不条理大地に立つ!

関谷光太郎

第1話

 ――突如、オフィス街に巨人が出現しました!  


 四階建てのビルの屋上で、ふたりの報道クルーを従えた男が叫んだ。朝のワイドショー番組でよく観る顔だった。名前は……そう、田所平太郎。過剰な表現で人気の、名物リポーターである。


 ――えー、現在、オフィス街の人々には退避命令が出ておりまして、幸い大きな混乱もなくほとんど避難は完了しております。しかし巨人は依然ビルのそばに立ち、暴れる機会をうかがっているという状況です。


 おい、おい。誰が暴れる機会をうかがっているって? そんな気があるなら、みんなが避難するのを黙って見ているはずないだろ!


 ――おおっ! 巨人が恐ろしい形相でこちらを睨みつけました!


 連中はベストポジションを確保するため、ちょうど俺の背後にある出版社の屋上に陣取っていた。手を伸ばせば届く距離から、振り返った俺の顔にカメラのファインダーを向けている。


 ――いずれにせよ、この巨人の醜悪さは筆舌に尽くしがたく、そばで見ているわたしたちに対しても、常に威嚇をしてくる凶暴な性格であります!


「いい加減なことを言うな!」


 我慢できず叫んだ俺の声に、田所平太郎たちが吹き飛んだ。


 俺の声が発した、衝撃波だった。


 この男がリポーターを務める『新鮮! 朝の情報サンドウイッチ』は、そのタイトルとは裏腹に生臭い事件や、過激な報道を好む悪趣味極まりない番組だった。事件を直接追いかけるのを売りにしていて、如何にインパクトのある報道ができるかと、五名のリーポーターたちがしのぎを削る。その中で群を抜いた存在が田所なのだ。


 今日もテレビカメラの前で、大袈裟に恐怖の表情を作る田所平太郎のコメントは、真っ赤な嘘で固められていた。


 ――巨人の攻撃です! 口から、口から見えない炎を吹き出しました!


 炎ってなんだよ! それも見えない炎って。ああ! もう好きにしてくれ!


 ◇◇◇  


 気がつくと、俺は巨人になっていた。


 理由なんて分からない。目が覚めると、身長十五メートルはある巨人としてここに立っていたのだ。この数字の根拠は、自分が立っていた隣のビルの、ちょうど五階あたりに俺の視線があるからだ。一階あたりが約三メートルあるという話を聞いたことがあったので、計算すると十五メートルはあるだろうということだ。ちなみに隣のビルは十階建てで、五階には俺の勤めるオフィスが入居している。


「晴彦くーん!」


 ひとつ年上の先輩、事務の鍋島京香さんが、五階の窓から手を振った。俺とは目と鼻の先。他の連中は退避命令に従って逃げ出したというのに、なぜか彼女だけは残っていた。


「なんで、そんなに大きくなっちゃったの?」


 知りません!


 京香さんは手のつけられない天然だ。このとんでもない状況でさえ、あっ、お弁当忘れた! くらいの感覚でしかない。


「そろそろお昼になるから戻ってきたら?」


 京香さん。昼食どころの話じゃないでしょう。オフィス街全域に退避勧告は出るわ、警察や消防のサイレンが周囲に鳴りっぱなしだわ、尋常じゃない報道ヘリが頭上を飛んでいるわで、大変な状況ですよ。


 ――えー、巨人の身元が判明いたしました! 小諸晴彦こもろはるひこ、二十七歳。洋海商事勤務の会社員だそうです。ちょうど巨人が立っている隣のビルが彼のオフィスだという情報もあり、これからの展開に目が離せません!


 これからの展開だって? 


 俺は、京香さんのいるフロア全体に覆いかぶさった。田所の視界から彼女を守るためだ。田所だけじゃない。上空を舞う報道ヘリにも見えないよう配慮した。彼女の姿を見られたら、またどんなコメントをされるか分からない。


