亀とウサギ 2

 私の家の付近に公園があるせいで、家に帰るにはどうしてもその前を通らなければならない。大した事ではないと思うかも知れないけど、子供たちの声が響き渡る公園は私にとって最終関門にふさわしい場所だった。

 極力、子供たちの声を聞かないように、子供たちに醜悪な姿を見せないようにゆっくり歩いた。

 

 私だって、子供の頃は良くこの公園で遊んだ。お母さんの言いつけを無視して、ジャンブルジムの一番上まで登って何度心配をかけたことだろう。そんなことを思い出すと、また悲しくなってくるので、一回、心を殺す。

 

 何も考えず歩いていると、子供たちの中から、聞き覚えのある声がする気がした。関心を持たないつもりだったけど、気になって目を向けてしまう。

 ブランコに乗る子供たちの後ろにいる、到底子供とは思えない背丈の人が目に入る。そんな光景、別にどこにでもある親子の仲睦まじい姿として片付けることもできるけど、私はその場で固まった。

 

 その人は、私と同じ制服を着ていた。瞬時に、しまった、と思う。時刻は夕方の四時半、普通に学校を終えて帰宅している生徒がいることを頭に入れて行動すればよかったのに。私は馬鹿だ。それだけなら相手の目に留まらないように、その場を去ればいい話だけれども、私はその人物が誰か分かっていた。

 

 小倉、小倉さつきだ。

 私と同じように、障がい者まがいのあいつがこんなところで何をしているのか。私にはどうでもいいことだけど、少しに気になる。

 神経を耳に集中させ、小倉の声を探った。

 「お姉ちゃん、もっと押して」

 「幸一君、これ以上は危ないよ」

 幸一君、という呼び方から二人は兄弟でないことが予測された。普段学校では見ないような笑顔を見せながら、ブランコに乗る少年の背中を押す小倉は、悔しいけどとても楽しそうに見えた。相変わらず、足は引きずっている。

 

 家に向かっていた私の足は、次第に公園内へと踏み入っていた。

 何か嫌みを言ってやろうとか、そういうのじゃない。ただ単純な興味。

 私は不格好な歩きを惜しみなく披露し、小倉の前へと足を進めた。

 「ねえ、何やってんの」

 「え、」

 ブランコを終えた子供の横で休憩する小倉を前にして、私は唐突に問いかけた。いきなり目の前に現れた私に怯えるように身をすくめ、小倉は言葉を失った。

 

 「薫ちゃん、良くなったんだね」

 小倉は私の問いに対して頓珍漢な答えを披露する。でも、今まで自分を虐めていた相手がいきなり目の前に現れて、その相手をねぎらう言葉を掛けたことに私は少し感心した。

 「まあ、良くなったのかな」

 「そっか、良かったね」

 当たり障りのないやり取りをした後、私たちの間から会話は消えた。今まで良好な関係ではなかったのだから、当たり前と言えば当たり前だ。

 さっきまでブランコに乗っていた少年は、いつの間にかジャングルジムで遊んでいる。

 

 気まずさを緩和する様に、私はまた同じ質問を投げかける。

 「何してたの」

 「子供たちと遊んでた」

 ふーん、と適当に相槌を打ち、私はブランコにおいて柵の役割をしているだろう鉄の棒に腰を掛けた。

 「薫ちゃん、大変だったね」

 小倉の言う大変だったが何を指しているのか、容易に想像できた。他人事のように話す小倉に少し腹が立ったけど、こんなところで喧嘩を吹っかけても仕方がない。

 「まあ、ね」

 「大変だったよね。でも、もう歩けるようになったんだ」

 小倉の言い方には妙に現実味があった。もしかしたら、自分と私を照らし合わせているのかもしれない。

 自分と小倉は同じ、そう思うだけで何だか苛立ちを覚える。

 

 「何、仲間だとでも思ってんの」

 以前と同じような物言いで、また憎まれ口を叩いてしまう。一時の感情に流されてしまう自分の愚かさが嫌になる。

 「そんなこと思ってないよ。私なんかより、薫ちゃんの方がよっぽど立派だし」

 立派、立派、立派って何だろう。何度か頭の中でその言葉を反芻してみるけど、その言葉が私に当てはまるとは思えない。

 

