其之二 同志たち

 「――――肉瓢箪にくびょうたんというのはこの地の奸賊・金藐きんびょうのあだ名です。陳蕃ちんばん様の大恩をあだで返した忘恩不義ぼうおんふぎやからで、弱き者から奪い取った財産で太った醜い豚です。肉瓢箪はごろつき共を雇い、弟の金虎武きんこぶに統率させていて、傍若無人ぼうじゃくぶじん、そ奴らに訳もなく殺された者もたくさんおります。まさに鬼畜の集団です!」

 吉利きつり陳逸ちんいつを捕えたという人物について尋ねた時、商結しょうけつ老人はこぶしを握りしめ、痛々しい顔を怒らせながら、最大限の誹謗ひぼうでもって紹介した。かつての主人である陳蕃を裏切り、辛うじて逃げ伸びた陳逸を捕えるという暴挙を犯したその男に余程恨みを募らせているらしかった。

 その肉瓢箪の一行はすでに北へと発ったらしい。昨日のことだ。

 陳逸はばい(木の板の猿轡さるぐつわ)で口をふさがれ、三木さんぼくされ、檻車かんしゃに押し込められて護送されているらしく、それは囚人移送の形式である。〝三木〟は手かせ、足枷、首枷のことである。檻車を取り巻くように何十人かの私兵が護衛に当たり、金藐自身も二頭立ての豪奢ごうしゃな馬車に乗って先導しているということだった。

 吉利は考えを巡らせながら、一行を追っていた。

 報告された護衛の数を考えたなら、一人では手を出せそうにない。商結老人は同行を願い出たが、吉利はそれを認めず、もう一度許劭きょしょうのもとへ向かわせた。

 吉利は許劭の言動に何か余裕があるように感じた。濁流派が清流派人士の暗殺に躍起やっきになっている昨今、陳逸は捕まった時点ですぐに殺されても不思議ではなかった。党人ならばなおさらだ。なのに、許劭は慌てる風でもなく、冷静に商結に指示し、わざわざ自分を紹介している。

許子将きょししょうは陳逸がすぐに殺されないことも、濁流派の動向も、清流派の情報網によって知っていたのではないのか? ……だとすれば、今回の陰謀も感知していたはずだ』

 汝南平輿じょなんへいよの許劭。梁国睢陽りょうこくすいよう橋玄きょうげん潁川許えいせんきょ陳寔ちんしょく。潁川潁陰えいいん劉翊りゅうよく荀氏じゅんし一族……。

 予州一帯に埋伏する清流人たちは互いに横の繋がりを持っていて、洛陽らくようとの間に巨大な情報ネットワークを形成していた。彼らはこの都と直結した情報網によって、都で起こった出来事は全て把握していた。それによって、自らの身に災難が降りかかろうとすれば、それを敏感にキャッチして身を隠すことができたし、他の清流人の庇護ひごや援助を受けて身の安全を保つこともできた。

 国都・洛陽は濁流にまみれていたが、清流が失われたわけではなく、正義派官僚も存在していた。だが、二度の党錮とうこは強い抑止効果となって、彼らをはじめとする清流派の口をつぐませた。党錮の後、濁流派の清流派に対する監視は一層厳しくなって、都の至るところで目を光らせ、耳をそばだてているのだ。迂闊うかつに何かを言おうものなら、常に死の影がつきまとう。家族一族もただでは済まない。沈黙せざるを得なかった。

 だからこそ、外に対しては十分警戒しつつも詳細な情報を提供する。同胞と一族を守るために。ことに、現司徒しとの職にある袁隗えんかいは汝南郡汝陽じょよう県の名族出身で、地元・予州への情報提供に献身的であった。洛陽からは常に各地方への早馬が出ていた。

『清流の情報網を利用する……』

 鋭く回転する吉利の頭の中では、少しずつ策が練られつつあり、

『立ちはだかる壁を突き崩してこそ道は開ける。オレは……オレは許子将の想像を超えてみせるぞ』

 吉利は沸々ふつふつと自信をみなぎらせて、自らの運命を手繰たぐり寄せようとしていた。

「おおい、吉利ー!」

 そして、汝陽県に入ってから間もなく、吉利の強い意志に引き寄せられるかのように二人の奔走の友が追いついてきた。

「久しいな、吉利。許子将殿から君のことを聞いてな……」

 年長の友人である男が馬から飛び降りて、笑顔で吉利の肩を叩いた。

「おお、厳恪げんかく

 吉利も久しぶりに見る友の顔に頬が緩んだ。〝厳恪〟と呼ばれた男は吉利と数年来の付き合いがある。穏やかな性格で、吉利よりも一回り年長だったが、年の差を超えた親交があった。

