後編 天衣無縫な、わたしのヒーロー

 長い長い、一週間だった。

 いつ戻れるのだろう。もしかしたら一生、このままかもしれない。目が覚めた時、自分はどちらの世界にいるのか。

 不安定に揺れる心を抱えて、みやは微睡まどろむ。


 月曜日は、朝から衝撃の連続だった。

 物置である筈の隣室から、あくびをしながら背の高い女の子が出てきて「おはよー姉ちゃん」と声を掛けられ――え、誰?

 ギクシャクしていた筈の継母ははからは、満面の笑みで愛情たっぷりのスキンシップを受け――え? 何ごと??

 隣の月極駐車場には、一夜にしてアパートが建っていた。その一室から出てきた同じ高校の制服の男子は、やけに親しげにみやの名を呼び「俺、日直やけん先に行くな!」と自転車で走り去った。

 だから誰ですか!? わたし、あなたのこと知らないんですけどー!

 方言なんて、お年寄りの言葉だと思っていた。少なくとも、みやの同世代に好んで使う子はいない。

 目立たず平穏にやり過ごそうと思っていたのに、教室を飛び交う方言に圧倒されて一言も発せず立ち竦んだみやは、実はその時点で、多くのクラスメイトに見破られていたそうだ。

 こいつ、中身ミヤとちゃうぞ、と。


 心配していた学校生活は、存外楽しいものになった。河合さんと尾崎くんが、クラスの皆との橋渡しをしてくれたおかげだ。内気なみやを気遣って、どちらか一人は必ずそばに居てくれるのが有難い。

 不安が解消されたら、自室のPCを触る余裕も出てくる。

 連載の続きを読もうと『カケヨメ』を開いたら『カクヨム』になっていて、思わず二度見した。フォローや閲覧履歴を見ても、知っている作品がひとつも無い。嘘でしょ、『バツいちねんせい』の続きが読めないなんて!

 大きな喪失感を抱えながら仕方なく、「ミヤ」がフォローしている作品を開いたら、どれも面白くて時間を忘れた。読書傾向は、みやの好みと近い。

 でも、このPCには創作活動の形跡がなかった。登録しているどの投稿サイトのマイページにも、投稿作や下書きがないのだ。

 社交的な「ミヤ」ならどんな小説を書くのか、興味があったのに。





 次第に意識が浮上していく。日曜日だから一時間遅く設定したアラームも、もうすぐ鳴るだろう。

 そろそろ起き……起き、なきゃ……かっ体が、重っ!

 一気に覚醒し、首だけ動かして確認すると、細い腕でみやを拘束している少女のあどけない寝顔が見えた。


「カナちゃん?」


 こちらの世界で出会った「ミヤの妹」。ボーイッシュで溌溂としたスポーツ少女。いや、確かに似ているし、顎の小さなほくろもカナと同じだが、この子の髪は長い。肌は、病的なほど白い。

 ハッとして部屋の壁面に目をやる。

 制服のリボンが赤い。本棚の配置が昨日までと違う。ここは元の「みやの世界」だ。では、この子は。

 長い睫毛が動いて、少女が目を覚ました。跳ね起きて、怯えた顔で周囲を見回し、みやに気付くと緊張を解いてふうっと息を吐いた。


「ねぇね」


 幼い日の呼び方のまま、みやに抱き着く。別れた実母が攫うように連れて行った、みやの妹。

 抱きしめた体は痛々しいほど痩せていて、「カナ」とのあまりの違いに涙が出てきた。



<あんた、口を利くんじゃないわよ。黙って後ろに立っといで。余計な事喋ったら、承知しないから>


 両親と姉妹、家族全員が集まったリビングで、かなが隠し持っていた古い携帯電話のボイスレコーダーが再生された。

 インターフォンの音。一転して猫撫で声で訪問を告げるのは、約十年ぶりに聞く、ノイズ混じりの実母の声。

 急に動悸が激しくなった。呼吸が浅くなる。この場から逃げ出したい気持ちを必死に抑え込む。どうして? もう平気だと思ったのに。今までずっと平気だったのに――!

