泥沼と私 6
曇り、それも心なしか、いつも以上にどんよりとしている気がする。
せっかくの退院日なのに、その天気は私の心を模写している様で、薄気味悪い。
「木下さん、今日で退院ですね」
朝の検温に来た看護師さんが、優しく笑顔を見せる。結局一か月以上入院する羽目になった私は、朝の検温は夜勤の仕事だということを知っている。そして、夜勤と言っても、看護師さんはナースコール対応に追われ、まともに休憩すら取れていないことも知っている。
それなのに、疲れた表情一つ見せず、笑顔で患者に接することができるなんて、こんな姿だけ見ていれば白衣の天使と言われるのも頷ける。
昨日は、あまり眠れなかった。
退院できると聞いた時、私は飛び上がるほど嬉しかった。でも、いざ退院するとなると、どこかしらか不安が押し寄せてくる。
今日から、私は入院患者ではなくなる。
その肩書を失うことが、こんなにも心細いとは思わなかった。
あの日以降も、お母さんは時間があれば病室を訪れた。普段と何食わぬ顔で、私に接してくれるお母さんを見ると、ありがたいと思う反面、少し心苦しい。
お母さんは、あれ以来退院後の話をしなくなった。私も話さないから、結局何も決めぬまま退院する。
退院時の対応をしてくれたのは森川君だった。
一通り書類を渡すと、森川君は普段と変わらない優しい物腰で「退院おめでとうございます」と言った。
「森川君、こちらこそありがとう」
お母さんは少し困ったように「言葉遣い悪くてすみません」と軽く頭を下げた。
「いえいえ、そんなことないですよ」
「いろいろありがとね。私、これから頑張るよ」
「うん、かなり歩けるようにもなったし、大丈夫だよ」
森川君が笑顔で言う。森川君が言う通り、私は不格好ながら手すりを使わずに歩けるようになった。リハビリの先生は「なかなかこんなに早く歩ける人はいない」と言うけれど、いまいち自信が持てない。
「そうかな、でもまだリハビリあるし、頑張る」
左足に義足をつけて、病室を出る。他の看護師に手を振り、私は病棟を後にする。
「木下さん」
名前を呼ばれ、振り返ると先ほど別れを告げた森川君がいた。
「木下さん、頑張って」
「うん、頑張って生きるよ」
森川君が言いたかったのはきっとこういうこと。私の返答を聞いて、森川君が笑顔を見せた。
もう、入院患者じゃない。新しい自分として、生きていかなければならないのだ。
病院を出たのは久しぶりだった。もっと言うと、太陽の光を浴びたのも久々だ。
「今日は天気がいいね」
「うん」
私が入院している間に、季節はもう九月となった。
十七の夏は知らぬ間にどこかに消えた。もう戻ってはこないと分かっていながら、少し寂しい。
「薫の退院記念に、お昼はどこかに食べ行こうか」
嬉しそうに口角を上げたお母さんにつられ「そうする」と返答する。
母の車に乗り込む際、義足のついた左足を持ち上げるのに一苦労だった。何とかして乗りこむ私を待ち、お母さんは車を出した。
「薫、何が食べたい」
「うーん、何だろ、ハンバーグかな」
「じゃあ、ハンバーグを食べに行こう。近くのファミレスでいい?」
そういうと、お母さんは車を走らせた。
「駅前のファミレスさ、昔よく行ったよね」
「ああ、小学生くらいの時ね」
懐かしように話すお母さんを助手席から横目で見る。お母さんと二人で食事に行くなんて、いつ振りだろう。お母さんのことは好きだけど、中学生くらいから親と一緒に出掛けることを恥ずかしいと思うようになった。お母さんの表情を見ていると、私が退院したことが嬉しいのか、久しぶりに食事に行くことが嬉しいのかわからなくなる。
「あ、懐かしい。ここのスイミングスクール、薫が小学校の時通ってたとこだよね」
信号待ちをしながら、十字路の左前にあるスイミングスクールを指さす。
「中学校にも水泳部あればよかったのにね」
「あれば、入ってたかもしれない」
「入った方がよかったよ。薫、早かったもん」
小学生の頃、私は賞を取るほどの水泳の腕前があった。中学で水泳部があれば、そのまま水泳を続けて、高校でも水泳部入っていたかも知れない。今となっては、それが一番良かった気すらする。
それから駅前のファミレスに着くまで、特に会話はなかった。