 彼は予州の北、兗州の東平国寿張とうへいこくじゅちょうの出身で、本名を張邈ちょうばくあざな孟卓もうたくという。

 度尚どしょう王考おうこう劉儒りゅうじゅ胡母班こぼはん秦周しんしゅう蕃嚮ばんきょう王章おうしょうと共に「八厨はっちゅう」――――〝八人の清義せいぎやしなう者〟に数えられる人物だ。まだ若いながらにそれほどの名声を得ていることが、彼の清流的行為の全容を表している。

 彼らのような名のある清流人は当然、濁流派に命を狙われる危険性があるので、身をひそめている間は偽名や代名を使い、その名で呼び合った。〝厳恪〟は張邈の代名である。

「吉利、こちらの御仁は何伯求かはっきゅう殿。またの名を周済しゅうせい殿だ」

 厳恪は喜びも程々に、連れの清流人を紹介した。

 何顒かぎょうあざな伯求はくきゅうという。荊州けいしゅうの南陽郡襄郷じょうきょうの人で、人物鑑定にもけていたことから橋玄や許劭と親交が深く、この汝南の地に潜伏していた。

 周済も厳恪も党人として追われる身でありながらも、危機にさらされている清流人やその家族、または貧民の救済に奔走する日々を送っていた。陳逸の件を聞いて急ぎ駆けつけてきたのだ。何顒の偽名の〝周〟も〝済〟も救うという意味がある。まさに今の行為を体現する偽名だ。

「君のことは厳恪からいろいろうかがっている。よろしく頼む」

 周済は自分よりもずっと年下の吉利に丁寧に応じた。その周済の態度に吉利は厳恪と同じようなものを感じていた。

『やっていることも同じだな。許子将の言う気骨ある人物が現れたというわけか』

 吉利の方は少々きつい冗談で友人との再会を喜んだ。

「ところで、厳恪。まだ生きていたのか。音沙汰がないんで、死んだものと思っていた」

「私はここで周済殿のお手伝いをしていたのだ。音沙汰がないと言うが、知らせようにも吉利の居場所は常に分からないではないか。度を越した風来坊ふうらいぼうのくせに……相変わらずだな」

「ハハハ、それもそうだ」

 吉利は厳恪が柔和にゅうわな顔をしぶらせるのを見て笑った。

「厳恪から聞いていたが、今ここで君に出会えたのは、まさに天祐というものだ」

 そう言って、周済もまた笑い、

「まさしく」

 相槌あいづちを打って厳恪も笑った。二人は許劭の屋敷に立ち寄って陳逸の件を知ったようだ。周済や厳恪などの清流人にとって、許劭邸は活動の中継基地として機能すると同時に、情報交換と伝達の場でもあった。

「この一大事にどこにいるのか分からない吉利が偶然この地に現れて協力してくれようとは、本当に運が良かった」

「オレはこの一大事に厳恪と会えるのは分かっていたぞ」

「……?」

 厳恪はその言葉の意味を深く考えている余裕などなく、話を本題へ戻した。

「それより、吉利。君がこの仕事を引き受けたということは、何か名案みょうあんがあるんだろう?」

「あると言えばある。ないと言えばない」

 吉利はました顔で言う。

「吉利、冗談を言っている時ではない。早く君の考えを聞かせてくれ」

「まぁ、そう焦るな。陳君はしばらく殺されはせん」

「どうして、そう言える? 殺されてしまってからでは遅いのだぞ」

「殺すつもりなら、もうとっくに殺しているさ。わざわざ護送などするものか。それに護衛が何十人も付いているぞ。追いついたところで、ただ飛び出して行っても、逆に捕まるか殺されるか、どっちかだ」

「しかし……」

 吉利はまだ何か言いたげな厳恪を手で制して、

「奴ら、どこへ向かう気かな?」

 見えない肉瓢箪らの行き先を問うた。その問いに周済が答える。

「常識で考えるなら、洛陽であろう」

「洛陽で何を?」

拷問ごうもんを加えるであろうな」

 周済は目を閉じ、沈痛な面持ちで訴えた。

「では、何を聞き出そうというのだ?」

「それは分からぬ。……分からぬが、陳太傅たいふの御子息だ。重大なことであろう」

「恐らくそうだろう。陳君が生かされているのは何か重大な秘密を握っているからだ。恐らく党錮に関わる何かだろう。奴らはそれを知りたい。清流派に漏らさずに……」

 自分自身に言い聞かすように呟く吉利の眼が、いつの間にか鋭くなっていることに厳恪は気が付いた。それはまるで暗濁あんだくの闇の中に光明こうみょうを見出そうとするかのようであって、遥か遠くの思考さえ見透かしてしまいそうだった。