 震える右手を、継母おかあさんが包み込むように握ってくれた。目が合うと、大丈夫よと頷く。向こうのママと比べるとぎこちない笑顔だけれど、眼差しに宿る深い愛情は疑う余地もない。

 左腕には、かなが甘えるように縋り付いた。昨日着ていたという、フリルやリボンをふんだんにあしらったワンピースは、体型を隠すためにあの人が選んだのだろう。中学三年生の筈なのに、みやが小学生の頃のTシャツとキュロットスカートがぴったりで、養育環境の劣悪さが窺い知れる。なのに彼女は、辛い境遇を感じさせない晴れやかな笑顔でみやに言う。


「だいじょうぶ、この後ねぇねが助けてくれたから」


 ボイスレコーダーの音声は、甲高い悲鳴と怒号が入り混じり、ノイズがひどくなって突然途切れた。動いた拍子にアプリを終了してしまったらしい。

 父がタブレットを取り出し、みやにも見えるようにテーブルに置いた。


「向かいの木下さんが、この時の様子を動画で撮っていてね、お願いしてデータを送ってもらったんだ。これが、なかなかの見ものだぞ」


 動画の冒頭部分は、ほのぼのしたお散歩映像だった。奥さんが押すベビーカーに乗せた赤ちゃんを、旦那さんが撮影している。父は早送りして、問題のシーンの手前で通常再生に戻した。

 赤ちゃん越しの風景が月極駐車場に差し掛かった所で、突如映像が乱れた。撮影者がカメラごと振り返る。


<――くっっそババアー!!>


 カバンを小脇に抱えて猛然とダッシュしてくる女子高生。

 ビュンっと撮影者を追い越し、髪を靡かせ駆け抜けた彼女が玄関前の人影に向かって飛び蹴りをかます瞬間を、カメラは余すことなく捉えていた。


<きゃあっ何すんの、危ないわね!> 

けるなや、何しに来やがった、くそババア!>

<あんた……みや? みやでしょ。親に向かって何て口を……>

<誰が親じゃ寝言は寝て言え! 育児放棄するクズなんぞ、親に持った覚え無いわ!>

<ちょっ、やだ何言ってるのよ、人聞きの悪い>

<カナ、こっちおいで! クズと一緒におったら性根が腐るで!>

<失礼な! この子は私が大切に育てて>

<まだそんな大嘘つくんか、じゃあなんでカナがこんなに小さいんよ! この子はなあ、ちゃーんと愛情注いで三食きちんと食べさせとったら、中学生で一七〇超えるんじゃ!>


 みやは、ぽかんと口を開けたまま動画を見ていた。

 ブランド名は分からないがお高そうなスーツを着た、派手な顔立ちの女が、悲鳴を上げて身を捩る。カバンを振り回して威嚇する「自分」。その背に庇われているのは、表情の乏しい青白い顔のかなだ。

 いつの間にかすーっと玄関前に回り込んだカメラは、後退りしていく女の引き攣った顔からパンして、雄々しく仁王立ちする「彼女」を映した。無造作に編んだ髪は乱れ、制服のリボンも歪んでいるが、キッと女を睨み据える眼差しには恐れも迷いもない。

 かなの表情の変化も劇的だった。

 虚ろな目に光が戻り、頬に赤みが差す。くしゃっと顔を歪め、声を殺して泣き始めた。きっとこの瞬間から、かなの呪縛は解け――「木下さん、ナイスアングル。いい仕事してるねえ」もうっ! お父さんちょっと黙って!


<早よねくそババア! ママー、塩持ってきて塩! 入れ物ごと持ってきて!>

<お、覚えてなさいよ!>

<はんっ>


 腰に手を当て鼻で笑うと、みやの姿をしたヒーローは、この一週間ですっかり耳に馴染んだ方言で高らかに言い放つ。


<お前の腹から産まれてきたんは、あたしら一生の不覚やわ。そっちこそ、よう覚えとき!>


 ああ――溜飲を下げるとは、このことか。


「どうだった?」


 テーブルを挟んで、父が穏やかに笑っている。継母が、優しく肩を抱いてくれる。かなが「カッコよかったね」と目を輝かせる。

 動画が終わった後も暫く放心状態だったみやは、大きく息を吸い込んだ。


「最っ高に、スカッとした!」



 月曜日。

 父は、弁護士にアポを取って朝から出掛けて行った。

 再婚が決まったあの人は、邪魔になったかなをこちらに押し付けるつもりだったらしい。親権変更はスムーズにいくだろうが、彼女の事だ、先日の件で「怪我をした、慰謝料を払え」と言い出しかねない。先手必勝、父はあの動画データを持参している。飛び蹴りは躱され、振り回したカバンも威嚇だけで、あの人の体にかすりもしていない。いいを撮ってくれた木下さん、ありがとう。

 継母とかなは、物置を片付けてかなの部屋を整えるという。片付けの後は買い物や料理などをして過ごすそうだ。

 楽しそうな二人に見送られて学校に向かう。

 隣のアパートは、月極駐車場に戻っていた。それが少し、寂しい。

 同じようでいて、少しずつ違っていたクラスメイト達。三組の筈の桜井さんが、桜木さんと入れ替わりに二組だったり、双子の吉田くんも、兄と弟のクラスが逆だった。威圧感があって苦手な田村くんの代わりに、尾崎くんがいた。

