習作短編
砂塔ろうか
右腕の兄
男が目を覚ますと、そこはまっくらだった。
……どこだ、ここは。
困惑する男の耳にやわらかな乙女の声がとどく。
――にいさま。
……お前、晴乃か?
――はい。
男に、乙女――晴乃はゆっくりと問う。
――ねえ、にいさま。昨日の晩ご飯に何を食べたか、覚えていらっしゃいますか?
……急になんだその質問。
――いいから。
その言葉に男は晴乃らしからぬ妙な焦りを感じたものの、ひとまず答えてみることにした。だが。
……思い、出せない……。
何も思い出せなかった。
「昨日」の夕食のことだけではない。それ以外のことも。
男は「昨日」、自分がどこでどうしていたのかをまったく思い出すことができなかった。
男がその旨を伝えると晴乃は、
――そうですか。
と一言。
それから男の不満そうな気配を感じ取ってか、付け加えるようにこう言った。
――ちなみに、その日のにいさまはいつものように、朝ごはんもお昼ごはんも食べないで銘糖堂のカステラを頬張っていらっしゃいました。私の注意など聞こえないフリをして。
……よく覚えているな。
なんとなく、ばつの悪い感じがして、男はそっけなく返事をした。そんな男に、晴乃は得意気な調子で答える。
――妹として、にいさまのことなら何でも知ってますもの。
……ああ、そういやそうだった。
晴乃の言葉に男はクスリと笑う。
……それにしても。
男は、先程からずっと気になっていたことを晴乃に尋ねた。
……ここはどこなんだ? まっくらで周囲の様子がよく分からない……どころか身体がどうも、……妙な話なんだが全く動かせない。
こうして話はできるのだから全身が麻痺しているというわけなのではあるまい。と、男は推測するも、しかしそれでいて身体が全く動かせないというのは、なんとも不気味だと思った。
……しかも、妙に脈拍を強く感じるんだ。緊張していると、耳元で心臓がどくどくと鳴り続けているように感じることがあるだろう? それがなぜだかずっとつづいているようで……なあ晴乃。教えてくれ。俺は、……いま、どんな状態なんだ?
晴乃は答えた。
――右腕です。
……どういうことだ?
――にいさまはいま、右腕となっているのです。あの日のおぞましき出来事によって身体を失ってしまったがために。
……待て。それじゃあこの、いま俺が感じている心臓の鼓動は…………。
――私のものです。ねえ、にいさま。強く、「目を開ける」と念じてみて。そうすればきっと、目が開きますわ。
言われるがままに、男は念じた。
すると、一気に男の視界が光で満たされていく。
はじめに見えたのは、晴乃の顔。
「おはようございます、にいさま」
己の右手に向かって、晴乃はほほえみかけた。
習作短編 砂塔ろうか @musmusbi
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