 久しぶりに見た吉利の鋭さに、厳恪はやっと幾許いくばくかの安堵感を覚えることができた。そして、これなら任せられると確信するのだった。

「ところで、清流人の暗殺の話をよく聞くが、裏で糸を引いているのは誰かな?」

 吉利は話題を変えながらも問答もんどうを続けた。表情は幾分やわらいでいる。

「もちろん、王甫おうほ曹節そうせつだ」

 それは濁流派の両頭として君臨する宦官だ。党錮事件の首謀者であり、清流派のかたきでもある。

「そうじゃない、厳恪」

 吉利は首を振った。そんな分かり切った答えは求めていない。

かしらじゃない。その二人の右腕となって、実行犯をまとめている奴がいるはずだ」

「直接指示を出しているのは張譲ちょうじょうだという話がある」

 周済の口から出た名前――――張譲とは、近年頭角を現してきた有力宦官である。

 第一次党錮事件が起こる直前、司隷校尉しれいこういという首都圏警備長官の要職に清流派の重鎮であり、正義派官僚の李膺りよういていた。

 李膺はあざな元礼げんれいといい、予州潁川郡襄城じょうじょうの名族出身の豪族である。

 杜密とみつ荀昱じゅんいく王暢おうよう劉祐りゅうゆう魏朗ぎろう趙典ちょうてん朱㝢しゅうと共に、「八俊はっしゅん」――――〝八人の清義に傑出した者〟に挙げられ、多大な名声を博していた。「八俊」は陳蕃ら「三公」に次ぐ名誉である。

 各地の太守や異民族討伐に功績を挙げ、司隷校尉に栄転した李膺は管轄内の野王やおう県令という官職にありながら、極悪非道な張朔ちょうさくという男を摘発てきはつした。県令とはいわゆる県知事のことである。

 張朔は濁流派の権力を笠に着て誰も手出しできないことをいいことに、非道な行いで人々を苦しめていたが、正義感が人一倍強く、職務に実直な李膺はこれをあっさり捕えて殺したのである。人々は彼の正しく勇気ある行為に喝采かっさいを送り、まさに天下の模範だとたたえた。

 彼のような人間を志す若者が集まった洛陽の太学たいがく(国立大学)では、〝強権恐れざるは陳仲挙ちんちゅうきょ、天下の模範は李元礼、天下の秀才は王叔茂おうしゅくぼう〟という歌が流行はやったりもした。

 濁々とした者たちがのさばる政界で、粛然と風紀を守り、泰然自若たいぜんじじゃくとした態度で慇懃いんぎんに振る舞う李膺は若き清流人皆のあこがれとなった。李膺と交際することは全ての清流人にとっての名誉となり、一つのステータスとなって、彼に面会を求める者が後を絶たず、道にあふれたという。

 名実兼ねそろえた清流派大家の李膺に認められたならば、その将来を約束されたようなものである。しかし、その難しさから、龍門りゅうもんという急流を登り切ったこいは龍になるという伝説になぞらえて、この難関は〝登龍門とうりゅうもん〟と呼ばれるようになり、李膺に認められた者は、〝龍門に登った〟と形容された。

 このように、張朔排除の一件以来、李膺の名声は一世を風靡ふうびし、世間に清明な未来を期待させたのである。一方、これを知った張譲は怒り悲しんだ。張朔は張譲の弟だったのだ。以後、張譲は李膺に深い恨みを募らせ、清流派人士に憎悪ぞうおの炎を燃やすことになる。

 そして、第二次党錮で李膺を殺すチャンスが巡ってきた際、張譲は真っ先に李膺を殺して恨みを晴らしている。

「五年前の事件を主導したとう将軍・陳太傅は宦官打倒以外にもきっと何か他の目的もあったのだろう。だが、お二人は敗れて死んだ。竇将軍の御子息もその時に自殺した。事件に加担した清流派官僚も皆死んだ。宦官どもは陳君を捕えて拷問したが、口を割らなかった……」

 吉利は父から事件の顛末てんまつを聞いてある程度のことは知っていたし、故郷のはい国では、「八俊」の一人、朱㝢の一族が何者かに皆殺しにされるという凶悪事件も起きていたのだ。

