其之序 党錮事件
今から時を
中国・
この時代、天地と人との関係性が学術的に説かれ、様々な天文現象と人の行いは相い応ずるもの(
皇帝自身や政権の中枢を
後漢の開祖である
桓帝晩年の数年を見てみると――――まず、
またこの年、隕石の落下が目撃された。これも凶兆だった。
延熹八(一六五)年、濁っているのが当たり前の
延熹九(一六六)年、都に火光あって、人々を驚かせた。
これも凶兆で、三年以内に皇帝が損なわれるという不吉な解釈が
桓帝は
桓帝に
しかし、太后は政務について詳しく分からない。天下の詳しい情勢も知らない。
こういう事態に力を伸長するのが皇帝や皇太后の近くに侍る
宦官とは去勢された宮仕えの男のことで、
それは桓帝が残した負の遺産である。以来、宦官一族は中央で、地方で幅を
これに対して、何とか負の遺産を清算し、国政を正常化する努力を続けたのが正義派の官僚たちだった。宦官の専横を阻止しようとして宦官勢力に対抗したが、皇帝が宦官たちを偏愛・信任したため、逆に彼らが罪に問われることが多く、状況は不利であった。
まさしく天象の通りで、邪臣たちが内外にはびこり、政治権力を私物化していたのである。そんな時、正義の志を燃やし、
宦官を
そして、建寧元(一六八)年は運命の九月を迎える。
後漢の都・
まだ日も昇らぬ未明の頃にもかかわらず宮中は
皇太后や少年皇帝が知るところではない。全て宦官主導、極秘裏の指示のうちに行われているのだ。宦官たちによって皇帝の命令書である
命令を下したのは宦官の
北宮の
一方、
「竇武よ、御殿に向かって陣を構えるとは何事か。陛下に対する反逆と同じであるぞ!」
曹節が反逆者たちに叫んだ。
「何を言うか、漢室に巣食う害虫め! お前たちの
竇武が
国を立て直すには、まず政治腐敗の根源である宦官を取り除かなくてはならない。その強い思いがこのような果断な行動を取らせているのだ。
「天運はこちらにある」
竇武が言って自信を見せた。竇太后は竇武の娘であり、少年の皇帝に代わり、最終決定権を持っている。正しきことを行えば、天が味方してくれるはずだ。
竇武は宮中からの反応を待っていた。共に宦官打倒を期した同志の陳蕃が宮中に入っている。陳蕃が太后からの命令書を受け取ることができれば、正式に宦官を国賊として討つことができる。たとえそれを受け取れずとも、宦官が国賊であることは周知の事実。強硬手段をとって、奴らを討ち滅ぼした後に皇太后から免責を頂くことも可能だし、騒乱の責任を取らされることになっても、悔いはない。全ては天下国家のためなのだ。
どちらが政治の主導権を握るか。それ次第で歴史は大きく変わる。
だが、天運を携えて行ったはずの陳蕃からの応答は一向になく、ただ時間だけが
「……どうなっているのだ?」
焦りを感じた竇武はじっとしていられない。朱雀門を遠望し、宮中内の様子に耳を澄ませた。
その宮中において――――。
顔に刻まれた
『天が与えたもうた千載一遇の機会、必ずや奸賊どもを一掃してくれん』
心の内で何度も繰り返すその忠義の
まだ闇が辺りを覆っている。太后も眠りの中にあるに違いない。それにもかかわらず、陳蕃は早足で竇太后のもとへ急ぐ。宦官の悪事の数々を書き連ねた宦官一掃の上奏文を携えて。求めるのは詔勅。宦官討伐の大義名分だ。
だが、ご丁寧にそのような手続きを踏もうとする間に、事態は暗転していた。
前方からそれを告げる使者が現れた。
劉瑜は
天文と図讖(予言解釈)の分野に優れていて、災異に関して上奏することがしばしばだった。実は天文を見て、
まず、人事を操作して、同志の
同じく
首都圏の各長官を信頼する正義派官僚で固めて、宦官を誅すだけでなく、その一族郎党の汚職、犯罪も一斉に
一方、宮中の様子を知らせる連絡役を兼ねて、劉瑜を侍中として宮中に入れた。
その劉瑜が宮中の異変を間に当たりにして、陳蕃へ知らせるためにやってきたのだ。
「陳太傅、ここは危険です。早くお逃げください!」
「どういうことか?」
「お二人の計画はすでに宦官側に感知されています」
「何?」
陳蕃はそれが自らの
「竇将軍が軍を動かしておる。今さら後に退くわけにはいかぬ! 太后様はどこにおられる?」
放った矢は止められない。ほとばしる救国の思いも止まらない。
顔を紅潮させて劉瑜に詰め寄る陳蕃は、何が何でも宦官の一掃を断行する気構えだ。劉瑜は険しい表情で答えた。内容がどれもこれも
「それが、太后様は
雲台とは
「何たることか……!」
劉瑜の報告に陳蕃は言葉を詰まらせながら、
尹勲は陳蕃の同志で、