「京香さん。京香さん」


 俺は五階の窓に顔を近づけて囁いた。京香さんは笑顔を見せながら、『なに、なに?』と、えらく嬉しそうだ。


「俺の後ろにテレビのリポーターがいるんですよ。たちの悪い奴で、京香さんがここにいるのを知られたら、あなたに迷惑がかかると思うんです」


「わあ、リポーターって誰、誰?」


 おまえ邪魔だよと言わんばかりに、京香さんは俺の向こう側を覗こうと必死になった。


「いや、だからまずいんですって! やつら、俺と京香さんの関係をあれこれ詮索して、おもしろおかしく報道するかもしれません。そうなると……」


「なるほど。わたしとのオフィスラブを疑われるってことね」


「いや、そういうことじゃなく……」


「って言うか、問題は、誤解されるようなきみのその格好だよ。なんで、全裸なの?」


 なんで全裸なの。全裸なの。全裸なの。全裸なの……。


 言葉が山彦となって俺の耳に響いた。 


 そう、俺は全裸だ。しかも十五メートル級の巨人で周囲から身を隠す方法はない。今のところ、ビルに前面を押しつけるようにして大事な部分を隠しているが、ずっとこの状態でいるのはなりキツイだろう。いっそビルの間を駆け抜けて、この先にある大きな河へ飛び込めば下半身くらいは隠せるはずなのだが、そこまで素早く動けない理由があった。


 電線だ。


 普通サイズの時には気がつかなかった電線の存在が、巨人となってどれほど邪魔なものか思い知った。しかも十五メートルという高さはちょうど電柱の高さと等しく、おれの視線の辺りを無数の電線が張り巡らされている、といった状態なのだ。


 これでは思うように動けない。


「なにか着ないと風邪をひくわよ!」


 そういい残して彼女は窓から姿を消した。


 どこまで話が通じたかわからないが、とりあえずはこれでいい。とにかく急いで次の手を考えなくては。というのも、そろそろ、生理現象が限界に達しようとしているのだ。


 昨夜は同僚とビールを飲んだ。久々に大きな契約が取れたことにいい気になった俺は、たらふくビールをあおり、飲み屋のトイレに行ったまでは覚えている。たぶんこの激しい尿意は、あの時に飲んだビールが影響している。


 ――ただ今、緊急速報が入ってきました! 東地区の海上に巨大生物が出現した模様です! 


 田所平太郎が狂喜の声をあげた。


 ――巨大生物の動きは早く、すでに陸上にあがって移動中とのことです! みなさん、これはドラマの出来事ではありません。怪獣です。怪獣が本当に出現したのです!


 か、怪獣? 嘘だろ。そんなのが本当にいるはずない!


 と、思わず心の中で言ってはみたものの、俺の存在自体がバカみたいなのだから、怪獣の出現を絵空事と切り捨てることはできない。現に、なにやら遠くの方できな臭いものが……。 


 巨人となった俺には、ビルとビルの間を縫って遙か先の風景が見える。東側に目を転じると、かなり遠方に黒い煙が立ちのぼるのが分かった。


 嫌な予感がした。あれは巨大生物に破壊された街から立ちのぼる黒煙ではないのか。だとすると、こちらに向かって一直線の道を移動しているように思える。


 よけいな緊張感が膀胱をさらに刺激した。気の遠くなるような尿意の嵐が吹き荒れ、それはもう、妄想を生みだすまでに切迫して始めたのだ。


 ゴールデンウイークの高速道路。帰省ラッシュでベタ混みの道路は一センチも動かない。ハンドルを握る俺は、数時間前に立ち寄ったドライブインでの用足しに失敗してここにいた。


 なんで失敗したかって?


 ドライブインのトイレに、信じられないほどの列ができていたんだよ。


 一応は並んでみたけれど、トイレを一時間以上の順番待ちなんて耐えられない。


 まあその時は、なんなら行っとくか。って感じだったからあっさりとあきらめたんだ。


 って、そりゃ嘘だよ、嘘! 本当は行きたくって仕方がなかったけど、トイレを目的に大勢で並んでいる状況が恥ずかしかったんだよ。そりゃそうだろ。車には彼女が乗っている。初めての遠出、初めてのお泊りだったんだ。いい格好したいじゃない。だから、なんとかなるさ、ってハンドルを握ったのさ。


 で。最悪の状況。


 貧乏ゆすりが止まらない。ブレーキペダルに足を乗せたり降ろしたり。ハンドルを指で弾く動作もセットとなって落ち着きがないことこの上ない。


 助手席の彼女はなにも言わないが、俺の様子を見れば明らかだろう。


 そして、ついに限界。愛する人の目の前で、俺は最後の一線を越える。


 おい、おい、おい。俺はなにを考えてんだ!


