぁ、大胆な……」

 驚嘆の声をあげた陳寔もどこか愉快そうに答える。

 張譲は宦官の双頭、王甫おうほ曹節そうせつに次ぐと見られている濁流派の実力者である。

 そんな張譲と対決するとは若者たちの血気盛んな気概が伝わってきて気持ちいい。ただし、それが無謀と言うに等しい行為であることもまた、陳寔には分かっている。

「なっ……張譲だと?」

 陳寔はこの若者たちを血気盛んと感じたが、この男、支丹だけは例外だ。張譲の名を聞いて、顔面蒼白そうはく、血の気を引かせて茫然としている。

「おい! 今、張譲と言ったか?」

 一転、最後尾を渋々続いていた支丹はその前を歩いていた吉利の肩をつかんで問いただした。

「ん……、言ってなかったか?」

「聞いてないぞ! ……ああ、何てことだ!」

 また一転、怒声が悲愴ひそう感を帯びる。吉利にはこの支丹のあわてぶりがひどく滑稽に見えた。

「そうだったか? ……まぁ、安心しろ。支丹には目立たない役をやってもらうから」

 吉利は真顔で平然と言うのだが、それは支丹にとっていささかのなぐさめにもなっていない。

「いくぞ、支丹」

「……ああぁ」

 支丹は動揺を抱えたまま、混乱する頭と重い足取りで何とか吉利の後に続いた。

 外廊がいろうつながった離れにある客舎の方が陳寔の屋敷よりも大きく立派だった。それは門弟や訪問客のためにあてがわれているものだ。

「先生、まだ子実しじつ様はご滞在でしょうか?」

 厳恪は周済が少し前に高名な清流派名士を陳寔邸にかくまってもらった、と言っていたのを思い出して聞いた。

「うむ。挨拶していくかね?」

「はい、是非」

「……子実? 誰のことだ、厳恪?」

海内忠実かいだいちゅうじつ張元節ちょうげんせつ。吉利、くれぐれも失礼のないようにな」

「おお、元節殿か」

 党人として追われることになった清流派名士たちは当時、それぞれの官位や名声、実績などをもとにランク付けされていた。

 主に政事に関心がある大学生たちが中心になって激しい議論が交わされた結果、全ての清流派人士の筆頭が竇武・陳蕃・劉淑りゅうしゅくの「三君」、次に李杜ら「八俊はっしゅん」、その次が「八顧はっこ」、「八及はっきゅう」、「八厨はっちゅう」と格付けられたのである。

 さらに、彼らのような有名人を簡潔に表現した七言評しちげんひょうが作られた。

 例えば、「八俊」に名を連ねる李膺の七言評は〝天下模楷てんかもかい李元礼りげんれい〟、杜密の七言評は〝天下良輔てんかりょうほ杜周甫としゅうほ〟といった具合である。その人を体現形容する一種のキャッチ・コピー、キャッチ・フレーズだ。

〝海内忠実張元節〟は兗州えんしゅう山陽さんよう高平こうへいの人、張倹ちょうけんあざな元節の七言評である。

 劉表りゅうひょう岑晊しんしつ陳翔ちんしょう孔昱こういく苑康えんこう檀敷だんふ翟超てきちょうと共に、「八及」――――〝八人の清義せいぎを慕っていく者〟の一人に数えられた名士であり、当然だが、党人で追われる身である。

 張倹は陳寔邸に匿われるにあたって、陳寔の一族という意味で陳姓を使うことを勧められた。それに自分の七言評の〝忠実〟を取って、陳忠ちんちゅうあざなを子実を名乗っている。

 ちなみに、「八厨」に挙げられた厳恪こと張邈ちょうばくの七言評は〝海内厳恪かいだいげんかく張孟卓ちょうもうたく〟で、厳姓は人の姓名で珍しくもないので、そのまま厳恪を偽名として使っている。

「そんな有名人と会えるとは面白くなってきた。来て良かっただろ、支丹?」

「お前、名前を〝不吉〟に改名しろ。お前といると次々と不吉なことが起こる」

「そうか? ぴったりの名前だと思うんだがなぁ」

〝吉利〟とは、縁起がよいという意味である。

「知ってるか? 張元節といえば、濁流派の目のかたきだ。いつ捕えられてこの世からいなくなるかも分からない御仁ごじんだ。そんな元節殿をこの目で拝めるんだぞ」

 吉利は喜色をにじませて言うが、それが余計なのだ。この男は自己中心的で、こちらの気などさっぱり理解していない。

「もう俺に話しかけるな」

 まともに相手にしていると、頭が痛くなってくる。収まらない動揺を逆なでするような無神経な吉利に、支丹の気分は悪くなる一方だ。

 廊下を通り抜け、吉利たちは客舎ではなく、その向こうの何もない広間に連れられた。

「子実よ、客人じゃ」

 陳寔はその何もない部屋で誰に向かうでもなく言う。誰もが怪訝けげんに思う中、陳寔は天井を見上げる。すると、はりと思われた横木の一本が下がって、梁上りょうじょうに通じる階段となった。