 朱㝢、あざな季陵きりょう。沛国の人で、第二次党錮事件が起きた時は司隷校尉(首都圏警備長)の地位にあった。決起を前にして、陳蕃と竇武が強く推薦したのだ。

 朱㝢は二人の計画が成ったあかつきには、首都圏の非法も合わせて一斉摘発するつもりだった。しかし、朱㝢もまた、李膺らと共に捕らわれ、獄死している。

 その知り得た情報に自分の推測を重ねていく。

「陳君はその事件に隠された真相を知る可能性のある唯一の生き残りだ。それを聞き出す前に死んでもらわれては奴らも困る。殺したくても殺せないというわけだ。……まだ分からないことは多いが、奴らが何かを企んでいるのは間違いない。確かに洛陽は奴らの住処だが、極秘に事を進めるには不都合なはずだ。おとなしくしているとはいえ、都に全く正義の士がいないわけではないからな……」

 これは単に吉利の推測の域でしかなかったのだが、周済も厳恪もなぜか吉利の弁舌に引き込まれるように聞き入るのだ。

「奴らは極秘裏ごくひりに事を運びたい。秘密が漏れれば、どんなくわだても成功しない。竇将軍・陳太傅の例もある……奴らは狡猾こうかつだ。都では目立った動きを見せないのではないかな?」

 吉利は自らの考えを自信に満ちた表情で披露ひろうする。

「陳君は陳太傅の子息。つまり、大物の清流人だ。その陳君から何らかの話を聞き出そうとするならば、小物ではなく、奴らの中でもそれなりの人物が動くはず……」

 周済はハッとした。

「張譲自ら動くというのか」

 清流派の排除に急進的な人物として警戒されていた宦官・張譲の生まれは潁川郡許県。そして、この道はその許県へと続く――――。


 肉瓢箪を追う吉利たちは汝陽県に入っていた。すれ違う通行人からの情報によると、肉瓢箪の一行とは数刻の距離まで迫っているようだった。

 そこで、吉利が寄り道をしようと言い出した。潁水えいすいのほとり、汝陽県は名門・袁氏えんしの郷里で、そこに寄ろうというのだ。汝陽から許県までは馬を飛ばせば、一日足らずの距離でしかない。少々時間をつぶしたところで肉瓢箪らが許に入る頃には追いつける。周済も厳恪も袁家には知人がいたし、何より二人とも吉利の推理に納得してしまっていたので、それを了承した。

「……そうだな。私も久しぶりに同胞に会うとしよう」

「周済殿も袁家に友人がおられるのか?」

「うむ。袁夏甫えんかほという。いや、もう〝袁〟ではなかったか……」

「聞いたことがある。袁姓を捨て、モグラのような生活をしているとか……」

「ふ、モグラか……しかし、今の世の中、ああもなりたくなる……」

 汝南汝陽の袁氏といえば、全土に名を知られる名門中の名門である。

 章帝しょうていの時代に袁安えんあんが司徒の座にいたのを皮切りに、四代続けて最高職の三公を輩出はいしゅつして、〝四世三公しせいさんこう〟という肩書がまばゆい輝きを放つ。

 四代目にあたる袁隗、あざな次陽じようは現司徒であり、一族の多くが高官または要職の地位にあって、この時代、袁家の威勢は天地を覆い尽くすほどだった。

 袁閎えんこうあざな夏甫もこの名門一家に連なる者として将来を約束されていたが、袁閎は仕官を望もうとはしなかった。かの陳蕃も袁閎が清廉実直なのを知って、彼を推挙したことがあったが、やはり、辞退して政権に関わろうとはしなかった。

「――――かつて御先祖の袁安様は徳行で我が一族に名誉と幸福をもたらしたのに、情けないことに後裔こうえいの者たちはそれを忘れておごり、権勢を競ってばかりいる」

 袁閎の言う出仕しゅっししない理由である。

 袁閎の弟である袁忠えんちゅうあざな正甫せいほは行い清く、故に党錮にかかった人物だったが、党人を出してしまった袁氏が党錮の後も現在の地位を保持できているのは、宦官の袁赦えんしゃが濁流派に接近して、その財力に物を言わせて一族を庇護してくれているお陰なのである。

 袁安以来、袁氏は濁流勢力に対抗する清流派大家として人々の信望も厚かったのだが、今の袁家は没落を恐れるがあまり、袁赦頼みで、一族の繁栄のみを算段していると捉えられていた。そのため、威勢こそあるものの、清流にも濁流にもくみする〝混流派こんりゅうは〟と揶揄やゆされ、人望を失いつつあった。

 濁流の追及をかわすために、表向きではあるが、清流を貫いた袁忠を破門に処したことも、袁家人気が陰る要因の一つとなっていた。袁忠は仕方なく南方の地へ去ったと言われる。袁閎はそんな一族を恥じて、人気のない山奥に土室を作り、その中にこもって隠棲いんせいした。