 俺は湧き上がる妄想に首を振った。 


 ここで放尿の誘惑に負ければ、街は大変なことになるだろう。いや、それどころか、俺の人間としての尊厳が完全に失われてしまう。


「晴彦くん! これを見て!」


 京香さんが再び窓から顔を出した。オフィスに設置された五十インチのテレビを引っ張っている。


 彼女は逃げたんじゃなかったのか?


「京香さん。なにしているんですか?」


「誰がリポーターをやっているのか、テレビで確認してたの。そしたら、大変なことになっていて」


 そんなつまらないことで、命を失ってもいいのか、あんたは!


 彼女はテレビ画面に映る映像を俺に見せた。


 巨人となった俺からはかなり小さな画面だったが、顔を近づけてまじまじと観た。


 取材ヘリからの空撮映像だ。


 密集する建物群に分け入り、全身まっ赤な怪獣が暴れていた。体の半分以上を占める大きな頭。飛び出した目玉が白く濁っている。


 ――いや、そうじゃない。目玉の周囲にこびりつく白いものはどうやら塩のようで、頬のエラの部分や、前進を阻む建物を破壊するヒレ状の手にも、塩の付着が見てとれた。こりゃまるで、お祝いの席に出される『鯛の塩焼き』じゃないか。


「ね。これって大変な事態でしょ?」


 そりゃ大変だよ。鯛の塩焼きが怪獣となって出現したんだから。でも、なぜ俺にその映像を観せるんだ。しかも、そんな大きなテレビをここまで引きずって。よくもケーブルが届きましたね。


「取材を担当しているリポーターが言ってるのよね。怪獣は一直線に晴彦くんを目指しているって」


「えーっ!」


 窓ガラスが割れて飛び散った。五十インチのテレビが吹き飛び、京香さんが悲鳴をあげてのけぞった。


 しまった! 声の衝撃波だ!


「きょ、京香さん、大丈夫ですか!」


 なんの反応もない。


 おい、おい。冗談じゃないぞ。派手に飛び散ったガラスの破片で彼女に大怪我を負わせてしまったかもしれない!


「本当にすみません! 京香さん、京香さん!」


 ――えー、スタジオのみなさん。今、巨人の声とともにビルのガラスが割れました。なんだか巨人の様子に変化があった模様です! 


 田所平太郎の声はよく響いた。上空を舞っていた報道ヘリが、怪獣の出現によってそちらへ移動したこともあって、周囲の喧騒は落ち着いていたのだ。


 ――あれは、ビルの五階辺りでしょうか。誰かを気遣うような仕草を見せる巨人ですが。


 俺は田所の言葉を再度、大きな背中でブロックした。窓ガラスやテレビもろとも人間まで吹き飛ばしたとあっては、なんと言われるか。それでなくとも、足元には銃を構えた黒い一団が集結し始めているのだ。もしや、特殊部隊といわれる連中ではないのか。


「やっぱりね!」


 京香さんが顔を出した。俺は慌てて彼女が無傷なのを確認した。


「大丈夫だったんですね。よかった!」


「当然でしょ。それより、晴彦くんが巨人になった理由が分かったのよ」


「ほ、本当ですか?」


「ええ。あなたのその力よ! その力であの怪獣と戦うために巨人になったんだわ!」


 また叫けびそうになるところを、俺は両手で口を押さえた。


 ――あっ! ちょうど巨人の視線の先に、女性の姿が確認されました! さっき巨人が気遣う様子を見せたのは、この女性に対してのものだったようです。


 まずい。気づかれた!


「大丈夫。あなたとの関係なんて詮索されることはないから。むしろ、わたしがここにいることで、あなたへの攻撃が阻止できる」


 窓から覗く京香さんの視線は、ビル周辺に配置された特殊部隊の姿へ向けられた。


 なるほど。四方八方のビルの陰で射殺準備を整えた連中が動きを止めている。京香さんの言う通り、彼女の存在が容易に攻撃できない状況を作っているようだ。


 それと、隣のビルでわめきたてる田所の存在も大きい。


 奴らテレビクルーは、屋上に上がってきて退避しろと勧告する特殊部隊の存在に気がつかず(いや、無視して)報道を続けているおかげで、さらに俺に手を出しずらくなっていたのだ。


