其之序 党錮事件

 今から時をさかのぼること千八百有余ゆうよ年――――。

 中国・後漢ごかん桓帝かんていの治世(一四六~一六七)は災異が多く観測された時代だった。それは邪臣たちが権力を聾断ろうだんした時代と重なり、政治は腐敗し、反乱が相次いで、国力が大いに減衰げんすいした時代でもある。それを裏付けるかのような災異が特に多く観測された。

 この時代、天地と人との関係性が学術的に説かれ、様々な天文現象と人の行いは相い応ずるもの(天人相応てんじんそうおう)と考えられた。

 皇帝自身や政権の中枢をになう人々、つまり、為政者の行為が特殊な天文・自然現象となって反映、あるいは暗示されるというのである。

 後漢の開祖である光武帝こうぶていが信奉したことから、後漢は〝讖緯しんい思想〟というものが重視された時代でもあった。〝しん〟とは、所謂いわゆる予言のことで、正統な儒教の経典きょうてんを〝経書けいしょ〟というのに対して、神秘的な事柄を説いたものを〝緯書いしょ〟といった。讖緯は予言書全般をいう。この天人相応説と讖緯思想から、数々の災異は未来を予言したものであり、天の警告であると考えられ、それを解釈する学問も発達した。

 桓帝晩年の数年を見てみると――――まず、延熹えんき七(一六四)年、野王やおう山に死龍ありという報告があった。これは凶兆とされた。龍とは皇帝の現身うつしみであるからだ。

 またこの年、隕石の落下が目撃された。これも凶兆だった。

 ちるのは勢いを失ったからであるという解釈である。

 延熹八(一六五)年、濁っているのが当たり前の河水がすい(黄河)下流の水がむという異常現象が起き、日食も確認された。どちらも陰が陽化し、陰が陽を侵すことから、邪臣が皇帝の威光を侵していることが原因と採られた。もちろん、凶兆である。

 延熹九(一六六)年、都に火光あって、人々を驚かせた。

 これも凶兆で、三年以内に皇帝が損なわれるという不吉な解釈がささやかれた。

 桓帝は濯龍園たくりゅうえんという宮室庭園で老子を祭って延命を願ったものの、その甲斐なく、解釈の通り、永康えいこう元(一六七)年十二月、三十六で崩御ほうぎょした。

 桓帝に嗣子ししはなく、系譜に近い少年皇族が突如擁立ようりつされる事態となり、建寧けんねい元(一六八)年正月、劉宏りゅうこうが第十二代皇帝として即位した。まだ十二歳で、元服するまで実権はないので、その間、竇太后とうたいごうが帝務を代行した。

 しかし、太后は政務について詳しく分からない。天下の詳しい情勢も知らない。

 こういう事態に力を伸長するのが皇帝や皇太后の近くに侍る宦官かんがんたちだった。

 宦官とは去勢された宮仕えの男のことで、後宮こうきゅうへの出入りを許され、宮中の庶務を行い、皇帝の秘書官として働いた。それが権力を牛耳っているのだ。異常事態である。宦官は桓帝の頃より重用されるようになって、権力が大幅に強化された。

 それは桓帝が残した負の遺産である。以来、宦官一族は中央で、地方で幅をかせ始めて、政治は私物化され、その害毒は全土に広がっていた。

 これに対して、何とか負の遺産を清算し、国政を正常化する努力を続けたのが正義派の官僚たちだった。宦官の専横を阻止しようとして宦官勢力に対抗したが、皇帝が宦官たちを偏愛・信任したため、逆に彼らが罪に問われることが多く、状況は不利であった。

 まさしく天象の通りで、邪臣たちが内外にはびこり、政治権力を私物化していたのである。そんな時、正義の志を燃やし、ごうを煮やした彼らに訪れた転機。

 宦官を寵愛ちょうあいした桓帝の崩御。竇太后の臨朝――――。

 そして、建寧元(一六八)年は運命の九月を迎える。


 後漢の都・洛陽らくよう北宮ほっきゅう――――。

 まだ日も昇らぬ未明の頃にもかかわらず宮中はあわただしかった。各署で命令が飛び交い、伝令が行き交う。衛兵たちが武器を携え、徳陽殿とくようでん前に整列する。

 皇太后や少年皇帝が知るところではない。全て宦官主導、極秘裏の指示のうちに行われているのだ。宦官たちによって皇帝の命令書である詔勅しょうちょくが偽造され、大勢の人間がそれを真に受けて動いていた。招集された衛兵たちに宮殿の警護と各宮門の封鎖、そして、反逆者誅殺の命が下される。