 別のクラスで見た覚えはないし、もしかしたら学校が違うのかも。こちらの世界でもいつか、尾崎くんに会えるだろうか。

 

 二年二組の教室。

 窓際の後ろの席で机に突っ伏している坊主頭は、不動の四番打者、岡田くん。投手の岡田くんとは、体つきが少し違う。

 教室の後ろ側から入ったみやと入れ違いに、前から出て行ったメガネ男子は、学年首位で、いつもピリピリした空気を纏う片桐くん。

 真ん中の列、前から三番目の席に、河合がいた。ストレートのボブヘアに、切れ長の涼やかな目元。実は先週まで、ほとんど話したこともなかったクラスメイトだ。


「おはよう、河合さん」

「おはよう」


 弛みなくきっちり編み込まれたみやの長い髪に目を走らせ、「もう『しぃちゃん』って呼んでくれないの?」と、静花は微笑んだ。

 向こうで繋いだ縁が、戻ってからも続いている。それがたまらなく嬉しい。


「『静花さん』って呼んでもいい?」

「いいよ。あたしは『みや』って呼ぶけどね」


 佐々木さんや篠原さんには、おはようを言う間もなく「お帰り!」とハグされた。片桐くんが「俺はそんなに不幸に見えるか?」と真顔で訊くので、趣味

を楽しみながら成績も上位をキープしていた「彼」の事を教えたら、何やら考え込んでいる。

 不意に、廊下の方でざわめきが広がった。皆につられて顔を向けると、制服を着崩した男子生徒が入ってくるところだった。

 田村くんだ。相変わらず眉間にしわを寄せ、真ん中の列の一番後ろに腰を下ろす。その髪色が、金髪からアッシュブラウンに変わっていた。

 静花がみやの袖を引いて囁く。


「先週、髪の事でいじられ続けたのよ。『ミヤ』に」


 えっ、イメチェンの理由それなの!?

 みやは頭を抱えたくなった。向こうのわたし本当に自由だな!

 クラスの男子に「その色いいじゃん」と声を掛けられ、珍しく田村くんが顔をほころばせた。右の頬に笑窪――。


「尾崎くん?」

「だからそれはお袋の旧姓だ!」


 思わず声を上げたみやに脊髄反射で返した田村くんは、ハッと口を噤み、仏頂面を作る。なるべく目を合わさないようにしていたから、彼の顔をまじまじと見たのは初めてだけど、これ絶対、機嫌が悪い時の尾崎くんだよ!


「……何笑ってんだよ」


 睨まれても、もう怖くは無かった。

 彼の良い所を沢山、向こうで見てきたから。


 部屋でPCの電源を入れ、制服のリボンを外す。

 昼休みは大変だった。静花を筆頭にクラスの女子全員に囲まれ、「オザキとやらは、どんな男子だ」と根掘り葉掘り聞かれた。髪色いじりの件も、演劇部の篠原さんが再現付きで教えてくれて、気が遠くなった。

 わたし、帰ったら『カケヨメ』で一週間分の『バツいちねんせい』読むんだ――。それだけを心の支えに、放課後まで乗り切ったみやである。

 ネットに接続するのはこちらに戻って以来初めてだ。大好きな小説を、また読める幸せを噛みしめながら鼻歌混じりに机の前に座り、開いたページの僅かな違和感に首を傾げ、数秒後。


「え、ちょっ……何これ!?」


 みやは、『カケヨメ』で長編を一本書き上げている。だが読み返すたびに粗が目に付き、推敲を重ね、そのうち自信が揺らいできて、結局下書きのまま放置していた。

 なのにワークスペースを開いたら、各章タイトルの左側、『未公開』の表示が『予約中』に変わっている。序盤の数話など既に『公開中』だ。

 小説設定画面に目を走らせる。「カケヨメ甲子園」に応募中って! そりゃ高校生のうちに応募したいとは思ってたけど! 確かに、思ってましたけど!


「ああーもうっ! やってくれたわね、『わたし』!」

 

 こんな、突き飛ばすような勢いで背中を押されたら、あとはもう走り出すしかないじゃないか。

 動画の中で小気味いい啖呵を切ったヒーローは、みやの姿をしていた。同じ強さが、この胸のどこかに眠っている。

 だって彼女はわたしだもの。

 みやは大きく深呼吸すると、「新規作成」をクリックした。

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あたしの知ってる「飯テロ」と違う!! りま @rima

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