其之一 吉利
中国後漢末期――――政治は乱れに乱れ、前・後
その混沌の時代に、強烈な熱を発し、光輝くいくつもの星が生まれた。
中でも、一際大きく
「赤か……」
「赤……?」
「そなたの瞳の深淵に赤い星が見える……」
「つまりはどういう
顔は薄汚れ、髪も服装も乱れている。だが、そんな外見の印象はこの男の〝
「治世の能臣、乱世の
そう、答えた。青年はじっと男の眼を見据える。鋭い眼光が男を射たが、動揺はない。青年は口元に
『
その中でも特に、許劭の卓越した
さらに、許劭が行う月に一度の特別な人物批評は〝
そうであるから、許劭のような高名な人物から良評を得たならば、大抵は立派な人物として
〝孝廉〟とは、孝行者で清廉な人物を毎年各郡国から一人中央に推薦する官吏登用制度のことである。〝
「あの青年……」
許劭は屋敷の門を出て行く青年の後姿を窓越しに見つめていた。
『
許劭は心の中で青年を改めて評価していた。
『清平の奸賊、乱世の英雄と言うべきかもしれん……。それだけに人の下で甘んじる男ではない。むしろ、人の上に立つ男だ。必ずや名を成すに違いない』
治世の能臣、乱世の奸雄――――平和な世の中であれば、国家を支える有能な功臣となるが、乱れた世の中においては、野心に生きる
許劭は青年の瞳の中に、その可能性を見て取った。危うさが秘められた光を……。
許劭は手にした紹介状をもう一度開いてみた。
若き人傑を見つけたので紹介する――――そんな短い一文だけが書かれている。
隣国の、よく知る人物鑑定家からのものである。
『
思ってはみたが、その短い文面からは
漢王朝は火徳である。それは、この国のシンボル・カラーが赤であることを表す。ならば、輝かしい赤い
『赤は血の色だ。やがて戦乱が起き、多くの血が流されるのか……』
そうでなければいいと思う。しかし、今はまさに乱世への入り口なのだ。日ごと、乱世に近づいている。
「天はあの男を欲しているのか?」
許劭は空を見上げた。澄み切った空の青が赤い未来を打ち消すかのように、少しだけ許劭の心を
漢王朝は郡国制という行政制度を
広大な国土は十三州に分けられ、その下に郡と国が設けられた。時によって郡国の新設、統廃合があったが、後漢中期の時点では百余りの郡国があった。
郡国の下の行政区分が県である。さらに、その下に〝
便宜上、王が封じられたところを〝国〟という。ただし、中央集権制が確立していて、王に実権はないので、郡も国もほぼ同等である。
〝清流派〟とは、当時、政権の中心にはびこり、世を濁らせる主犯であった宦官と
「――――徒党を組んで陛下に
皇帝を言葉巧みに
以来、「党人」は清流派の不名誉な代名詞となり、弾圧の対象となってしまう。
濁流派のこの急進的な動きに焦った清流派は、二年後の
関係党人はことごとく
当然政治は益々腐敗し、世の中の流れは濁っていったが、二度の弾圧で
『乱世の奸雄とは面白い。わざわざ来た甲斐があった』
馬に揺られるその青年の名は
『許子将は当てにできんな……』
そんな思いが浮かんできた。許劭の
許劭が
当てにできないというのは、許劭が自分を推薦してくれないだろうということだ。
『オレのことを奸雄と言ったくらいだ。まず無理だな……』
吉利はしばしの間、思案に暮れた。馬の背に揺られながら、
彼は少年の頃から悪知恵に長けた
青年に成長しても、不良仲間たちと遊び回る毎日だったのだが、仲間の一人が仕官した時から彼も考えるようになった。
『――――そろそろ、上辺だけしか知らずにオレのことを
だが、その上辺だけの評価が邪魔をした。常に悪評が付きまとう彼は当然ながら、孝廉に挙げられる可能性はない。仕官するのに残された道は金と権力に
吉利青年の家は裕福な名家だったので、前者の方法を採ることは容易だった。
が、この吉利の
自身の才気には自信がある。官僚となっても十分やっていけるだろう。だから、吉利は人物鑑定の名人たちに会って評価を
世辞や過大評価はいらない。
わざと外見を
超一流の鑑識眼を持つ許劭を訪ねた真の理由――――自らの本質を知ること。
自分でも気付いていない、心の奥底に眠るもの……。
「やはり、橋公に頼んでみるか……」
吉利はもう一人の清流派名士の名前を口にした。
少し前、吉利が橋玄を訪ねて鑑定を求めた際、
「――――そなたこそ混乱の今の世を救える人物だ」
と、彼もまた吉利の素質を高く評価した。そして、自分よりも優れた眼を持つ人物がいると許劭を紹介したのも彼なのだ。