 ――だからといって、この状況が変わるとは思えない。巨人という異形への恐怖心と、生理現象に負けて放尿してしまう厄介者に対する敵意は、抹殺という結論しか生み出さないような気がする。すべては時間の問題なのだ。


 ドンという音とともに、爆発が起こった。一キロほど先での出来事だ。ビルの狭間に垣間見える赤い巨体。湧き上がる黒煙に、耳をつんざく爆発音が重なったのだ。


「戦うのよ、晴彦くん!」


 京香さんの凛々しい表情の先に、怪獣の姿があった。


「あの怪獣を倒すのがあなたの使命。ここにいる連中に見せてやるのよ。あなたが正義の味方だということを!」


 ちょっと! なんですかその無茶ぶりは!


 空気が震えた。一キロ先にいたはずの怪獣が、一瞬のうちに俺の頭上を急襲したのだ。


 まさかの瞬間移動だった。 


 その巨体が空間を捻じ曲げながら落ちてくる。俺は頭上で両腕をクロスさせて怪獣の落下に備えた。その衝撃は、俺の体もろとも京香さんのいるビルまで破壊してしまうだろう。だから、なんとしてもブロックして跳ね返す必要があったのだ。


「うりゃっ!」


 両腕に半端ない負荷がかかり、ミシッ、と全身が軋む。


 背筋、腹筋、太股からふくらはぎへと筋肉が悲鳴をあげて、俺は思わず膝をついた。


 張り巡らされた電線に体が触れて、火花を散らして電柱が倒れていく。飛び散る火花にテレビクルーたちが大仰に驚きの声をあげた。


 膀胱への負担が増大した俺も、放尿へ一直線だ。


「くそっ、まずい!」


 だが、次の瞬間には自分でも信じられないくらいに力が漲って、怪獣の巨体を押し返していた。


 周囲の空気を巻き込んで、怪獣の体が飛んでいく。


 ビルとビルの狭間に背中から落下した怪獣が黒煙に包まれた。巨体が地面に激突して吹き上がった土煙である。 


 放尿への自尊心が生んだ力に違いない。


 ――おおっ! 巨人が怪獣を吹き飛ばした!


 細かい石や砂が雨のように降り注ぐ中を、田所の中継は続いている。気に食わない奴だが、その根性だけは本物のようだ。


 俺は思わず田所に声をかけていた。


「おい、あんたたち。これ以上は危険だ。すぐにここを離れろ!」


 ――巨人が、こちらに話しかけてきました。これは、どういう展開なのでしょうか?


「放送なんかしている場合じゃない、って言ってるんだ! ここは俺がなんとか時間を稼ぐから、その間に逃げろ!」


 ――ほお。


 田所の眼光が鋭く光った。


 その挑戦的な視線に俺は戸惑った。


 ――巨人はわれわれを危険から救おうと、逃げろと呼びかけてきました。これは驚きです!


「立派よ、晴彦くん! あの怪獣に立ち向かう力を持つのは巨人となって強くなったあなただけよ」


 京香さんが叫ぶ。


 砂埃をかぶりながらも平然と振る舞うその姿は、田所たちに負けない根性だった。


 それにしても、巨人になったら強くなるって根拠がわからない。そりゃ、ふつうの人間サイズからすれば十五メートル級の巨人は強いに違いない。しかし、同じサイズかそれ以上の大きさの怪獣を相手にするとなれば話は違う。


 今、それを証明するように怪獣が再び立ちあがった。自分を大地に叩きつけた俺への敵意も露わに、二十メートル以上はあろう巨体を震わせて突進してきたのだ。


 やっぱり無理だ。丸腰の人間がライオンと戦えるわけがない!


 立ち塞がるビルの壁面を吹き飛ばし、火花を散らす電線をものともせずに怪獣が迫る。


 凄まじい獰猛な姿に、俺の下半身が緩んだ。


 怪獣の大きな口が喉元をめがけて襲ってきた。俺は巨大ヒーローよろしく、その口を両手で受け止めるが、凶暴な牙の奥から吐きだ出される口臭に涙と鼻水が噴き出した。


「うぷっ!」


 遠のく意識に、理性が警報を鳴らす。


 だめだ! 気を確かに持て! ここで負けるわけにはいかないんだ!