 命令を下したのは宦官の王甫おうほ。その反逆者とは皇后の父であり、大将軍の地位にある竇武とうぶ太傅たいふ(皇帝師範)の陳蕃ちんばんである。

 北宮の朱雀門すざくもん前には数千もの兵士が松明たいまついて布陣していた。率いるのは竇武。

 一方、近衛このえ兵を指揮して朱雀門を固く閉ざし、楼閣からそれをにらむのは宦官の曹節そうせつ

「竇武よ、御殿に向かって陣を構えるとは何事か。陛下に対する反逆と同じであるぞ!」

 曹節が反逆者たちに叫んだ。

「何を言うか、漢室に巣食う害虫め! お前たちの悪行狼藉あくぎょうろうぜきの数々は天下万民の知るところだ。今日こそは根こそぎ退治してくれるぞ!」

 竇武が沸騰ふっとうした感情を発散させて言い返した。

 国を立て直すには、まず政治腐敗の根源である宦官を取り除かなくてはならない。その強い思いがこのような果断な行動を取らせているのだ。

「天運はこちらにある」

 竇武が言って自信を見せた。竇太后は竇武の娘であり、少年の皇帝に代わり、最終決定権を持っている。正しきことを行えば、天が味方してくれるはずだ。

 竇武は宮中からの反応を待っていた。共に宦官打倒を期した同志の陳蕃が宮中に入っている。陳蕃が太后からの命令書を受け取ることができれば、正式に宦官を国賊として討つことができる。たとえそれを受け取れずとも、宦官が国賊であることは周知の事実。強硬手段をとって、奴らを討ち滅ぼした後に皇太后から免責を頂くことも可能だし、騒乱の責任を取らされることになっても、悔いはない。全ては天下国家のためなのだ。

 どちらが政治の主導権を握るか。それ次第で歴史は大きく変わる。

 だが、天運を携えて行ったはずの陳蕃からの応答は一向になく、ただ時間だけが無為むいに過ぎていった。少しずつ闇が溶け、夜が白み始める。

「……どうなっているのだ?」

 焦りを感じた竇武はじっとしていられない。朱雀門を遠望し、宮中内の様子に耳を澄ませた。


 その宮中において――――。

 顔に刻まれたしわをさらに深くしながら、義憤をまとった男、陳蕃が宮殿への階段を上る。よわい七十を超えた陳蕃の足取りは速く力強い。衰えを知らぬその歩みで、手に入れた天運を確かなものにすべく、篝火かがりびが照らす回廊を奥へ向かって進む。

『天が与えたもうた千載一遇の機会、必ずや奸賊どもを一掃してくれん』

 心の内で何度も繰り返すその忠義のこころざしも人一倍熱く、強い。

 まだ闇が辺りを覆っている。太后も眠りの中にあるに違いない。それにもかかわらず、陳蕃は早足で竇太后のもとへ急ぐ。宦官の悪事の数々を書き連ねた宦官一掃の上奏文を携えて。求めるのは詔勅。宦官討伐の大義名分だ。

 だが、ご丁寧にそのような手続きを踏もうとする間に、事態は暗転していた。

 前方からそれを告げる使者が現れた。侍中じちゅう(皇帝秘書官)の劉瑜りゅうゆだ。

 劉瑜はあざな季節きせつといい、徐州広陵郡の人で、皇族に連なる人物である。

 天文と図讖(予言解釈)の分野に優れていて、災異に関して上奏することがしばしばだった。実は天文を見て、奸賊かんぞくを討つのには今が絶好の時期だと陳蕃と竇武に告げたのがこの劉瑜であった。それを聞いた陳蕃と竇武は計画を実行に移す準備を整えた。