った仕掛けだな。……そうか、梁上の君子ということか」

 吉利は一人感心した。小声で言ったつもりだったが、そばにいた厳恪は聞き逃さなかった。

「しっ、口を慎め」

 厳恪が慌てて叱責しっせきしなければならなかったのは、〝梁上の君子〟という言葉には盗賊という意味も含まれていたからである。

 その言葉を生み出したのは、実は陳寔本人で、

「そのことがあって、梁の上に隠し部屋を作ることを思いついたんじゃよ」

 そう吉利に告げて、にっこり微笑ほほえんだ。どうやら耳の方も未だ壮健らしい。

 党錮事件が起こる少し前、宦官たちは清流派の動向を探るため、清流派官僚の屋敷に密偵を送り込んだ。当時、大将軍・竇武の副官であった陳寔の屋敷にもそれは現れて、ある日、梁上に潜んで接客中の陳寔の言動をうかがっていた。

 それに気付いた陳寔は、

「――――孟子もうしは人の性質は本来善良なもので、悪人とは悪い環境に染まってしまった善人のことであると説いた。その教えからすると、梁上の君子もそうなのじゃろう」

 孟子の性善せいぜん説である。その指摘を受けた密偵は梁から飛び下りて、陳寔に謝罪した。

「――――君の様子を見るに悪人とは思えない。心の貧しさがこのようなことをさせたのじゃろう。反省して、善人に戻りなさい」

 陳寔はそう説くと、密偵の男をゆるして帰らせた。

 そして、これは陳寔の知るところではないが、その密偵は陳寔に宦官を憎む気持ちはなく、あやしい点も全く見られなかったと張譲に報告したのだった。この口添えも陳寔が平穏無事な生活を送ることができている隠れた要因の一つであった。

 一方、その時の話し相手だった人物がこの話を広めたのだろう。陳寔の徳行が悪人を改心させたこの清流的美談は教訓も含めて世間に広がって、〝梁上の君子〟は泥棒や盗賊といった悪人を指す比喩ひゆ言葉にもなったのである。

 陳寔は不安定な足場をものともせず、しっかりとした足取りで細い階段を上がると、薄暗い梁上の隠し部屋へ入った。吉利たちもそれに続いた。

「お前さんに挨拶したいそうじゃ。周済の紹介じゃから心配はいらん」

 瞑目めいもくして座っていた初老の男はゆっくりと目を開けると、

「……申し訳ありません」

 なぜかあやまるようにつぶやいた。「八及」と称えられた者には相応ふさわしくない、精気の感じられない声だった。

 吉利は張倹と面識はない。しかし、その男が発した一言で、この人物こそが清流派の名士、張元節その人であると断定できた。

 人の性質とは少なからず言葉の上に表れるものだ。声の抑揚よくよう旋律せんりつ口調くちょうや言葉づかい一つに思考、感情、性格、個性といったものが含有がんゆうされている。許劭きょしょう橋玄きょうげんのような人物鑑定の達人たちはこれらの個人情報を読み取る能力にけている者が多い。吉利自身にもこの才があったのだろう。男の発した一言の中に含まれる高潔な意志と悔悟かいごの念を感受して、自分が知りうる張倹の情報とを照合した結果に吉利は自信を持った。

「私は東平寿張の厳恪と申します。以前から子実様のご高名をお慕いしておりました」

「……それは恐縮なことです」

 高名な張倹が目の前にいる。これは吉利にはこの上なく愉快なことであった。

「ハハハハ、そうか張元節殿か!」

「吉利!」

「いや、済まん。だが、元節殿と生きてお会いできるとは喜ばしいじゃないか」

 厳恪に叱られて、吉利はそう釈明した。別に嘘を言ったわけではない。半分は本心だ。

「沛国の吉利です」

汝陽じょようの支丹です。お会いできて光栄に存じます」

 言って、二人はうやうやしく拱手きょうしゅの礼をとった。

「……申し訳ない」

 やはり、謝るように言う。人知れぬ苦悩を抱え込んでいるのが言葉に滲み出ている。そんな重い空気を払いのけるかのように、吉利はうそぶくように言った。

「厳恪はここで休んだ方がいいな。ここは党人向けの一等客室のようだから」

 厳恪は吉利のマイ・ペースぶりに悪態をつきたくなったが、一方で彼の妙計に期待している自分がいるのを自覚して、怒る気持ちもせてしまった。


 夕刻。陳寔の屋敷から二里(約八百メートル)北西に行ったところになだらかな丘があって、吉利と支丹の二人はそこからの景色を眺めていた。別に夕陽を拝もうというのではない。敵情視察だ。