 俺のモチベーションに水を差すように、俺の腹が異変を告げた!


 ぐりゅ、ぐるぐるぐる!


 いわゆる下り龍というやつで、俺は更なる危機を迎えた。


 怪獣の上あごと下あごを掴んだ両手が唾液に濡れる。その唾液がまた臭い! 怪獣の奴、臭いに怯んだ俺に気づいたのか、わざとらしく息を吹きかけてきたのだ。


「うぷぷぷぷ!」


 下腹部に差し込む痛みが、レベルを上げた。


 全身の感覚が麻痺して、対峙する怪獣への実感も失せ始めた。


「晴彦くん。フィニッシュ!」


 京香さんの叫び。


 このタイミングでフィニッシュと叫ぶ京香さんに殺意すら覚えたが、あろうことか、その掛け声に俺の体が反応した。限界を越えた生理現象をものともせず、俺は無謀にも怪獣に投げを放ったのだ。


 俺の無意識が、京香さんの誘導に乗せられた瞬間だった。


 そして、怪獣の口を掴んでを投げ飛ばす動作と、下半身の緩みがリンクした。


「……あっ」


 街中が大変なことになる。それはある意味、怪獣被害よりも深刻かもしれない。



 暗転。










「ぷはっ!」


 突然、視界が開けた。


 俺はわけも分からず大声を出して立ち上がる。膝から足元へズボンがずり落ちた。


「え、なに、なに、なに……」


 気がつけばトイレの中だった。


 緩めたネクタイと、腕まくりしたワイシャツを身につけていることを確認して、まず、裸でないことに安堵する。そして、一番肝心な生理現象は――。


 ちゃんと便座に腰掛けて、事なきを得ていたようだ。


 な、なんだ。夢だったのか。


 よく見れば、ここは飲み屋のトイレだった。仕事終わりに同僚と飲みに入った居酒屋だ。こんなところで寝込んでしまうとは、さすがに飲みすぎたとしか言いようがない。久々の大きな契約に気が大きくなっていたのだ。しかし、やたらにリアルな夢だった。京香さんのあの存在感。怪獣に闘いをけしかける姿など、今思えばあり得ない話だ。いくらなんでも、京香さんはそこまで天然ではない。


 俺はトイレの水を流し、手を洗った。長いトイレを同僚にからかわれるのを覚悟して外に出た。


「こ、これは」


 居酒屋だと思っていた場所は、会社のオフィスだった。


 割れた窓ガラスから吹き抜ける風に、書類が雪のように舞う。


 俺は恐る恐る、窓に近寄った。


 街がめちゃくちゃに破壊されている。


「どうなっているんだ」


 あれは夢ではなかったのか。


 その心の叫びに呼応するかのように、目の前に怪獣が立ち上がった。


「わっ!」


 赤く巨大な鯛の塩焼き。


 呆然とした俺の眼に、怪獣の怯える姿が焼きついた。


「なんだ。こいつ、震えているじゃないか」


 あの獰猛な姿を失い、子犬の如く震える怪獣。その背後にさらに巨大な影が迫った。怪獣よりも十メートルは大きい、三十メートル級の巨人。


 黒髪を振り乱した、鍋島京香だった。


「……京香さん」


 彼女は怪獣の頭を鷲づかみにして投げ飛ばした。


 ビルの壁面に激突して情けない咆哮をあげる怪獣に、思わず声が漏れた。


「気持ちいい!」


 あられもない全裸を晒して、京香さんの喜悦の表情が輝く。


 乳房を揺らし、張りのある尻をぷるんぷるんと震わせて怪獣の背中を蹴りつけるその姿は――悪魔そのものだった。


 やがて、空の彼方から戦闘ヘリの編隊が現れる。


 京香さんは歯ごたえを無くした怪獣から、戦闘ヘリに興味を移して体勢を整えた。


「さぁ、相手になるわよ人間ども!」


 あんたが怪獣の役回りになってどうするんだよ!


 俺の叫びなんか聞こえていない。


 背中を見せた彼女は、ただ両肩をぽきぽきと鳴らすだけだった。 


 戦闘準備完了。


 京香さんの本気に、戦闘ヘリのエンジンが唸りをあげる。


 ――赤い夕日に照らされて、大地に不条理が立っていた。



 おわり


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