 小倉が私を嫌な気分にさせないようにとおだててるのは分かっていた。だけど、今の自分は、下手におだてられることさえ嫌だった。全く自分でも扱いにくい人間だと思う。

 「私のご機嫌取りでもしてるつもり」

 「そんなことないよ。ただ本当にそう思ってるから」

 「じゃあ聞くけど、足もなくなって、まともに歩けないような見苦しい人間のどこが立派だって言うんだよ」

 怒り、と言うように感情が漏れ出たというほうが近い気がする。いろんな感情が廻り廻って、上手くコントロールできない。

 

 「いや」

 小倉は完全に委縮している。顔面の筋肉を強張らせて、今にも涙が出そうなのをこらえているようだ。

 「正直、あんただってざまあみろって思ってるでしょ。今までやってきたことの報いを受けたなって。あんたの方がまだ歩けるもんね。お互い出来損ないの人間になったけど、まだ生活できてるお前の方がましだもんね」

 

 息継ぎもせずに声を荒げたせいで、話し終わると私は肩を上下させ立派な肩呼吸を見せた。

 そんなことはお構いなしに、私は続ける。

 「あんたは生まれつき足が上手く動かないから分からないかも知れないけど、今まで普通に生活していた人が急にこんなことになって、不自由な生活をしないといけないってことがどれだけ苦痛か分かる?なんでこんなこともできないんだろう、なんでこんなこともやってもらわないとならないんだろうって、どんどん自分のことが嫌いになってくの。成長していくどころか、人間として未完成になった自分が、気持ち悪くて仕方ない。足が不自由ってことはあんたと同じかも知れないけど、それ以外はまるで違う。あんたみたいにお気楽に生活できない」

 

 マシンガントークを体現する様に、私は声を切らず一気に言葉を繋げた。まるで、ボールをひたすらネットに投げているような感覚、相手からの返答なんていらない。自分の中にある鬱憤をひたすらに投げつけられればそれでよかった。

 何かアクションを起こすわけではなく、小倉はただ私を見ていた。その表情はなんとなく暗い。

 

 「わかるよ」

 真っすぐ私を見つめて、小倉は言った。

 「何が、あんたと同じじゃないって言ってんじゃん」

 話の通じない小倉を睨みつける。先ほどよりも大きな声で、本当に罵声を浴びせるくらいのつもりで言葉をぶつけると、それに覆いかぶせる風に「私も同じだから」と小倉が声を荒げた。

 

 「同じ、って」

 私は目を丸くしながら、小倉の言葉をオウム返しした。何が同じなのか分からないけど、そんなことより小倉が大声を怒鳴ったことの方がよっぽど驚いた。小倉本人も慣れないことをしたせいか顔を強張らせ、すこし体を震わせている。

 私の言葉に対して、少し間を開けた後、小倉は口を開いた。

 

 「私ね、病気になったの。骨肉腫っていう」

 反射的に「え」と言葉を出した後、私は開いた口が塞がらなかった。元々足が悪い奴だと思っていたのに、ふたを開ければ私と同じだったなんて信じられない。

 

 ずっと目の前に立っていた小倉が、私の隣に腰を掛ける。私の言葉を待つ前に、小倉は話始めた。

 「私、中学校の時ね、骨肉腫っていう骨の癌になったんだ」

 私は小倉の言葉を、ただ聞くことしかできなかった。何も知らず、今まで自分の好き勝手に小倉をあしらってきた人間が、ここで言える言葉なんてなかった。

 「でも、比較的初期の段階で癌を見つけることができたから、手術で取り除くことができたんだけど、癌のできた位置が悪くてずっと神経を圧迫してたみたいで、左足が麻痺しちゃったんだ。それでもリハビリのおかげで、何とかここまで良くなったんだけど、もうこれ以上は良くならないみたい」

 

