泥沼と私 5
日が落ち始めた街中を、速足で歩く。涙のせいで崩れたメイクを隠すように下を向きながら、ただただ自宅へと足を進めた。
今日、娘の病室にいた時間は十分にも満たない。怪我で苦しむ娘の見舞いを十分程度で切り上げてしまうなんて、親として最低だと思う。衝動的に病室から飛び出たが、なんと声を掛ければいいか分からなかったのも事実だ。
時刻は十八時過ぎ。この時間帯は通行人が多い。そんな中で前を見ていなかったせいか、右肩に軽い衝撃が走った。
「あ、すみません」
私が振り向くよりも先に、肩をぶつけた相手が先に謝罪する。
紺色のスカートに白いワイシャツ。そこに一つのアクセントとして加わる赤いネクタイ。ぶつかった少女が身に着けていたセーラー服は、娘が普段来ていた制服と同じだった。
軽く会釈をしてその場を去る。
その制服は、娘が可愛いと言い進学理由の一つに挙げていたものだ。私の判断一つで、娘はこの制服をもう着ることはできない。
どうして、うちの娘なのだろう。同じ制服を着て、同じ学校に通って、きっとあの日だって同じくらいの時間に帰ったことだろう。
どうして、あの娘じゃないんだろう。
こんなことを考えてもどうしようもないのは分かっているのに、ふと頭をよぎる。ただその日に貧乏くじを引いてしまったのが、たまたま自分の子供だっただけ。その事実がなかなか受け入れられない。
住宅街の中にある公園では今日も元気に子供たちが走り回っている。あの娘が小さい頃、よくここに連れてきたのを覚えている。「お母さんあのジャングルジムに登りたい」と自分の何倍もあるジョングルジムにどんどん登って行って、いつ落ちるんじゃないかとひやひやした。そんな不安も他所にさっさと頂上まで登り切って、笑顔でこっちを見る娘の姿を昨日のように思い出す。
もう、娘はあの時のように元気に走り回ることはできない。そんなことする年ではないけれど、それくらい元気でいてほしかった。
夏の終わり。日が暮れても蒸すような暑さが残るこの時期が、私は何となく好きだった。
だけど、きっともうそんなことは言わない。これから先、この時期が来るたびにこの苦しみを思い出すだろう。
最後まで自分の存在をアピールする様に泣き続ける蝉の声を背に、私はそそくさと自宅に戻った。
部屋に入るやいなや、私はソファーに身を預けた。
もうなんでもよかった。どうにもならないから、どうにでもなれと思った。何もしたくない。夕飯を作るのも嫌だった。
薄暗くなる部屋の中、電気をつけるのも面倒だった。
どこで、どこで私は間違えただろう。
私なりに薫の子育ては頑張ったつもりだ。幼い頃は薫の健康を考えて、健康にいい食事を勉強して作った。そのせいか、薫は今の今まで風邪一つ引かないほど健康だった。
薫にいろいろなものを見せてあげようと、いろんなところへ連れて出かけた。その都度見せる薫の笑顔が私は好きだった。
薫が友達をつれてきたときは、腕を振るってお菓子を作った。
子宝に恵まれず、兄弟を作ってあげることはできなかったけど、その分寂しい思いはさせないように努力していたつもりだ。そのせいか少しわがままになってしまったけど、それでも我が子は可愛かった。
私達家族は何も悪いことはしていない。それなのに、どうしてこんな仕打ちにあうのだろう。
今なら、きっと断言できる。神様なんていない。私たちが作り出した迷信だ。
右目から、一粒の涙がこぼれた。それをきっかけに、両目から涙が溢れ出る。
悔しくて、悔しくて、息を殺して泣いた。ソファーに爪痕が残るくらい握りしめて、泣いた。
涙する私を照らすように、部屋中の明かりがついた。「里穂、どうしたの」と驚いたように夫が声を上げた。
「裕ちゃん、どうすればいいの」
すがるような思いだった。涙でぐちゃぐちゃな顔を、夫に向ける。
「どうしたの」
夫の声は優しかった。
「私、薫を傷つけた。一番辛いのはあの子なのに」
「薫と、何かあったの」
そう言い、隣に座る夫に対し、うん、と首を縦に振る。
「薫、そろそろ退院できるみたいなの」
「そうなの、それは良かった」
泣いている私とは正反対に、夫は無邪気な声を上げた。私もこんな風に喜べたらよかったのかも知れない。
「あ、ごめん」
場違いな表情を見せたことに気が付いたのか、夫が困ったような表情を見せる。
「ううん、大丈夫」
私は一つため息をついた後、涙を拭って話始める。
「あの子、退院してからどうすればいいと思う」
「どうすればいいって、何が」
「退院してからの生活のこと」
「退院してからか、俺は薫が良くなって戻ってきてくれればいいとだけ思ってたから、そこまで考えてなかった」
付け加えるように、夫はまたごめん、と言った。実際、夫の言うように今は薫が元気に返ってきてくれれば、それが一番だ。薫自身、心の整理ができていない状況で、その先のことを話されても受け入れられるはずがない。