 まず、人事を操作して、同志の朱㝢しゅう司隷校尉しれいこうい(首都圏警備長官)に任命した。

 同じく劉祐りゅうゆう河南尹かなんいん(首都圏政務長官)に、そして、虞祁ぐきを洛陽令(都知事)に据えて、宦官一掃計画のための布石を打った。

 首都圏の各長官を信頼する正義派官僚で固めて、宦官を誅すだけでなく、その一族郎党の汚職、犯罪も一斉に摘発てきはつする考えであったのだ。

 一方、宮中の様子を知らせる連絡役を兼ねて、劉瑜を侍中として宮中に入れた。

 その劉瑜が宮中の異変を間に当たりにして、陳蕃へ知らせるためにやってきたのだ。

「陳太傅、ここは危険です。早くお逃げください!」

「どういうことか?」

「お二人の計画はすでに宦官側に感知されています」

「何?」

 陳蕃はそれが自らのふところから漏れていたことに気付いていなかった。が、

「竇将軍が軍を動かしておる。今さら後に退くわけにはいかぬ! 太后様はどこにおられる?」

 放った矢は止められない。ほとばしる救国の思いも止まらない。

 顔を紅潮させて劉瑜に詰め寄る陳蕃は、何が何でも宦官の一掃を断行する気構えだ。劉瑜は険しい表情で答えた。内容がどれもこれもかんばしくない。

「それが、太后様は雲台うんたいに遷されたようです。宦官どもは太后様の玉璽ぎょくじを奪い、尚書令しょうしょれい尹君いんくんを捕えました。尚書台の官吏を脅して、偽の詔勅を作っては各部に命令を出しています」

 雲台とは南宮なんきゅうの高楼のことで、尚書台とは文書の発布をつかさどる、いわば実務の中心部署である。皇帝の意思が反映される部署であるので、臨朝する皇太后の命令はこの部署で公文書化され、実行力を持つ。だが、その長官の尹勲いんくんが捕えられ、宦官どもは勝手に竇太后を南宮に遷し、太后の命令だと偽って、文書を偽造しているという。

「何たることか……!」

 劉瑜の報告に陳蕃は言葉を詰まらせながら、憤激ふんげきの表情を作った。

 尹勲は陳蕃の同志で、あざな伯元はくげんという。洛陽に近い河南きょう県の人である。

 尹氏は河南の名門豪族であり、尹勲の伯父のぼくと兄のしょうは三公に昇った。尹勲もそれに続く名士であり、宦官を憎む正義派官僚である。

 陳蕃と竇武は計画実行の前に清廉剛直な尹勲を尚書令に据えて、国政の中枢である尚書台を押さえたつもりだった。陳蕃も太傅録尚書事ろくしょうしょじという肩書で、皇帝の教育係と合わせて、尚書台の総監督を行う立場にある。

 ところが、陳蕃と竇武の計画を察知した宦官たちは常識では絶対に考えつかないような非常手段でもって、あっさりと危機的状況をくつがえした。

 悪知恵にける彼らは陳蕃・竇武から太后を隔離するためにあろうことか太后を雲台へ軟禁し、彼らに勅令を与えないように先手を打っただけでなく、玉璽を利用して、自分たちに都合のいい勅令を偽造した。二人を反逆者にでっち上げようというのである。

 宮中は宦官たちのいわばホーム・グラウンドであり、陳蕃・竇武ら正義派官僚よりも遥かに自由に迅速に、かつ内密に動くことができる。宦官たちの狡猾こうかつさは正義派官僚の遥か上をいっていた。

「どこまで非道を行うのか……!」

 一気に宦官を打倒するはずが、その非道のせいで逆賊扱いされる立場に陥ってしまったのだ。陳蕃は天を仰ぎながら、預かったはずの天運がその手から転がり落ちてしまったのかと懐を確かめた。……まだ、ある。