「さて……」
その時、吉利がすれ違った老人を振り返ったのは、その予兆だったのかもしれない。
清流の水源は春秋時代の
「――――親に孝、兄に
彼は親に孝行を尽くし、年長者に従順であるという家族道徳こそが社会秩序の基盤であり、秩序を保つためには礼節が重要であると考えた。
「――――身を
この徳治主義こそが清流の
儒学は時を経ながら熟成し、前漢の
家が百戸ほど集まったのを〝里〟、里が十戸ほど集まって〝郷〟といい、その郷里の人々は家族的団結をしながら生活した。儒学の教養豊かな父老たちは郷里の人々の面倒を見ながら、
ところが、前漢の終わり頃から皇帝の
彼ら宦官・外戚は権力の保持と私財を蓄えるのに
後漢の時代になっても、幼少・傍系の皇帝に寄生する形で権力を握った濁流派の悪政は
それは中央に限った話ではなく、地方の豪族社会にも影響を及ぼしていた。
豪族は大地主である。漢は農村社会の上に成り立っている
豊かな者は借金・借財などを理由に貧しき者の土地を奪い、貧しき者は地主たちの奴隷と化すか、住み慣れた土地を追われて
大土地所有者となって経済的に豊かになった豪族は学問を学ぶゆとりもあって、役人になって権力を手に入れる。もちろん、貧民にそのようなチャンスはほとんどない。豪族出身の官僚の中には貧民の救済に尽力する清流派知識人もいたが、多くは宦官や外戚を見習って、私腹を肥やすことに終始する金権主義の濁流派であった。私兵を雇い、農村社会を我が物顔で
そして、ここは平輿県のある豪族の屋敷。増築された邸宅。
この屋敷の元の主人は国家反逆罪に問われ、世を去った。所有地も財産も全て国に没収されたはずだったが、賄賂を駆使して、今の主人は屋敷と
「グフフ。まさに飛んで火に入る夏の虫だなぁ。この屋敷がワシの物になったのを知らなかったのか?」
後ろ手に縛られて
本当の名を
「おっと、
「この泥棒豚め、気安く声をかけるな! 濁流に知り合いはおらん!」
「グッ……お前のような罪人に泥棒呼ばわりされたくないわ。この屋敷はちゃんと買って手に入れたものだ。お前の父が
金藐は下品な笑い声を知人に送り、罪人と
「そう怖い顔をするな。お前の顔を見知っていたからこそ、こうなったのだ」
金藐は昔、清流派の頂点に立っていた陳蕃という人物の下で働く料理人だった。
その頃、すでに宦官たち濁流派が専横を極めており、陳蕃はそれを憂いて宦官
「しかし、
金藐はあからさまな皮肉を投げつけた。汚いボロを
陳逸は遥か南方の流刑地・
「ふん。お前こそ昔とは比べ物にならぬほど
「罪人のくせに何をほざくか。昔のよしみで、と言いたいところだったが、お前の父は大罪人。息子のお前も罪人だ。天下国家のため、これを見逃すわけにはいかんなぁ、グフフフフ」
「何だと、父を
陳逸は怒りに身を任せ立ち上がろうとしたが、すぐさま金藐の私兵に取り抑えられた。抑えつけられながらも、死ぬ間際まで濁流を
「この醜い豚野郎め、お前のような畜生は肉料理にされるのが関の山だ! それまで精々肥えておけっ!」
「グヌヌ……! こいつを閉じ込めておけ! 用が済み次第、ワシの手で首にしてやる!」
金藐はすぐにでも殺したい衝動を抑えながら叫んだ。自分のことを豚と
陳逸は連れ去られようとする間にも
「口を塞ぐのも忘れるなっ!」
そう私兵に命令した。そして、別の私兵にも命令を下す。
「洛陽へ早馬を出せ。陳逸という手配者を捕縛したゆえ、すぐに護送する、とな」
洛陽は後漢の都――――つまり、宦官ら悪の
吉利は平輿で一泊した。宿を
「そりゃ、確かかね?」
「何じゃ、
その輪の中心。どうやら、この騒ぎの中心人物らしい白髪頭の老人が、少ししゃがれた声で
「御家族は遥か南方の交州に流されたと聞いたぞ」
「あっちは
「そんなとこから生きて戻ってきたってのかよ?」
「まさか脱走してきたのか?」
別の野次馬たちが次々と口を挟む。
「生還されたんじゃ! 儂は小さな頃から逸様をよく知っとる。別人のようにやつれておいでじゃったが間違いない! あれは逸様じゃ!」
その老人は涙目で力説した。それに動かされたかどうかは分からないが、
「……あながち、この爺さんの言っていることは本当かもしれんぞ。余り大きな声では言えないんだが……」
また別の男が割り込んできた。群衆は今度はその男を中心にして耳をそばだてた。男は小声で話し出す。