窓から外の風景を見ていると、私と同じくらいの高校生の姿が目に入る。新学期は始まったばかり、今日は午前で終わりの学校もあるのだろう。リハビリの先生は、義足でも普通に生活している人はいる。オリンピックだってあるんだからと、ことあるごとに私を励ました。そんなこと、言われなくても分かってる。分かってるけど、実際自分がそうなれるのかと思うと、不安しか浮かんでこない。窓越しに高校生の姿を見ながら、私は左足に着けた義足をそっと撫でる。
昼時ではあったが、思ったよりもファミレスは混雑していなかった。話し好きそうなおばさん集団、早く学校を終えた学生、社会人らしき人などが程よく座り、店内にはまだ空きがあった。
「今日はあんまり人いないんだね」
母に言うと「今日は平日だからね」と返される。入院中変化の少ない生活を送っていたせいか、曜日感覚と言うものが私から欠落したらしい。今日が何曜日であるかなんて、考えてもいなかった。
お好きな席に座ってください、と店員さんに言われ、私は一目散にキッチン側の窓から一番遠い席に向かった。窓際の席にいたら、外を歩いている知り合いに見られるかもしれない。ファミレスに来た知り合いに出くわすかもしれない。そんな不安におびえながら、まだスムーズに動かせない義足を前に進めた。
「薫、気を付けて」
お母さんが気にかけてくれた言葉も、私には入ってこない。不安定な歩きを披露する私を、周りの客が見ている気がしてならない。実際見ているのかよくわからないけど、そう思うとなんだかソワソワした。
息を荒げながら席に着くと、後から来たお母さんが心配そうに声を掛ける。
「ちょっと、どうしたの。転んだりしたら、」
「外に出たの久しぶりだからかな。なんか、怖い」
お母さんが話終わるのを待たずして、私は今の心情を伝えた。伝えたというより、漏れ出たと言った方が近い。
私の言葉を聞いて、神妙な顔つきを見せた後、「無理しなくていいよ」とだけ私に言った。
何も言い返せず、私はそっと机の上のメニューに顔を向ける。
ハンバーグ、ハンバーグ。昔から、私はハンバーグが好きだった。特にお母さんの作るハンバーグは大好きだった。誕生日の日は毎年特製のハンバーグを作ってくれたのを覚えている。
今はハンバーグを食べることに集中していればいい。それだけでいい。
「私はチーズインハンバーグにするけど、お母さんは何にする」
ぱっと顔をあげて問いかけると、お母さんは笑顔で「お母さんもそれにする」と言った。
店員さんに注文を頼む時、不思議と怖くなかった。
机の下に足を隠しているというだけで、私の心に余裕が生まれる。
注文を終え、母との間に少しの間が生まれる。特に話すこともないので、私は周りを見渡した。
各々がそれぞれのことに集中しているこの空間は、まるで私がこの場にいないような雰囲気すら醸し出されている。
この空間と同じように、誰しもが私に関心を持っている訳ないと頭では分かっているのに、実際に人前に出ると怖い。
高校一年の学園祭で、私はクラスの出し物でダンスを踊った。センターに立って全校生徒からの歓声を真正面から受けた時は、本当に気持ちがよかった。
自分が自己顕示欲の強い女だということは重々承知している。
勉強はできなかったけど、それ以外のことは何故か努力せずとも起用にこなせたおかげで、周りは「すごい」と私を褒め称えたし、私もその歓声が気持ちのいいものだと知った。おまけに果歩ほどじゃないけど、私もそれなりに顔はいい方という自覚がある。
今までずっと中心にいたものだから、こうも華やかなところから地べたに落されると、そこで自分がどうしていいのか分からない。ただただ落ちぶれた自分を勝手に恥ずかしんで、結局そこから這い上がろうとはしない。
同じものを頼んだのに、私のハンバーグの方が早く来た。まあ、お母さんが私に譲ってくれたから私のが早いだけなんだけれど。
「熱いうちに食べちゃいなよ」
私はお母さんの分が来るのを待っても良かったけど、そう言うならとナイフとスプーンを持ちハンバーグに手を伸ばす。
「美味しい」
病院食ばかり食べていたせいか、自然と感情が言葉に出る。そんな私を見て「よかった」とお母さんが微笑みかける。
「ねえ、薫」
お母さんの声は、店内にかかるBGMに消されそうなほどの声量だった。場違いなタイミングで発せられた声は、私に変な緊張感をもたらす。
「なに」
無理とナイフとフォークでかちゃかちゃと音を立てながら、ハンバーグに目を向けて返事をしてみる。