 逸民的いつみんてき性格も強かったのだろう。誰にも、一族の者にさえ顔を見せようとせず、ただひたすら俗世から遠ざかろうとした。現実逃避だという声も聞こえなかった。

支丹したんは嫌っていたな……』

 支丹とは袁家の御曹司おんぞうしで、吉利のよき友人である。吉利はその親友が袁閎の話題になることを嫌がっていたのを思い出した。

「泰平の世になれば、彼も出てこよう」

 周済は汝陽に立ち寄った時には必ず袁閎の土室を訪れた。特に何かを語らうわけでもなく、ただ近況を記した手紙を差し入れと一緒に置いて帰るのだった。

「共に闘って欲しい人物ですが、惜しい。袁家の名声は大きな武器になるのですが……」

「名声というものは強みにもなれば弱みにもなる。狙われやすいからな。だから、今の袁家はおとなしい」

 吉利は厳恪に言って聞かせた。吉利は今の袁家は苦労しているとは思ったが、やはり、好感は持てなかった。

 しかし、そんな袁家にも意気盛んな若い世代が台頭しようとしていた。その内の筆頭である支丹と吉利は少年時代からの付き合いで、互いに気が合った。支丹は現在、ろう(官僚見習い)として出世の第一歩を踏み出したところだった。

 少し前、吉利は支丹から一時帰郷の報告を受け取っていて、それなら、挨拶あいさつがてらちょうどいいと、彼の悪巧わるだくみな部分が袁家に寄ることを後押ししたのだった。

「……そうだな。名が重ければ動きにくい。夏甫には袁氏の名は苦痛でしかないのだ」

 周済は吉利の言葉に同感だったが、党錮以来、積極的に濁流と闘おうとする者が少なくなっている現状が厳恪を寂しくさせた。

「夏甫は静かに生きるべき人間だよ。人にはいろいろある。時流にかなう者、適わない者。私のように名の軽い人間もいれば、彼のように名の重さに苦しむ人間だっている。陳君も重き名を背負っておられるからこそ難にわれたのだ」

「周済殿は許子将殿と同じだな。よく人の心が分かっておられる」

「私はお主の方こそ人の心を読むのがうまいと思うが……」

 周済はちらりと吉利を見やった。精悍せいかんな顔つきではある。この状況にあっても、不安や戸惑いの表情は見せない。しかし、表情からだけでは、内に秘めたる才能ははかれない。

 許劭から自分なりにこの青年をて欲しいと頼まれていた。許劭は何かを迷っているようだった。何を迷っているかは、はっきりと言わなかったが……。

『――――子将が迷うのは珍しい』

 そう思うのと同時に、周済の中にこの青年に対する興味が湧いた。

「私は周済殿を尊敬していますよ。危険をかえりみず、常に誰かを救おうとなさっている」

 厳恪は率直に周済を褒め称えた。

「ははは、単に身が軽いだけだ。軽い分、体がよく動く。私は陳太傅たち三君をはじめ、李元礼殿たち八俊、濁流と闘った清流派諸君を心から尊敬している。君も尊敬しているし、悪政に耐え生きている民も尊敬している。もちろん、陳君もだ。私は誰かに褒められるほど濁流と闘ったわけではない。せめて尊敬している人たちの手助けをしたいと思うだけだよ。世話焼きな性格なのだな」

「それは謙遜し過ぎでしょう」

 二人の会話を聞きながら、吉利は許劭が周済の性格を熟知した上で行動パターンを予測したのだと知った。

『初めから分かっていたのだ。周済の性格が陳逸を前にして黙って見過ごせるものではなく、危険をおかしてでも必ず助けに向かうと……。最初から気骨ある人物が現れることは分かっていたのだ……』

 吉利も的確に許劭の思考を読み取っていた。


 さすがに袁家ほどの名門ともなると、郷里の所有地だけで一県の規模に匹敵するのではないかと思えるほど広大だ。道の両脇に並ぶ田畑は一面緑色の稲穂で覆い尽くされている。全て大豪族・袁氏が経営している荘園しょうえんのものだ。そこで働く人々も精気に満ちていた。

 この一帯が〝袁盛郷えんせいきょう〟と呼ばれるのもうなずける話だ。何せ視界に入る景色と人間、その全てが袁家に属すのである。農民や奴隷の労働力と荘園の生産物。それらが富を生み出す。

 袁家のおもだった男たちは官僚となって全国へ散らばっていた。官職にない一部の袁氏と姻戚いんせき関係の者たちが郷里の荘園経営に従事して、彼らの政治活動を支えていたのである。