「これはお役所で聞いた話なんだが……、今……こっちに重罪党人が逃げてきているらしくてな……。どうやら、その男……ずっと南から逃げてきたらしい……」
「……!」
群衆がざわめく。この男の話の
「それじゃあ、やっぱり……」
「ほれみろ、儂の目に狂いはない。逸様は戻って来られた」
「だったら、逸様は役人に捕まったのか?」
その問いを受けた老人の顔が
「……いや、ありゃ違う。肉瓢箪の兵じゃった。何とかお助けしようと思ったんじゃが、このざまじゃ」
老人の顔や腕には痛々しい
「あいつかっ!」
「くそっ! 俺が
それから人々の話題は肉瓢箪の悪口に集中して、白髪の老人は人だかりを脱し、吉利の方へ歩み寄ってきた。
「もしもし、吉利様というのはあなた様のことでしょうか?」
橋玄の屋敷がある
「私めは名を
その丁寧な物腰は先程の
「実は、あなた様のことは
「許子将殿から?」
その老人の口から許劭の名前が出てきて、吉利は
吉利が許劭邸を去った後、商結が許劭と対面したとして、どうして許劭が自分のことをこんな老人に話したのか。
「はい。是非ともあなた様に御相談したきことがあるのでございます。平輿の陳逸様をご存じでしょうか?」
「先程話していた人物のことだな?」
「はい。陳逸様は今は亡き陳太傅様の御子息であられます」
「おお、陳太傅の……」
清流派の大家にして、宦官の
陳蕃はここ汝南郡平輿県の出身である。各地の太守や中央の要職を歴任しながら、濁流勢力と政争を繰り広げ、第一次党錮では
その後、皇帝の教育係である太傅の職に返り咲いて、老骨に
ところが、それは失敗に終わり、このことが第二次党錮の直接的原因になってしまう。先の処分が甘かったことを反省した宦官たちは、今度は完全に口を塞ぐべく動いた。死人に口なし。竇武・陳蕃を謀反人に仕立て上げ、逆に誅殺したのだ。
この事件の後、竇皇后は幽閉され、竇武の一族は老若男女問わず遥か南方の
なお、皇族の中でも最も学識があり、三君の一人に数えられた劉淑、
さらに、この事件は濁流派たちの警戒心と憎悪を一層増大させて、それが翌年の第二次党錮の大弾圧となって表れる。未だ残る
新たに罷免、追放された者も数多く、その中で濁流側に暗殺された者も多い。
党錮の大虐殺から四年が過ぎたが、清流派人士の完全
『陳逸も奴らの標的のはずだ』
吉利は簡単な推理を働かせてみた。
「私はかつて陳蕃様のお屋敷で働いておりました。陳蕃様が亡くなられ、逸様は捕らわれの身となられましたが、私めは逸様は必ず生きて戻られると信じて、また逸様のお世話ができることを願って生きて参ったのです。……そして、ついに逸様は戻って来られました」
商結老人は感極まって、その目に涙を
「それなのに、この地の奸賊に再び捕らわれてしまうとは……」
老人の瞳に溜まった
「私めは
「許子将殿はオレのことを何と言っていた?」
「はい。あなた様はいずれ世に出る英雄だから、必ず力になってくださると申されました」
『許子将め、オレを試す気だな……』
吉利は許劭の思惑を読み取った。
「今この時にあなた様に出会えたのはまさしく天の助け。吉利様、どうか逸様を助けるために力をお貸しくださいませ!」
この難儀な申し出に返答するのに、吉利には一瞬の
「名にしおう陳太傅の御子息のためとあらば、何とかやってみよう。さぁ、爺さん……」
言いながら、
「しかし、なぜオレの居場所が分かった? 許子将殿も知らぬはずだが……」
「許劭様が言われますには、あなた様は長旅をして来られたので、街で一泊し、それから睢陽に向かうはずだから、北の路地で
「噂?」
「はい。大抵の人は派手な噂には耳を傾けたがるそうでございます。それに噂が広がれば、他に気骨ある人物が現れて、逸様を救おうとするかもしれないともおっしゃいました」
『計算済みということか……』
吉利は内心驚愕した。今までに経験したことのない驚愕に揺れていた。
自分の行動が読まれる驚愕……。
許劭は知っていたのだ。橋玄からの紹介状で、吉利が推挙を取り付けようとしていることも、急ぎこの地へ来たことも。それは別に驚くべきことではない。
が、しかし……。
それらデータをもとに思考を読み、許劭の眼は人の心を見透かせる。
『奴は人相見以上に策士だ……!』
ふと、この思考も読まれているのではないかと思う吉利だった。
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