 「どうして」

 「良くは分かんないけど、先生がそう言ってたし」

 「そうじゃなくて」

 私が聞きたいのはそんなことじゃなかった。なんで治らないとか、そういうことじゃない。

 「なんで、今まで言わなかったの」

 「なんでって、別にわざわざ言うようなことでもないから」

 少し上を向いて考えたような素振りを見せた後、小倉は答えた。

 「私たちに散々に言われて、その理由を言い返せばよかったのに」

 「そう言ってたらさ、何か変わったの」

 真剣な眼差しで私を見つめて、小倉は言った。自分で話を振ったくせに反応に困った私は、あやふやに目を泳がせる。

  

 真剣な表情のまま、小倉は続けた。

 「私思うんだけど、きっとね、薫ちゃんがそういう風に言ったのは、私と同じような状況になったからだと思うよ。だから、怪我する前の薫ちゃんに今と同じことを言っても響かなかったと思う」

 「なにそれ」

 小倉の言葉を認めるのが怖くて、反抗的な言葉を返したけど、内心それは図星だった。私から目を逸らし、軽く微笑んだ後、小倉は切り出した。

 「薫ちゃんはさ、今まで私の気持ちとか考えたことある?」

 「え」

 私はそれ以上、小倉に何も返せなかった。小倉の気持ちを考えたことがあるなんて、お世辞にも言えなかった。

  

 「まあ、そうだよね」

 悲しそうな笑みを見せながら、小倉は呟いた。きまりが悪くなった私は、ちらっと左腕に着けた時計に目をやる。時刻は午後四時。まだ物寂しそうに残る残暑の日差しが少し鬱陶しく思える。また別の子供が公園内を駆け巡り、それを追いかける母親の声が公園内に響く。母親は少し怒ったような声を上げているけど、何だか嬉しそうだ。

 「私もさ、不安だったんだ」

 唐突に話す小倉の声に、一瞬の緊張が走った。次に小倉から出てくる言葉が怖い。

 「学校でみんなに馴染めるかなとか、周りからどう思われるんだろうとか、私はこれからどうなるんだろうとか、多分、今薫ちゃんが思っているような不安を抱えながら高校に入学したの。結局、みんなに馴染めなかったし、周りからも良く思われてないけどね。それでも、少しだけ、少しだけ期待してたんだ。もしかしたら誰かが私に声を掛けてくれるかも知れない。好きな人ができるとか、そんな高望みはしてないけど、友達ができればいいななんて思ってた。でもね、気づいたんだ。薫ちゃんたちに出会って、正直辛いときもあったけど、みんなと違う私が、みんなに馴染めるわけがないって」

 

 「小倉、ごめん。本当に、ごめん」

 話し終わるのを待たずして、私は口を開いた。話している小倉がどんな表情を見せていたのか、ずっと下を向いていた私には分からない。「別に責めてるわけじゃないよ」と言った小倉の声がずっしりと私の心に伸し掛かる。

 「本当に、そういうことが言いたいんじゃないよ。だって、あの中で異常なのは私だってことは分かってるし、実際、いろいろ迷惑かけてるしさ」

 

 私が顔を挙げた時、小倉は優しく微笑んでいた。私を軽蔑している訳ではなく、ただの世間話をしているような、微笑ましい目線を私に向けながら。

 「こんなことにならなきゃ、謝ることもできないなんて、私最低だね」

 「そんなことないよ。その気持ちは、私も分かる」

 私は人を傷つけた。無意識のうちに、自覚のないままに、自分勝手に思いのままの言葉を浴びせて、それを笑った。それがどれだけ小倉を傷つけたか、今の自分ならわかる。自分も同じようにならなければ相手の気持ちも分からないなんて、私はなんて小さな人間なのだろう。それに気づいた今だからこそ、聞いておきたかった。

  

 「ねえ、私たちの事、嫌だったでしょ。正直に、教えてほしい」

 小倉は目を丸くした後、腰かけていた鉄棒の前にある柵から立った。

 「うん。正直に言うと、嫌だった」

 「そうだよね。ごめん」

 小倉からの答えは分かっていたけど、実際に言われると心が痛い。

 「嫌だったけど、羨ましかった」

 「え、どうして」

 小倉からこんな返答が来るとは思わなかった。

 「だって、薫ちゃんたちすごく華やかな感じがして、嫌だったけど憧れてたっていうか、なんか変な感じだった」

 「小倉のこと殴ったりしたのに、よくそんな風に思えるね。ほんと、馬鹿じゃないの」

  