 これが袁氏のみならず、豪族たちの豊かな財政力を支える一端である。

 周済はさっそく袁盛郷の山林奥深くにある袁閎の土室に向かった。吉利と厳恪はその足で袁家の屋敷群の中で一際大きく立派な屋敷をおとなって、広々とした客間に案内された。品に満ちた装飾品で飾られた、現在の袁氏を象徴するような部屋である。壁には袁氏の繁栄を築くきっかけとなった祖・袁安の肖像画が飾られている。

 しばらくして姿を現したのは、みやびな衣装に身を包んだ威風堂々たる青年。

「おお、二人とも。御苦労だな、わざわざ」

「やあ、今度、濮陽ぼくようの県長になるんだって? 凄いじゃないか」

 厳恪が簡単な挨拶の後、さっそく彼の昇進を称えた。

 濮陽とは兗州東郡えんしゅうとうぐんに属する県である。規模が一万戸以上の大県の知事を県令というのに対して、一万戸未満の小規模な県の知事を県長という。しかしながら、大した実績のない弱冠じゃっかん二十歳の若者が一県の長を務めるというのは普通ではない。異例のスピード出世と言っていいだろう。この辺に袁家の影響力の大きさが窺える。

 このことは吉利にてた便りにも自慢げに書き添えられていたものだ。

 今、彼は暇をもらって帰郷してきたところだ。郷里の者に昇進を報告し、祝うためだ。

「ははは、ただの一地方官だ。なのに、俺が知らないうちに一族の者たちが大勢の賓客ひんきゃくを招いていてな、昨晩も盛大な祝宴しゅくえんがあったんだ。そんなに大騒ぎするようなことじゃないんだが、疲れてしまったよ」

 さりげない自慢がいやらしい。厳恪は世辞ではなく言う。

「謙遜するなよ。皆が栄誉と幸福にあずかりたいんだ。それを分け与えるのも貴族の務めさ」

「そうか。そう言われると、悪くないな」

「いやいや、立派なことだ。さすがは袁家の御曹司、支丹様だ」

 厳恪の賛辞には喜色満面の笑みで応えた支丹だったが、吉利のその賛辞は支丹の顔から途端に笑みを消してしまい、逆に端正な顔を引きらせた。

「その名で呼ぶとは……お前、俺の出世をぶち壊しに来たのか?」

「何を言う。友の出世を駄目にしたがる奴がどこにいる? わざわざ君を祝いに来たというのに、それはないぞ」

 そう聞くと、益々いぶかしく思える。何せ支丹は吉利の性格を嫌というほど知っている。支丹は大きな溜め息をついて腰を下ろした。

「……それで用件は何だ? ……最初に断っておくが、無茶な真似はできないからな。昔とは違うんだ」

「まぁ、そう怒るな。君の出世を祝う気持ちに嘘偽りはない。……なかったんだが、ここに来る途中で面白い事件に遭遇してな……」

 支丹は鋭い視線を送って吉利の口を封じようとした。面倒なことは言ってくれるな、という威圧だ。

「それは私が話そう」

 それに気付いたのか気付いていないのか、厳恪が事の子細を話し始めた。

 黙って成り行きを聞いていた支丹は話の途中で首を振り、最後まで聞き終える前に、

「……話は分かった。だが、駄目だ。力にはなれん」

 祝杯のさかずきを床に置いて、拒絶の意思を示した。

「おいおい、どうした? 出世祝いを兼ねて一暴れしようではないか」

「どこが出世祝いだ? ……いいか、俺はもう官吏なんだぞ。昔と同じようにできる訳がないだろう。〝支丹〟はもう卒業したんだ」

 少年時代、吉利はこの若き御曹司を〝支丹〟と呼び、よくつるんでトラブルを起こしたものだった。支丹とは袁家の一族であることを隠すための偽名であり、水面下で党人の救済活動に従事するための変名である。

 つい二年ほど前まで、支丹は周済や厳恪と協力して、窮地の党人たちを逃亡させることに力を注ぎ、そのために袁家の財力を出し惜しみしなかった。

 吉利がこの袁家の御曹司に〝支丹〟という名を付けたのはいくつか理由があったが、一つには誠意を持って支援に従事するという意味がある。

〝丹〟の字には赤という意味があり、丹心は赤心、つまり、真心まごころと同意である。

 そういう解釈からすれば、悪くない名のように思えるが、支丹本人はこの名を嫌がった。ところが、吉利や厳恪がこぞってそう呼ぶので、いつの間にかそれが定着してしまったのだ。支丹は偽名を使いながらも家柄を気にすることなく友人と付き合ったので、人望があった。吉利は名門に連なりながらも型破りで正義感の強い支丹に好感を抱き、互いに結託して、濁流派の郎党と度々たびたび衝突した。

