(8)

 初めは子猫だった。子猫だったとしてもいきなり飛び掛かって来られたなら怖いものがあるというのに、それが人間ほどの大きさにまで巨大化して向かって来たのだから堪らない。

 悲鳴を挙げて間一髪躱す葵ノ進。そして、そんな葵ノ進に眼もくれず逃げ出す猫の姿をした妖。しかし、

「ギャア!」

 見えない壁にでも衝突したような振動と激突音と共にひっくり返る。

 それを見て、惺流塞は鼻先で笑って答えた。

「逃がすとでも思っていたのか、馬鹿め。貴様が隠れている間に結界を張っておいた。貴様はもう逃げられんよ」

 頭を振りながら立ち上がった猫は、憎しみの炎を瞳に滾らせ、惺流塞に襲い掛かった。

「少しは、逃げる姿勢を、見せたら、どうだ?」

 間一髪、早瀬が割り込み、妖の前足を刀で受け止めた。太い木の丸太程もある前足の一撃。刀が折れて肘から腕が取れるのではないかと思ってしまうほどの衝撃を早瀬は受けたが、そんな早瀬の当然とも言える抗議の声もどこ吹く風で、惺流塞は一歩も避けることなく抜け抜けと言ってのけた。

「貴様がきちんと守ればいいだろう」

 信用されているのか何なのか。どうすればそんな尊大な態度が取れるのか、一瞬早瀬は考えた。だが、守りに来ると思っていたからこそ逃げなかったのだと解釈し、だったら応えるのが仕事だな。と切り替える。

 妖の足を弾き飛ばして、がら空きになった胴体を切り付けるが、妖は後退して難なくやり過ごした。

「さすがは元猫。身体能力は人間以上。参ったね」

 口調とは裏腹に口元に笑みが浮かぶ。その頬を一粒の汗が伝って落ちれば、事態は楽観できるものではなかった。だが、やらなければどうにもならない。

 早瀬は刀を鞘に納め、姿勢を低くして間合いを詰める。肉薄した瞬間に居合い抜けば、妖は後方に宙返りをして躱した。そして今度は、着地した瞬間に妖が突進して来る。

 頭から突っ込んで来る妖を、刀身で受け止める。が、勢いなど止められるものではなく、堪えようとした足が地面から離れて吹っ飛ばされる。

 受身も取れずに惺流塞の元まで滑って行けば、

「何をしている? もう寝る時間か?」

「少しぐらい心配してくれると頑張れるかもしれないぞ」

「俺がするわけないだろ。その分小珠が心配する。泣かせるなよ」

 見れば、惺流塞の足元で、小珠が泣くのを我慢していた。

「お前は酷い」

「今更だろ」

 恨みがましい眼を向けると、惺流塞は笑っていた。仕方がないので早瀬は立ち上がる。背中に痛みが走ったが、刀を正眼に構える。

 妖は再び頭を低くして突進して来る体勢を取っていた。地面を引っ掻き、踏み出す。

 普通の人間だったら、思わず逃げ出したくなるほどの迫力。圧倒的な存在感で突っ込んで来る。

 だが、早瀬は引き付けた。逃げ出したくなる弱い自分の気持ちを無視し、しっかりと踏み止まる。いかに巨大でも頭を切りつければ痛手になるはず。

 ギリギリまで引き付けて、早瀬は刀を振り下ろした。

 斬った!

 と思った。だが、手応えがない。気が付いたときには、妖は早瀬の左にいた。

 拙い。

 と思ったときには、妖の手が早瀬の左腕に襲い掛かっていた。何とか逃げようと体を捻るが、避け切られずに引き裂かれる。だけに留まらず、吹っ飛ばされた。

「早瀬様!」

 無様に地面を滑って行けば、葵ノ進の声が聞こえた。

 完全なる失態に思わず舌打ちをしてしまう。痛みがないわけではないが、構ってなどいられない。使い物にならない左腕を諦め、右腕一本で刀を構える。

 腰を抜かしている葵ノ進に手伝えと言う方が酷にも思えるし、また、期待するだけ危険度が増すと思えば呼び掛けることもしない。惺流塞にどうにかしてもらおうと思うこと事態が間違いだと思えば、自分が迎え撃つしかない。

 しっかりしろ! と自分自身を叱咤する。

 血の臭いを感じたものか、眼を爛々と輝かせて突進して来る妖。

 両手で受けても辛かった一撃を、果たして片腕で受け止めることが出来るのか?

 と一瞬不安が駆け抜けるが、やらなければならないのだから諦めろと説得する。

 妖が迫る。雄叫びを上げる。鋭く太い牙が見える。

「せめて動きが止まればどうにかなるのに」

 無意識に弱音が口を付いて出る。

 そのときだった。

 目の前に青空が広がったような気がした。

「水菜……ちゃん?」

 妖の牙を背景に、消えたはずの水菜がいた。

「危険だ!」

 と言おうとして、丸ごと言葉を飲み込む。

 水菜が笑っていた。いつも浮かべていた儚げな微笑ではない。役に立てることを心から喜んでいる者が浮かべる、取って置きの明るい笑顔だった。そんな笑顔を見せられたなら早瀬は何も言えなくなった。

 長い時間だったようにも思えた。だが、実際にはほんの一瞬の出来事だった。

 水菜が妖の方へ振り返る。

 直後、突進して来ていた妖の眼に動揺と驚愕の色が過ぎった。

 慌てて踏み止まり、踵を返そうとする。

 一体何が起きたのかと思う早瀬の目の前で、再びありえない現象が起きた。

 水だ。

 水が水菜の掌から溢れ出て、妖を絡め取り始めた。

 元は猫。猫は水を嫌うもの。その性質まで受け継いでいた妖は、水を恐れて逃げ出していた。

 しかし、妖がいかに逃げようとも、水の流れの方が速かった。瞬く間に足を掬われ、全身を覆われる。

 水の中でもがき苦しむ妖。

 それを魚の網でも引き上げるように、水菜は引き寄せて来た。

 水菜が早瀬の方を振り返り、にっこりと微笑んで一歩後ろに下がって姿を消した後には、大きな水の玉の中でもがいている妖が残された。

 早瀬は、そんな妖の心臓目掛けて刀を突き刺した。

 おそらく断末魔の叫びが上がったのだろう。

 沢山の泡を口から吐き出し、妖は絶命した。

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