「陳太傅、これを」

 本来、宮中では帯剣は許されない。劉瑜は丸腰の陳蕃に持っていた剣を手渡した。宮中の衛兵のものを奪ってきたのだろう。

「ここは一旦退いて、日を改めましょう」

 劉瑜も苦渋くじゅうの面持ちで再起を促した。しかしながら、陳蕃はそれに同意せず、

「王甫と曹節はどこにおる?」

 悪の首魁しゅかいである二人の宦官の居所いどころを尋ねた。

「陛下と徳陽殿にこもり、各署へ指示を出しているようです」

「……日を改めることなぞ出来ようはずがない。わしは何が何でも今日この日に王甫・曹節を斬る。そなたは竇将軍にこの事態を伝えてくれ」

 言うやいなや、陳蕃は剣を片手に老体を南宮徳陽殿へ向けさせた。

 再起などあり得ない。この計画が破れれば、逆賊として殺されるのは火を見るより明らかだ。同じ死ぬのなら、正義にじゅんじて死ぬ――――。

 陳蕃は最期まで「三君」と称されたその栄誉に恥じない志を貫こうとした。

かしこまりました」

 劉瑜はその岩よりも固き決意を感じて、陳蕃の背中に最敬礼を送って応えるのだった。


 西方で起きた異民族の反乱を何とか鎮圧して都に報告に上がってみれば、この騒ぎだ。

 大将軍・竇武、大逆す。五営の兵を集めて速やかに逆賊を討て――――。

 そんな詔勅を受け取った老年の武官が兵を従えて急ぎ宮中へ入った。

 五営とは、洛陽の宿衛しゅくえいを司る歩兵ほへい屯騎とんき越騎えっき射声しゃせい長水ちょうすいの五校尉の営舎を意味する。竇武の甥の歩兵校尉の竇紹とうしょうと屯騎校尉の馮述ふうじゅつが竇武とともに兵を挙げたらしく、他の五営の兵もほとんどが竇武に率いられている。

 勅命を受けた老将軍であったが、彼が引き連れているのは、この日当直になかった兵士たちを緊急招集した二百名足らずだ。

 それにしても、どうして地方武官の自分に中央の兵を率いさせるような詔勅が出たのか。緊急事態のようだが、事情がよく分からない。

 朱雀門の城壁の上に衛兵を率いる人物がいると聞き、老将軍が詳細を求めた。

「いったい何事ですか?」

「陛下の詔勅を受け取ったであろう。大将軍・竇武と太傅・陳蕃による大逆よ。天子廃立をくわだてておる!」

「まさか」

 直接面識があるわけではないが、竇武と陳蕃には清名があり、忠義大節ある官僚として長年漢朝に仕え、民衆からの評判も高かったはずだ。その二人が皇帝の廃立を企てているとは、にわかには信じられない。

「そなたは中央の事情を何も知らぬようだが、竇武と陳蕃には以前から不穏な動きがあった。腹の内にあるものは誰にも分からぬものよ。見よ。事実、竇武は天子のおわす御殿に兵を向け、反意は明らか。陛下は大いにお怒りである」

 老将軍が話しているのは宦官の曹節であった。宦官ながら、曹節は宮中の衛兵を率い、朱雀門を固めていた。

「陳蕃が武器を持って宮中に入った。陛下のお命が危ない。王甫が討伐に向かっている。そなたは勅命に従い、王甫を助けて直ちに陳蕃を討ち果たせ」

 勅命。曹節の命。自ら厚い忠義心を誇るゆえにそれを断ることはできす、老将軍は口を固く結んで宮中の奥へと向かった。


 その老体のどこからそんな気迫がみなぎってくるのか――――。

 わずかに残された命の灯をこの日燃やし尽くす決心を固めた陳蕃は、

「太傅・陳蕃であるぞ。至急、陛下にお伝えしたき儀があって参上つかまつった! 門を開けい!」

 棨信わりふ(通行証)の提示を求める門兵を鬼のような形相ぎょうそうと雷のような大音声だいおんじょう喝破かっぱした。何も知らない門兵はそれに肝を冷やして、すごすごと徳陽殿へ通じる宮門を開いた。しかし、その先に全てを知った宦官の王甫が衛兵を率いて立ちはだかっていた。

 王甫。世を腐敗させる悪の象徴。憎き宦官の首魁。斬り捨てるべき相手。この身に換えても刺し違えてくれる。義憤に燃える陳蕃は迷わず、歩を進める。

 熱き正義の剣でもって訳も知らずに邪魔立てする衛兵の何人かを斬り捨てた。

 死にぞこないの老人のものではないそれに気圧され、衛兵たちとそれを率いる王甫が顔を青ざめて後ずさりする。だが、運命のいたずらはそこに正義の剣を届けることはなかった。国家安泰を願う陳蕃の忠義は、それを果たす目前にして掻き消されることとなった。