 それでも、少年同士のそんな遊侠事は中央政界から見れば取るに足らないものだったから、何か問題を起こしても袁家の権威と財力でどうとでもできたのであるが、現在の支丹はすでに政界へと足を踏み入れており、彼の一挙一動が袁家の将来に関わってくる、責任の重い立場にあるのだ。

 加えて、陳蕃の子息を助けるということは確実に中央政界にはびこる濁流派の面々ににらまれる行為であって、もしも彼らの逆鱗げきりんに触れ、彼らが強権を発動したならば、いかに宦官・袁赦の庇護のもとにある名門袁氏とはいえ、一族皆殺しという最悪のシナリオもあり得る。党錮の大弾圧をかんがみたら、一族を破滅に導きかねない行為は絶対につつしまなければならない。

「お前もそろそろ家のことを考えて行動したらどうなんだ? お互いもう大人だ。お前ももう〝吉利〟を卒業……」

 言い終わる前に吉利は支丹の忠告を手で制した。そして、さも無念そうに首を振る。

「何ということだ。よもや支丹の口からそんな言葉が出てくるとは思ってもみなかった。家のことを考えろとはよく言ったものだ。大丈夫たるもの、家よりもまず国家のことを考えるべきではないのか? 国なくして家はない!」

 支丹は吉利の激昂げっこうぶりに気圧けおされた。いや、吉利が言う大義に気圧されて、くちびるを噛んだ。

「……君を尊敬できる人物だと思って今まで付き合ってきたのに、どうやら袁家の御曹司は都で上の御機嫌を伺うだけの小人しょうじんに成り果てたらしい!」

 吉利は猛々たけだけしい感情を怒声に変えて吐き捨てた。厳恪はただ驚いている。

「お前に言われたくないわ! 未だ放蕩三昧ほうとうざんまい、俺の苦労も知らんくせに!」

「何と情けない! 世間が袁家のことを何と言っているか知っているのか?」

「ぐっ……!」

 何とか抵抗しようとした支丹だったが、その吉利の詰問きつもんに思わず声を詰まらせた。

 世間の風評ではよく政界のことが語られる。当然、名門の袁氏のことも話題に挙がる。国家のために破滅を恐れず、正義を貫き通した党人たちを人々は尊敬してやまなかった。

 例えば、こんな話がある。四年前、第二次党錮事件が起きた際、宮中や首都圏の不法を摘発する侍御史じぎょしという職に景毅けいきという者が就いていた。その子の景顧けいこは清流派官僚として、天下の模範と謳われた李膺の門下生であった。

 党人の思想を受け継ぐからという理由で、第二次党錮以来、その災禍さいかは一族郎党だけでなく、その門生にまで及んだのだが、名簿に名前がなかったことから運良く連座をまぬがれることができた。ところが、景毅は李膺が立派な人物だからわざわざ息子を門生にしたのだと言って、おおやけに党人を敬意する発言をし、名簿に名前がないからといって処分されないのはおかしいと自ら官職を捨ててしまったのである。

 また、時の度遼どりょう将軍・皇甫規こうほきも自分と党人との関係を明かして、毅然と逮捕を願い出た。

 彼らの行為は党錮を断行した政策を非難するものであり、義を重んじるものであった。人々は彼らの清々すがすがしい行為に拍手喝采かっさいを送ったものだ。清流人は党人として罰せられることで名誉を得たのである。

 一方、袁家で党人となったのは袁忠くらいなもので、代々の清流派名家という大看板のわりに被害はほとんど出なかった。それが意味するものは……。

「――――袁家は宦官に取り言って難を逃れたらしいな」

「――――何とだらしない。名声はあっても、心意気はなかったのだな」

「――――国家の再建よりも一族の栄華か」

「――――趨利すうりを選ぶとは、袁家にはほとほと失望した」

「――――全くだ。これでは名門の名折れだよ。御先祖様もうかばれまい」

 ちまたでひそひそとささやかれる人々の袁氏に対する反感は支丹も感じてはいた。確かに袁家には家を守るという名目があるのだろうが、そんな小さな義では人心を得るのは難しかった。支丹自身、保守的態度に逼塞ひっそくする今の袁家が好きではなかった。

