亀とウサギ 1
「私の人生って何だと思う」
まだ緑がかったイチョウの木にとまる燕にめがけて、問いかける。そんなこと知らないという風に、私の問いを受けた燕は空へ舞った。
「わかるわけないか」
誰の耳に入る訳でもなく、私の呟いた言葉は先ほどの燕と同様に秋空へ消えた。
燕に話しかけるという不思議ちゃんまがいの行為に対して、少したってから恥ずかしさが襲ってくる。私は足を失っただけで頭はおかしくなってないはずなのに、おかしい。
結局私は、退院してから少しの間学校を休むことにした。一応病欠扱いになるので、復帰してから冬休みと春休みの補講に出れば留年は間逃れるらしい。嬉しいけど、めんどくさい。
この休養期間で、人の視線になれるように努力を始めた。その一環として、日中少しの時間でも外に出ることを心掛けている。いきなり大通りに出るのもハードルが高いから、近くの散歩道をゆっくり歩くことから始めた。
退院してから体調に変わりはないけど、この前の外来では炎症反応が上昇しているとかなんだとか、私にはよくわからないことを延々と話されて苦痛だった。結局、左足の切断面と、義足が上手く噛み合ってなかったようで新しい装具を検討するらしい。そんなこと、わざわざ難しい言葉を使って話さなくてもいいのに、医者という人種はなんだか理屈っぽいというか、いくらお金を持っていようと私は好きになれない。
目をとめていたイチョウの木に別れを告げ、私は自宅までの道を歩き始めた。左足の負担を減らすために、私は新しい義足ができるまで杖を使って歩かないといけないらしい。せっかくここまで回復したのに、また逆戻りした気分がして嫌だった。
学校に戻るという決断をしたのに、どうして私はこんなところでリハビリをしているのか。人前に出ることに抵抗を覚えているような人間が、このまま学校に戻れるなんて到底思えない。
雲一つない空の下、イチョウ並木の間を歩く私。一つの絵としてこの風景を見るとしたら、ここに私がいらないことくらい一目両全だった。
「こんにちは」
正面から歩いてきたおばあさんに、少し声を強張らせあいさつをする。こんな当たり前のやり取りも、今の私には少し苦痛だ。
笑顔で「こんにちは」と返してくれたおばあさんを見て、一気に気持ちが落ち着く。こんなことでさえ何かをやり遂げたような気持ちになってしまうのだから、今の私が社会に溶け込むなんて無理なんじゃないかと思えてくる。
こんな姿になって、何度昔の自分に戻りたいと思っただろう。もしタイムマシンが開発されたなら、誰よりも早く名乗りを上げて、タイムマシンに乗り込みたい。タイムマシンに乗って事故に合う前の私に合って、気をつけろと説教してやりたい。そして戻ってきたら、前みたいに自分の足で人生を謳歌している自分がいるんじゃないかと、何度妄想を膨らませたことだろう。結局どうにもならないことくらい分かっているのに、なんだか、自分は惨めだ。
そういえば、自分から誰かに挨拶するなんてずいぶん久しぶりな気がする。自分と、その周り以外の人間を受け入れてこなかった自分が、誰かに挨拶するなんてなかった。今思えば、自分は愚かな人間だった。
今まで挨拶なんてしてこなかったから、さっきは緊張したんだと自分に言い聞かせる。
平日の昼間にこんな道を通っている人なんてごく数人であり、さっきのおばあさんが通り過ぎると、この空間にいるのは私一人になった。
一人になった私は足取りがとてもスムーズになる。だって、誰が見ている訳でもないし、どんなに不細工な歩き方をしても何を思われる訳でもない。肩から重りが外れた様に、イチョウ並木の真ん中を一人で不格好に歩いた。
イチョウ並木を出て住宅街に差し掛かると、私はまたゆっくりと、自分なりに綺麗に歩いた。こんなことを気にしながら生きていたら身が持たないと思いながら、それでも気にしてしまう自分が嫌いだ。
この住宅街の丁度真ん中付近に、私の家はある。だから今まで毎日歩いてきた道なのに、怖い。いや、毎日歩いてきたからこそ怖いのかも知れない。私はこの街を知っている。周りの住人のことも知っている。同時に、周りも私のことを知っている。知っているということがこんなに怖くなるなんて思ってもみなかった。今は、知らないより知っているほうが怖い。
平日の昼間、さっきのイチョウ並木とは違い、主婦のおばさんたちが井戸端会議を始める時間だ。案の定、十字路の角にある電柱の前でおばさんたちが話している。一瞬頑張って挨拶をしようかとも思ったけど、やめた。
理由は、その中に知り合いの親がいたからだ。同じ地区で、中学校まで一緒に通っていた友人の親。高校は違う学校に行って、元々そんなに仲がいいわけでもないから今は交流門ないけど、ただ知っている。そんなどうでもいいような理由が私を委縮させた。
できるだけ音を立てないように、なおかつスムーズに。この二つの行為を同時に行うことが、今の私には難しい。
結局、ざっざっとアスファルトをこするように音を立て、それに加えて下手くそな歩きを披露するという最悪な結果になったことで、私の心臓はびっくりするくらい音立てて鼓動していた。
最悪だ。おばさんたちの視線を感じる。それが背中に刺さって痛い。
実際に後ろを見たわけではないから本当に私を見ているのか分からないけど、見ているかもしれないという想像が、私を苦しめる。
私の目の前を、一台のトラックが通る。このトラックに突っ込んでしまえば楽だったんじゃないかとよからぬことを考えるけど、それでまた生き残ったら悲惨なので、こんなろくでもない考えは私の横を流れる側溝の溝水に捨てた。
九月中旬、夏の暑さは次第に姿を暗まし、外気が心地いい時期に差し掛かる。そんな中で私だけ夏を引きずっているように、額から汗が噴き出ている。杖を突きながら不格好に歩き、季節外れの汗をかいている自分が恥ずかしくてたまらない。
俯きながら、ただただ家に帰ることだけに集中する。誰にどう思われようが構わない。今はただこの醜悪な自分を隠すことが最優先だった。
こんなことを、私はもう一週間も続けている。
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