「ちょ、張将軍!」

 王甫が上擦うわずった声で助けを呼んだ。突如正義の前に立ちはだかった鎧姿よろいすがたの男。

 陳蕃を斬れとの勅令を受けた老境の武人。

「陳太傅、勅令により成敗いたす」

 剣を振りかぶる。問答無用だった。未明の空に血飛沫ちしぶきが飛ぶ。

「……がはっ!」

 無情の剣を浴びた陳蕃は宮殿前の石造りの大階段を派手に転がり落ち、その拍子ひょうしふところから白く輝く宝珠が零れ落ちた。もはや義に立ち上がる力を失った陳蕃は、

「う……」

 うつろな目で天運が自分の手を離れ、新たな人物に渡ったのを見た。陳蕃を斬った男がそれを拾い上げた。白く輝く玉から激しく立ち昇る熱気。純白の宝珠はその姿を光る陽気に変えて形を失い、そのてのひらでゆっくりと分解していった。

「な、何だ?」

 老将軍がその事態に驚く中、白い気は絡み合い、何かに引かれるように忠義心が詰まったその胸に吸い込まれた。陳蕃の比類なく崇高すうこうで、忠義に満ちあふれた志操。

 それが老将軍の胸の中で弾けて広がった。

「はっ……」

 その一瞬で全てを理解した。おのれあやまちを悟る。陳蕃のあつい正義。真っすぐな忠節。それをこぼしたのは、偽の勅令にあざむかれた無知な将軍。世を正す機会を潰し、取り返しのつかない事態を招いてしまった。罪悪感で全身から血の気が引いていくようだった。

「陳太傅!」

 老将軍が陳蕃に駆け寄ってその体を抱き起した。片手で胸を押さえるが血は止まらない。

「私は何と言うことを……!」

 激しい後悔と自責の念に老年の将軍が年甲斐もなく狼狽ろうばいした。それを収めたのはさらに年を重ねた陳蕃だった。陳蕃はその男が宦官側の人間ではなく、悪人でもないのを知っていた。ただ、この状況を知らなかったのだ。

「よい……そなたでよかった……」

 陳蕃は命尽きようとするその手を伸ばして、悌涙ているいする老将軍の胸を押さえて言った。

「我等は天下万民のため、害悪を取り除こうと立ち上がった。……その上奏文を読めば、そなたにも我等が正義をおのずと理解するであろう……。そなたも正しきを知り、義を守れ……。そして……護らなければならぬ宝は……ここにある……。それを……宦者に、決して、渡しては……ならぬ。正義の志は、そなたに……託した。張将軍、害毒を、一掃し……天下に……安寧を……。清流を……守って……く……れ」

 息も絶え絶えに、陳蕃は最期の言葉を清い意志でつむぐ。

「て……天よ……」

 最期の思いを声に乗せて、陳蕃は震える手を天にかざそうとしたが、それはだらりと力なく垂れた。陳蕃を斬った老将軍が罪の深さに天を仰ぐ。

「陳太傅……!」

 義憤に満ちた烈士、陳蕃はもう言葉を発すことなく、彼の流した血の一滴が小さな赤い球体となって、ふわふわと天に昇っていった。


 朱雀門前に陣を構え、宦官に圧力をかけたはずの竇武。しかし、時間が過ぎるにつれて、逆に竇武がプレッシャーを感じ始める。落ち着かない竇武に答えを見せつけたのは朱雀門の楼閣に上ってきた宦官の曹節だった。

「竇武よ、誰を待っているのだ? 陳蕃なら、すでに誅されたぞ!」

 これが証拠だとばかりに、曹節は陳蕃の首を門下に放り投げた。ドスンという鈍い音とともに物言わぬ陳蕃の首が転がって、竇武の方を向いた。

「何と……!」

 竇武の顔に、率いられた兵士たちの間に動揺が走る。間もなく、宦官側の兵が竇武軍の正面に着陣した。偽の詔勅で搔き集められた兵が時とともに増強される。

「竇武は陛下に対して謀反むほんを図った逆賊である。五営のたち兵よ。お前たちは皆、禁軍であり、宮省をお守りするのが役目であるのに、そのまま謀反人に従うのなら、一族に死を与える。こちらに付くのなら、恩賞を与えるぞ!」