尹氏は河南の名門豪族であり、尹勲の伯父の
陳蕃と竇武は計画実行の前に清廉剛直な尹勲を尚書令に据えて、国政の中枢である尚書台を押さえたつもりだった。陳蕃も太傅
ところが、陳蕃と竇武の計画を察知した宦官たちは常識では絶対に考えつかないような非常手段でもって、あっさりと危機的状況を
悪知恵に
宮中は宦官たちのいわばホーム・グラウンドであり、陳蕃・竇武ら正義派官僚よりも遥かに自由に迅速に、かつ内密に動くことができる。宦官たちの
「どこまで非道を行うのか……!」
一気に宦官を打倒するはずが、その非道のせいで逆賊扱いされる立場に陥ってしまったのだ。陳蕃は天を仰ぎながら、預かったはずの天運がその手から転がり落ちてしまったのかと懐を確かめた。……まだ、ある。
「陳太傅、これを」
本来、宮中では帯剣は許されない。劉瑜は丸腰の陳蕃に持っていた剣を手渡した。宮中の衛兵のものを奪ってきたのだろう。
「ここは一旦退いて、日を改めましょう」
劉瑜も
「王甫と曹節はどこにおる?」
悪の
「陛下と徳陽殿に
「……日を改めることなぞ出来ようはずがない。わしは何が何でも今日この日に王甫・曹節を斬る。そなたは竇将軍にこの事態を伝えてくれ」
言うやいなや、陳蕃は剣を片手に老体を南宮徳陽殿へ向けさせた。
再起などあり得ない。この計画が破れれば、逆賊として殺されるのは火を見るより明らかだ。同じ死ぬのなら、正義に
陳蕃は最期まで「三君」と称されたその栄誉に恥じない志を貫こうとした。
「
劉瑜はその岩よりも固き決意を感じて、陳蕃の背中に最敬礼を送って応えるのだった。
西方で起きた異民族の反乱を何とか鎮圧して都に報告に上がってみれば、この騒ぎだ。
大将軍・竇武、大逆す。五営の兵を集めて速やかに逆賊を討て――――。
そんな詔勅を受け取った老年の武官が兵を従えて急ぎ宮中へ入った。
五営とは、洛陽の
勅命を受けた老将軍であったが、彼が引き連れているのは、この日当直になかった兵士たちを緊急招集した二百名足らずだ。
それにしても、どうして地方武官の自分に中央の兵を率いさせるような詔勅が出たのか。緊急事態のようだが、事情がよく分からない。
朱雀門の城壁の上に衛兵を率いる人物がいると聞き、老将軍が詳細を求めた。
「いったい何事ですか?」
「陛下の詔勅を受け取ったであろう。大将軍・竇武と太傅・陳蕃による大逆よ。天子廃立を
「まさか」
直接面識があるわけではないが、竇武と陳蕃には清名があり、忠義大節ある官僚として長年漢朝に仕え、民衆からの評判も高かったはずだ。その二人が皇帝の廃立を企てているとは、
「そなたは中央の事情を何も知らぬようだが、竇武と陳蕃には以前から不穏な動きがあった。腹の内にあるものは誰にも分からぬものよ。見よ。事実、竇武は天子のおわす御殿に兵を向け、反意は明らか。陛下は大いにお怒りである」
老将軍が話しているのは宦官の曹節であった。宦官ながら、曹節は宮中の衛兵を率い、朱雀門を固めていた。
「陳蕃が武器を持って宮中に入った。陛下のお命が危ない。王甫が討伐に向かっている。そなたは勅命に従い、王甫を助けて直ちに陳蕃を討ち果たせ」
勅命。曹節の命。自ら厚い忠義心を誇るゆえにそれを断ることはできす、老将軍は口を固く結んで宮中の奥へと向かった。
その老体のどこからそんな気迫が
わずかに残された命の灯をこの日燃やし尽くす決心を固めた陳蕃は、
「太傅・陳蕃であるぞ。至急、陛下にお伝えしたき儀があって参上つかまつった! 門を開けい!」
王甫。世を腐敗させる悪の象徴。憎き宦官の首魁。斬り捨てるべき相手。この身に換えても刺し違えてくれる。義憤に燃える陳蕃は迷わず、歩を進める。
熱き正義の剣でもって訳も知らずに邪魔立てする衛兵の何人かを斬り捨てた。
死にぞこないの老人のものではないそれに気圧され、衛兵たちとそれを率いる王甫が顔を青ざめて後ずさりする。だが、運命のいたずらはそこに正義の剣を届けることはなかった。国家安泰を願う陳蕃の忠義は、それを果たす目前にして掻き消されることとなった。
「ちょ、張将軍!」
王甫が
陳蕃を斬れとの勅令を受けた老境の武人。
「陳太傅、勅令により成敗いたす」
剣を振りかぶる。問答無用だった。未明の空に
「……がはっ!」
無情の剣を浴びた陳蕃は宮殿前の石造りの大階段を派手に転がり落ち、その
「う……」
「な、何だ?」
老将軍がその事態に驚く中、白い気は絡み合い、何かに引かれるように忠義心が詰まったその胸に吸い込まれた。陳蕃の比類なく
それが老将軍の胸の中で弾けて広がった。
「はっ……」
その一瞬で全てを理解した。