しばらく、目の前の机の上にある置時計を見ていた。普段ならきっと何も感じないはずなのに、今は異様に秒針の進むスピードが遅く感じる。
私は、ゆっくりと口を開いた。
「今日ね、薫のお見舞いに行ったの」
「うん」
夫は頷き、次の言葉を待っている。
「そこで薫の口から退院できるかもしれないって話を聞いて、とても嬉しかった」
ただぼーっと前を見つめ、続けた。
「でも、私の中でこれからのことばかりが頭にあって、薫にこれを見せたの」
自堕落に置いてあるカバンの中から、私は薫に見せたものと同じパンフレットを出して、夫に見せた。
夫は、手渡されたパンフレットを手に取り、ぱらぱらとめくった後、「そっか」と呟いた。
「薫は、なんて言ってた」
私を咎める気なんてさらさらないと言わんばかりの、優しい物腰だった。
「私が、普通の生活を送ってほしいって言ったら、普通の生活って何って言ってた。私が障がい者だから、障がい者らしく暮らせってこと、って」
改めて口にしてみると、我ながらに情けないと思った。こんなことを子供に言わせて、私は母親失格だ。
「もしかしたら、まだ薫にこういう話は早かったのかも知れないね」
「うん、私はただ、薫に傷ついてほしくなかった」
「その気持ちはわかるよ」
音のない部屋で、聞こえるのは私達の声だけだった。お互いの顔は見ずとも、声の質で感情の変化がわかる。
「薫がこのまま退院して学校に行ってもさ、周りから障がい者っていうレッテルを張られながら生活していくと思うと辛くて。もうどうしようもないことは分かっているんだけど」
「俺も、この先薫には傷ついてほしくない」
夫は、優しい口調で話した。薫が事故にあってから、一度だけ夫と今後について話したことがある。その時は、お互いに状況を整理できていなくて、薫が治ってからまた決めようという結論に至った。結局それ以降何も話していない。お互いに、現実から目を背け、薫の体調が回復するという良い点だけを見てきた。そして、その先が現実味を帯びてきた今、私たちは新たな壁にぶつかった。
「ねえ、裕ちゃん」
私は声のトーンを少し落とし、夫に問いかける。
「この社会はさ、今の薫にとって、生きやすいと思う?」
夫は何も言わず、横に首を振った。
少し生まれた沈黙に、すかさず蝉の鳴き声が割って入る。その声はまるで、私達家族に休息の時間を与えないと言っている様で、鬱陶しい。
「まあ、きっと不自由だろうな」
少し間を開けた後、呟くように夫は言った。
「そうだよね」
障害を抱えた娘、障がい者というレッテルを張られ、障がい者という目で見られる。それが薫にとってどれだけ辛いのか、考えるだけで心が痛い。
「だからさ、養護学校のパンフレットを薫に渡したの。別に絶対ここに行ってほしいって訳じゃなくて、こういう逃げ道もあるよって、そういうつもりで渡したの」
「分かってる。里穂が、薫の為を思って渡したことくらい、分かってる」
隣に座る夫の腕が、私の頭の裏を通る。そのまま私は体を引き寄せられ、夫の胸の中で、また泣いた。
夫の胸の中は心地よかった。不思議と、涙が止まらない。
「もしかしたら、薫はこれから俺たちが思うよりも辛い現実が待ち受けてるかも知れない。生きていくのが嫌になることもあるかも知れない。でも、それでもいい。これから、薫に何があろうと、その度に俺たちが支えてやればいい。俺たちは薫の親だ。子供の心配をするは親の役目かも知れないけど、子供の選択を後押しするのも親の役目だ。俺たちが薫の人生を決めるんじゃなくて、薫に決めさせてあげよう。それで何があろうと、俺たちがサポートしていこう」
夫の声は次第に大きくなり、そして声が震えた。
私の脳裏にはぼんやりと、薫が生まれた日のことが浮かび上がる。
薫は二十時間を超える難産の末、生まれてきた。それもあってか、普段泣き顔なんて見せない夫が、涙を見せた。薫の鳴き声が聞こえないと突っ込まれるほど、大声を挙げて泣いた。さっきまであれほど苦しかったのに、そのせいで私は笑ってしまったことを思い出す。
この人が泣くときは、全部娘が関連している。きっと、この人が一番大切にしているものなのだろう。
この人で良かったなと、改めて思う。
「私たちに、それができるかな」
「できるよ。俺たちは薫の親だ」
机の上の置時計が目に入る。相変わらず、秒針の進むスピードは遅い。
でも、これでいいのかも知れないと思う。私たち家族の時間は、きっとこれでいい。他の人たちよりも時間の進みは遅いけれど、ゆっくり、自分たちのペースで歩めばいい。
私達の、腹は決まった。
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