 吉利たちが許に到着するのとほぼ同じ頃、肉瓢箪にくびょうたん一行が張譲邸に入ったという知らせを受けたのである。夕陽の下、赤くいろどられた広大な屋敷を遠望している。

「なかなか手回しがいい。一応、葬儀の用意をしているようだな」

「奴らは何事にも用意周到なんだ」

 二人が視察に出かける前、都からの急報が陳寔邸にもたらされた。早速、例の清流派ネットワークが生きたわけだ。内容は張譲が身内の葬儀と称して洛陽を出たというものだった。

「――――さすが吉利だ。見事に当たっているぞ」

 厳恪は張譲が動く、と予想した吉利を驚嘆の眼差まなざしで見つめたものだ。

 広大な敷地をぐるりと高い土塀どべいが囲んでいる。四隅には大きな角楼かくろうがあって、見張りの兵が昼夜つめているようだ。

「門は一つ。入るも出るもここからか……」

「おい、吉利。本当に勝ち目はあるのか?」

「傭兵の数は屋敷の規模からいって、少なくとも百人はいるな……」

「屋敷の中に入られては手も足も出ないんじゃないのか?」

「問題は武器をどうするかだなぁ……」

「聞いているのか!」

「うるさいなぁ、戦いの基本はまず敵の様子を探ることからだろう?」

「お前、これがどういうことか全く理解できてないな。勝ち目なんてないぞ!」

「そんなこと誰が決めた?」

「くっ……、どう考えても分かることだろう? いいか、相手は張譲だぞ! 失敗は許されん。しくじったら、俺もお前も終わりなんだぞ! ……俺たちだけじゃない。一族郎党の首が飛ぶことになるかもしれん。……やっぱり、駄目だ。俺は降りるぞ」

「三年前もこんなだったな。また臆病おくびょう風に吹かれたか?」

 支丹が背を向けて去ろうとした時、吉利がその背中に冷徹な一言を浴びせた。

 視線はずっと張譲の屋敷をにらんだままだ。

 三年前のことである。ある日、吉利と支丹の知り合いの娘がとつぐことになった。

 当時は、結婚は親同士の決め事であった。自由に相手を選べなかったのだ。

 その娘は新郎の家を嫌がり、支丹に相談した。

「――――相手の家に忍び込んで、花嫁を奪おうではないか」

 提案したのは支丹だった。正義感が強かった彼は結婚直前に娘の身柄を奪い、この縁談を破談にしてやろうと考えたのだ。吉利はその話を持ちかけられ、それに乗っただけである。しかし、いざ決行を前にして支丹が躊躇ちゅうちょし始めた。

「――――やっぱり、これはよくない。家を通じて圧力をかけよう」

「――――ここまできて中止を言い出すなんて、臆病者のすることだぞ。それに袁家の圧力で縁談を止めさせても、それはお前の力じゃない。袁家の名声にもきずが付く」

 そう言われて、支丹は益々迷った。吉利は花嫁強奪という面白いイベントにやる気満々だった。

「――――オレたちが賊として花嫁を奪ってこそ、全てうまくいくんだ。オレたちの素性すじょうがばれるわけじゃない。互いの家にも迷惑がかからないし、その娘の望みも叶えられる」

 言い出しっぺは支丹だったが、作戦を立てたのは吉利であった。二人は顔をすみで黒く塗りつぶし、破れかぶれの衣服をまとって、しがない盗賊をよそおった。

「――――しばらく娘の身柄を隠しておけば、相手の家だって仕方なく新しい嫁を探すだろう。誰も損をするわけじゃない」

 結局、吉利に押し切られて、花嫁強奪作戦は決行された。事前に娘に決行日時を伝えてあったので、屋敷の外であっさり娘を強奪することに成功した。

 そして、追手をこうとやぶに逃げ込んだ時だ。支丹はいばらの中にはまりこんで動けなくなってしまった。

「――――吉利、手を貸してくれ」

 支丹はもがきながら、吉利に救いを求めた。追手は迫っている。吉利は何を思ったか、

「――――おおい、花嫁泥棒はここにいるぞ!」

 もがく支丹を尻目に、追手に向かって叫んだ。

「――――何を言うんだ!」

 あせった支丹は必死になってその茨から抜け出し、何とか追手から逃れることができた。

「――――助けるどころか、俺を売ろうとするとは、お前……!」

 激昂げっこうして詰め寄る支丹に吉利はすまして言ったものだ。

「――――に受けるなよ。あの一言で助かったんじゃないか。助けるのにはいろいろと方法があるってことだ。怒るよりは礼を言ってほしいな」

「――――ちっ、悪謀の天才め。礼を言う気にはなれんが、借りにしといてやる」

 状況が似ていて違うのは、今回の言い出しっぺは吉利だということだ。作戦決行を前に躊躇しているのが支丹であることは同じだが……。

 だが、今回の件については、それを臆病の一言で片付けられてはたまらない。規模が違う。冷静に彼我ひがの戦力分析をし、今後の影響をふまえた上で妥当な判断をしているのだ。