 あっけらかんとした表情を見せた小倉に対して、私は少し茶化すように言う。自分を殴った相手を前にして、こんな風に話せる人間そういない気がする。

 「でも、今まで本当にごめん」

 小倉の話を聞いて、何も知らなかった自分が無性に情けなく思えた。知っていたら何か変わったかは分からないけど、同じような立場に立って、今まで自分がどれだけ小倉を傷つけていたかはわかる。

 「あははは。急にどうしたの」

 「本当に、悪かったなって思って」

 「そんなに重たい感じで言わないでよ。いつもの薫ちゃんはどこに行ったの」

 「何、いつものって」

こんなに明るい笑い方ができるんだ。小倉の笑い声を聞いたのは、初めてだった。きっと、この笑い声を消していたのは私達だ。

 

 「ねえ、薫ちゃん。学校おいでよ」

 なんの前置きもなく、急に小倉が切り出してきたので、私は返答に困ってしまう。行きたかった学校。でも行けなかった学校。本当は分かっていた。リハビリ期間なんて自分に言い聞かせて、学校に行っていない今。行っていないというよりも、行けていないといった方が正しいのも分かっている。正直、怖い。こんな自分を周りが受け入れてくれるのか、今までさんざん自分勝手に生きてきた私をよく思っていない人がいることも分かっている。それでも気にしてこなかったのは、果歩と優香という絶対的な二人がいたから。何があっても二人が守ってくれる。ヒエラルキーのトップに立つ私達なら何をしてもいいと高を括っていた。でも、果歩と優香は一度お見舞いに来て以降、顔を見せるどころか、連絡一つ来ていない。SNSを見れば二人が楽しんでいるのは分かるのに、そこに私はいない。もしかしたら、二人の足手まといになる私は、二人にとってもういらないのかもしれない。

 

 「そろそろ、行こうかな」

 「うん、みんな待ってるよ」

 ねえ、どうして。どうして自分を虐めていた相手に対して、そんな笑顔で「学校においで」なんて言えるの。もういっそのこと「あんたみたいな最低な人顔すら見たくない。二度と学校に来ないで」なんて言ってくれれば、私は楽だったのに。「そうだね。私みたいな最低な人間、学校にいない方がいいよね」とか言って二度と学校に行かないようにしようと思ったのに。

 

 今の自分が作れる最高の笑顔を見せて、最後に一つだけ尋ねる。

 「果歩と、薫は元気?」

 「二人とも元気だよ。でも、薫ちゃんがいなくて寂しいんじゃないかな」

 「そうかな」

 

 夏の生暖かい風が、私たちの肌をなでる。まだ、全然日差しは残っているのに、何だか寒い。学校、今まであんなに好きだったのに、こんな簡単なことで行きたくなくなるんだ。私の勘違いならいいと思うけど、違う気がする。今まで一緒にいたから、何となく分かる。

 「じゃあ、そろそろ帰ろうか、今日は話せてよかった。薫ちゃんまたね」

 「またね」

 足を引きずるように歩く小倉の姿が、だんだんと小さくなっていく。小倉の姿が見えなくなってから、杖をついて義足を精一杯不格好に動かしながら歩く。

 

 果歩と優香が、毎日のようにお見舞いに来てくれたら、私はすぐ学校に行ったのだろうか。左足がないことを恥じて、怯えて、今のように学校に行けなかったのだろうか。結局、私が怯えているのは左足のない私か、それとも友達のいない私か、もうどっちか分からない。

 

 私の心を蒸し返すような、日の光が邪魔だ。足早に、私の夏は姿を消した。これから、私には秋が待っている。冬が待っている。そして、春が来る。巡り来る春が、私にとって暖かいものであればいいな。そんなことを考えながら、私はまた同じような明日が来ることを待っている。

 


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四葉のクローバー 辻川優 @shimura

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