「これからの生活の事、すぐに決めなくていいからね」
てっきり養護学校のことを話されるのかと身構えていた私は、少し拍子抜けした。思わず「え」と聞き返す。
私の声を遮るように絶妙なタイミングで店員さんが「チーズインハンバーグです」と割り込んできたので、私の発した「え」はそのまま宙へ消えた。
ナイフでハンバーグを細かく切りながら「これからのことは、ゆっくり考えよう」とお母さんが付け足す。私の放った疑問符はお母さんの耳に届いていたようだ。
店員さんが来て生まれた一瞬の間を埋めるように、私はハンバーグを口に詰め込んでいたので、すぐに言葉を返せない。
早く何かを返そうと、口の中にあるハンバーグを瞬時に転がすが上手く咀嚼できない。そうこうしているうちに、お母さんが言葉を続けた。
「薫の人生なんだから、薫が一番納得いくようにすればいいと思う。すぐに次に進めって訳じゃないし、しばらく自分がどうしたいか考える時間があってもいいんじゃないかな」
この間まで養護学校を勧めるような雰囲気を出していたお母さんから、こんな言葉が聞けるなんて意外だった。私はとりあえず口の中にあるハンバーグを飲み込んで、一回頷く。
「また養護学校のことを勧められるかと思った」
憎まれ口をたたくように、にんまりとした表情を見せる。でも、お母さんの言葉を聞いて、少しほっとしたのも事実だ。
「あの時はごめんね」
お母さんが、真っすぐ私の方を見て言う。そんなに見つめられたら嫌みの一つも言えないじゃないと軽くお母さんを小突こうかとも思ったけど、「うん」と言うだけで何もしなかった。
「私もごめん。正直、今のまだ自分のことを受け入れられてなくて、先の事なんて考えられなかった。強く言ってごめん」
お母さんに謝ると、何だか胸の内にある重みがすっと楽になった気がした。
「大丈夫。薫は、今どうしたいとか、何か考えていることとかある?」
「ううん、何もないよ」
「そっか、少しずつ考えていけたらいいね」
お母さんは頬を少し上げ、優しい表情を見せた。先の事なんて、まだ分からない。まだと言うより、タイムマシンでもない限り、先の事なんて一生分からない。もし分かっていたら私も足を失うことなんてなかった。
「薫」
「ん、なに」
改めた様に真剣な表情を見せて、お母さんは続けた。
「もしかしたら、これから辛いこととか、大変なこととかたくさんあるかも知れないし、何もかも嫌になることもあるかも知れない。でも、これだけは忘れないでね。お母さんとお父さんは、何があっても薫の味方だから。何かあったらいつでも頼っていいからね」
「何それ、なんか恥ずかしいよ」
何だか気恥ずかしくなって、私は笑ってごまかす。
お母さんが養護学校のパンフレットを持ってきた日、お母さんは私のことを思って提案してくれたことくらい分かっていた。私が嫌な思いをしないように、周りから外されないように、辛い言葉を耳に入れないように。そんなことくらい、馬鹿な私にも想像ついた。でも、そんなお母さんの気持ちを私は踏みにじった。今まで生きてきた木下薫を否定された気がした。自己愛が強く、自己顕示欲にまみれた私は、お母さんの提案が自分を表舞台から引き下ろすものと同様に思えていた。お母さんの、両親の愛を受け入れようともせずに。私は馬鹿だ。それは昔から知っているけど、勉強ができるできないとか、そういうレベルの馬鹿ではなくて、人間的な面における、最低な馬鹿。人間として、馬鹿な人。
「でも、もう少し、考えてみたい」
「わかった」
私に何ができるだろう。私は何になれるだろう。今は何も分からないけど、何か見つかればいいなと思う。
森川君に言われたように、生きる権利をもらえた私は、これからも生きる。そんな中で、私はどう生きていけるのだろう。どんな生き方ができるんだろう。
もう一度、ファミレスの店内を見渡す。
店員さん、どこにでもいそうなおばさん集団、何かパソコン作業をしている社会人、どこかの学生。各々の人生を持って集まっているこの空間が、急に不思議な空間に思える。
私の人生って何だろう。
店員さんがはつらつとした声で「いらっしゃいませ」と店内に響かせた。また一人、私と違う人生を持った人が、同じ空間に足を踏み入れる。
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