 だからこそ、その反動が吉利らとつるんで羽目を外す要因にもなっていたのだ。

「そんなことなら、鳴かないせみの方がまだマシだ! 帰るぞ、厳恪!」

 吉利は大袈裟おおげささかずきを投げ捨てて席を立った。

「ぐっ……!」

 そんな態度よりも、吉利の発した言葉がまた支丹の心を強烈に刺激した。

〝鳴かない蝉〟とは、かつて「八俊」の杜密が同郷の劉勝りゅうしょうを指して言った言葉である。

 杜密、あざな周甫しゅうほ。潁川郡陽城ようじょうの出身の清流派官僚で、地方太守を歴任し、その先々で宦官の子弟であろうと悪辣あくらつな者はどしどし弾劾した。態度は質朴しつぼく、名声は李膺に次ぐと言われ、最終的には太僕たいぼくというポストにまで昇った人物である。

 官僚の最高職である三公の下には九つの重要職があり、それを〝九卿きゅうけい〟という。

 太僕は車馬に関する全てを扱う九卿職の一つで、このような中央の要職に杜密が就くことは、まさに適材適所と言えた。杜密は節義を重んじ、国政を正しく輔弼ほひつできる者として、〝天下良輔てんかりょうほ〟と評され、〝天下模楷てんかもかい〟と評された同郷の李膺と合わせて〝李杜〟と並び評されるほどの人物であったからだ。杜密は第二次党錮事件の災禍の中で命を絶ってしまったのだが、生前は毅然と濁流派と対決していた。

 一方、劉勝はあざな季陵きりょうといい、隠棲しながらも、清高の士と讃えられていた人物である。しかし、再三の出仕要請を拒否して隠棲を続けたために、謹厳きんげん実直な杜密は劉勝のことを「善を知れども称えず、悪を知れども叱らず」と言って批判した。

 何が良くて何が悪いか知っているくせに、国のために働こうとせず、自分の保身にのみ気を配っているのは罪人に等しい――――と、多少過激に非難したのである。そして、国家のために口を開こうとしないから、彼を〝鳴かない蝉〟と皮肉ったのだ。つまり、価値がない存在という意味である。恐らく共に闘ってくれないもどかしさがあったのだろう。

 この予州だけでも、人格と才能を兼ね備えながら、一切政務に関わろうとしなかった逸民的人士として、汝南郡の袁閎・袁弘えんこう兄弟、黄憲こうけん、潁川郡の鐘晧しょうこう李曇りたんといった人物が挙げられる。他州でも、彭城ほうじょう国の姜弘きょうこう予章よしょう郡の徐穉じょち陳留ちんりゅう郡の申屠蟠しんとばんなどが名を知られていた。

 この内、袁閎・袁弘、黄憲、李曇、姜弘、徐穉は陳蕃の推挙や招聘しょうへいさえも辞退している。彼らは皆名士だが、それぞれの理由で政事に関わろうとはしなかった。

 すなわち、吉利の鳴かない蝉発言は、隠遁いんとんして富貴を求めない分、支丹よりも袁閎や袁弘の方がまともであるということを言ったのだ。

 袁弘は袁閎の弟で、あざな劭甫しょうほといった。兄とこころざしを同じく袁姓を捨て、隠遁生活を送っていて、やはり、支丹は嫌っていた。

「正義を忘れてしまった男に用はない」

 憮然ぶぜんとした態度で席を立った吉利は、沸き上がる感情を必死で抑え込んでいる支丹に寂しげな視線を落とした。

「……見損なったぞ、支丹。家門に相応ふさわしい英雄のうつわだと思って付き合ってきたが、所詮しょせんは器がきらびやかなだけの偽物だったか。袁安公も黄泉よみでお嘆きだろう」

 吉利は最後にそう吐き捨て、壁の袁安に一礼して祝宴を中座しようとした。が、その一言はとどめとなって、痛烈に支丹の心を揺さぶった。

「……待て、吉利」

 苦虫を噛み潰したかのような表情で、支丹は言葉を絞り出した。もともと支丹にも正義の心はあるのだ。吉利よりも強く、大きく。

「そこまで言われては黙ってはおれん!」

 支丹が吉利を睨んで言った。支丹がこの名を嫌う理由は〝支〟が支流を連想させるからだ。俺は本流だというプライドが強くある。

「……力を貸してやる。だが、これが〝支丹〟としての最後だぞ。いいな!」

 立ち上がって宣言した。だが、そんな苦渋くじゅうの決断を受け止めた吉利の方は、

「……ほらみろ、厳恪。オレの言った通りだろう。支丹は実にいい奴だ」

 けろりと態度を変えて、一変、顔をにやけさせて言うのだった。

「そのようだな」

 笑う厳恪。支丹はきつねにつままれたように茫然ぼうぜんと立ち尽くしている。まんまと吉利にのせられたのだ。


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