「陳太傅!」
老将軍が陳蕃に駆け寄ってその体を抱き起した。片手で胸を押さえるが血は止まらない。
「私は何と言うことを……!」
激しい後悔と自責の念に老年の将軍が年甲斐もなく
「よい……そなたでよかった……」
陳蕃は命尽きようとするその手を伸ばして、
「我等は天下万民のため、害悪を取り除こうと立ち上がった。……その上奏文を読めば、そなたにも我等が正義を
息も絶え絶えに、陳蕃は最期の言葉を清い意志で
「て……天よ……」
最期の思いを声に乗せて、陳蕃は震える手を天にかざそうとしたが、それはだらりと力なく垂れた。陳蕃を斬った老将軍が罪の深さに天を仰ぐ。
「陳太傅……!」
義憤に満ちた烈士、陳蕃はもう言葉を発すことなく、彼の流した血の一滴が小さな赤い球体となって、ふわふわと天に昇っていった。
朱雀門前に陣を構え、宦官に圧力をかけたはずの竇武。しかし、時間が過ぎるにつれて、逆に竇武がプレッシャーを感じ始める。落ち着かない竇武に答えを見せつけたのは朱雀門の楼閣に上ってきた宦官の曹節だった。
「竇武よ、誰を待っているのだ? 陳蕃なら、すでに誅されたぞ!」
これが証拠だとばかりに、曹節は陳蕃の首を門下に放り投げた。ドスンという鈍い音とともに物言わぬ陳蕃の首が転がって、竇武の方を向いた。
「何と……!」
竇武の顔に、率いられた兵士たちの間に動揺が走る。間もなく、宦官側の兵が竇武軍の正面に着陣した。偽の詔勅で搔き集められた兵が時とともに増強される。
「竇武は陛下に対して
今度は王甫が叫んだ。権力と権限を
悲劇である。あっという間に竇武側の兵は数えるぐらいになってしまった。
「忠とは何ぞや、義とは何ぞや! なぜ天は我等に味方せぬ……!」
天を仰いで叫ぶ竇武にはその理由が分からなかった。
「馬鹿め、我等にも天運はあるのだ!」
曹節の勝利の言葉に竇武はようやく敗北の原因を悟った。闇が天を包んでいる。
夜明けは近いと思ったが、日はまだ昇らない。
「無念なり……!」
ついに竇武の計画は破れた。万事休した竇武は剣を自らの首筋に押し当てた。
「……だが、覚えておけ。今日我等が死のうと、明日我等の志を受け継ぐ者が必ずやお前たちを滅ぼすだろう! 我が赤心と忠義の血を天地に捧げる!」
鮮血が飛んだ。赤い
歴史的な事件が起きたその日の午後。都・洛陽のとある屋敷。
夕刻近くになって父が帰宅したことを知った新しい皇帝と変わらないくらいの年頃の少年が事の
「……それで帰りが遅かったのですか」
「ああ、大変な事件だった。まだお前には難しい話かも知れんが……」
この事件のことを話した少年の父はその時、宮中にいた。
「いえ、簡単ですよ。この世の濁りは常であるということです」
父は子の言葉の意味を測りかねて、眉を寄せた。
「この国を流れる
河水とは黄河のこと、江水とは長江のことである。それら大河は当たり前のように濁っていて、そうでありながら、この国の大地を
「最初から大将軍の計画が無理であったと言いたいのか?」
「きれいすぎる水に魚は住めないというではありませんか。きれいにされることを嫌がった魚が多かったのでしょう」
的確な指摘であった。父は時に大人顔負けの利発さを垣間見せる息子に不安を覚える。
〝過ぎたるは及ばざるが如し〟という。孔子の言葉だ。
少年はそんな父の思いを知るでもなく、外廊から庭に歩き出ると、小石を拾って池に投げ入れた。振り返って父に言う。
「天下に一石を投じたことは確かですが、天意がなかったということでしょう」
「天意か……。とにかく、我が家は宦官の家だからな。今日のことは教訓にせねばならん」
それ以上息子との高度な議論を交わす気になれず、父は寝室へと歩いていった。
この事件の収拾のために朝早くから忙殺されて、ひどく疲れていたのだ。
『……でも、こんなもんじゃないな』
父の背中を無言で見送った後で、少年は辺りを見回した。そして、
『天下は大荒れするぞ……』
少年はどこか楽しげに、その事件の後先を見据えていた。
翌年。竇武・陳蕃と謀議を為し、
この事件を〝
この党錮事件で多くの正義派官僚を失った後漢王朝はさらなる政権腐敗を招き、衰退の一途を
そして、先の歴史的大事件がまだ記憶に新しい
あの惨劇から五年が過ぎ、少年が予想したように、天下の様相は混乱と荒廃の度を一層深めつつあった。そんな中、かつての少年は心身たくましい十九歳の青年へと成長し、激動の世の中に歩み出ようとしていた――――。
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