 今度は王甫が叫んだ。権力と権限を掌握しょうあくしている宦官だからできる心理作戦。

 生殺与奪せいさつよだつも自由自在だ。それを聞いて、大義を理解しない兵士たちのほとんどが大将軍を見捨てて宦官側に走った。

 悲劇である。あっという間に竇武側の兵は数えるぐらいになってしまった。

「忠とは何ぞや、義とは何ぞや! なぜ天は我等に味方せぬ……!」

 天を仰いで叫ぶ竇武にはその理由が分からなかった。

「馬鹿め、我等にも天運はあるのだ!」

 曹節の勝利の言葉に竇武はようやく敗北の原因を悟った。闇が天を包んでいる。

 夜明けは近いと思ったが、日はまだ昇らない。

「無念なり……!」

 ついに竇武の計画は破れた。万事休した竇武は剣を自らの首筋に押し当てた。

「……だが、覚えておけ。今日我等が死のうと、明日我等の志を受け継ぐ者が必ずやお前たちを滅ぼすだろう! 我が赤心と忠義の血を天地に捧げる!」

 鮮血が飛んだ。赤い飛沫しぶきが宙に舞って、地に落ちた。都の大地が清らかな鮮血で染まった。そして、その血の一滴が小さな赤い球体となって、ふわふわと天に昇っていった。


 歴史的な事件が起きたその日の午後。都・洛陽のとある屋敷。

 夕刻近くになって父が帰宅したことを知った新しい皇帝と変わらないくらいの年頃の少年が事の顛末てんまつを聞いて言った。外廊での立ち話だ。

「……それで帰りが遅かったのですか」

「ああ、大変な事件だった。まだお前には難しい話かも知れんが……」

 この事件のことを話した少年の父はその時、宮中にいた。

「いえ、簡単ですよ。この世の濁りは常であるということです」

 父は子の言葉の意味を測りかねて、眉を寄せた。

「この国を流れる河水がすい江水こうすいも濁っているではありませんか。今日の事件はそれを清めようとしたのと同じでしょう?」

 河水とは黄河のこと、江水とは長江のことである。それら大河は当たり前のように濁っていて、そうでありながら、この国の大地をうるおしている。

「最初から大将軍の計画が無理であったと言いたいのか?」

「きれいすぎる水に魚は住めないというではありませんか。きれいにされることを嫌がった魚が多かったのでしょう」

 的確な指摘であった。父は時に大人顔負けの利発さを垣間見せる息子に不安を覚える。

〝過ぎたるは及ばざるが如し〟という。孔子の言葉だ。

 少年はそんな父の思いを知るでもなく、外廊から庭に歩き出ると、小石を拾って池に投げ入れた。振り返って父に言う。

「天下に一石を投じたことは確かですが、天意がなかったということでしょう」

「天意か……。とにかく、我が家は宦官の家だからな。今日のことは教訓にせねばならん」

 それ以上息子との高度な議論を交わす気になれず、父は寝室へと歩いていった。

 この事件の収拾のために朝早くから忙殺されて、ひどく疲れていたのだ。

『……でも、こんなもんじゃないな』

 父の背中を無言で見送った後で、少年は辺りを見回した。そして、かしわの木の下にあった岩を両手で持ち上げ、それを池の側まで抱えて行って、いくらか濁った水をたたえる池の中へ豪快に放り込んだ。ドプンという鈍い音と水飛沫が上がって、水面は激しく波打ち、より大きな波紋が池の中に広がった。それに驚いたこいが池のふちを逃げ惑った。

『天下は大荒れするぞ……』

 少年はどこか楽しげに、その事件の後先を見据えていた。


 翌年。竇武・陳蕃と謀議を為し、徒党ととうを組んだと見なされた現役官僚(党人とうじん)百余名が一斉に検挙され、誅殺された。他にも、党人関係者二百人以上に官界からの永久追放処分(終生禁錮)の沙汰が下された。

 この事件を〝党錮とうこの禁〟、または〝党錮事件〟という。

 この党錮事件で多くの正義派官僚を失った後漢王朝はさらなる政権腐敗を招き、衰退の一途を辿たどることになる。

 そして、先の歴史的大事件がまだ記憶に新しい熹平きへい二(一七三)年――――。

 あの惨劇から五年が過ぎ、少年が予想したように、天下の様相は混乱と荒廃の度を一層深めつつあった。そんな中、かつての少年は心身たくましい十九歳の青年へと成長し、激動の世の中に歩み出ようとしていた――――。

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