「……わざわざ負け戦をする奴が勇敢だとでも言うのか?」

 立ち去ろうとする支丹の足が止まった。吉利に背を向けたまま言い放つ。

「随分きもが小さくなったな、支丹。都で腑抜ふぬけたのか?」

「馬鹿を言うな。俺は名門の家を背負う身だ。これからも大きく生きねばならん。それでも、お前を友として思っているからこそ、ここまで付き合ってきたのではないか!」

 二人は視線を合わせることなく言葉を交わす。しかし、互いの言葉がやいばを交えている。

「その心意気には痛く感動した。だが、今、立ち去ろうとしているではないか。最初から負けと決めつけているところが小さい。今後を大きく生きようという御曹司様の言動とは思えないな」

「……」

「今のお前は〝支丹〟だ。名門のお坊ちゃまじゃない」

 支丹が振り向いた。茶化されたのを怒ったのではない。

『――――未来の大将軍に過去の英雄たんは付き物だ』

 吉利は支丹が迷う度、事あるごとにそう言った。名実共に備わってこそ真の英雄だ、と……。それは刷り込まれて、支丹の頭にみついていた。

「……勝算はあるんだな?」

 ただ、それだけを確認する。

「ある」

 そう断言してやることで、支丹もいくらか落ち着きを取り戻したようだった。

 真面目な性格なのだ。吉利はこの親友の性格をよく心得ていた。この名門の御曹司を悪友として引っ張り回したのも、実は吉利だったのだ。

「……思い出した。お前には借りがあったな。……何度も言うが、これが〝支丹〟としての最後だからな」

 支丹が戻ってきたようだった。

「分かっている。オレも〝吉利〟としての最後にするつもりだ。最後の相手が張譲なら申し分ない。派手に最後を飾ろうじゃないか」

「はぁ~……」

 支丹の口からはもはや溜め息しか出て来ない。吉利の計画に乗せられて、何度溜め息をついたことか。

『そんなことでは、すぐにお前を追い越してしまうぞ』

 吉利はそんな支丹の様子を横目に見ながら、心の中で告げるのだった。

『これはオレが世に出るための初陣ういじんでもある。負けるつもりはない』

 そして、吉利は運命の一大決戦を前に、自分自身にも言い聞かせた。

 西に傾く夕陽は真紅の色を増し、静かに暗闇が訪れる中、二人をかろうじて照らしていた。それを見ていた吉利の頭にふと浮かんできた流麗りゅうれいなる辞言じげん

陰影いんえい天地をおかし、赤日せきじつのまさにちんとす。我、清流の地にありて青雲の高高こうこう。忠は天牢てんろうに繋がるといえども、義はそれを捨つることあたわず。両手をいだして落をとどめ、心身をなげうちて洛を正さん」

 吉利は即興そっきょうで詩をんだ。詩をきょうじるのも吉利の一面だ。詩にたくした決意表明。

 いつしか視線は地平に沈みゆく太陽に注がれている。吉利の脳裏に許劭の言葉がよみがえる。

 赤き星。自分の中にある宿命。宿星。落陽を止めることも、洛陽の政局を正すことも、もはや不可能のように思えるが、不可能ではない。日はまた昇るのだ。

「こんな時に詩か?」

「大事の前こそ心に余裕を、頭に平静を保つことが大事なのさ」

 そして、クリアになった頭から出てきた言葉。

「兵は詭道きどうなり」

 吉利は兵法書である『孫子そんし』の中の一フレーズをすまして言った。戦いの基本は相手をあざむくことにある、という意味である。広く学問にも通じている。これも吉利の一面だ。

「今度は『孫子』か。全く、お前の頭の中はどうなっている? 一度見てみたいもんだ」

「ああ、いつか見せてやるよ」

 そう言って、吉利は声をあげて笑った。

「戻る前に張譲の屋敷の周りを歩いてみよう。もうすぐ日が暮れるから顔も隠せる」

 支丹はもはや吉利に反論するのは無駄な抵抗のように思えた。


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