(3)

 髪を結うわけでもなく流したまま。着物もこの前と同じ物を着流して、小珠に提灯を持たせて立つ姿は、青白い顔色と相まってさながら幽鬼のようだった。

「どうした、惺流塞。お前が屋敷を出て遠出して来るとは珍しい」

「別に。あまりに月が綺麗だったからな。久々に月夜の絵でも描こうかと思ってな」

「それはそれは。出不精の惺流塞でも絵を描くためなら外に出るか」

「小うるさく騒ぎ立てるイヌもいたからな。仕方がなく飼い主を探す手伝いもしてやった」

「それはまた感謝する。して? 月は見えたか?」

「朧月だ」

「朧月か」

「そして青空」

「青空?」

 真夜中。夜の色を黒に例えることはあっても、青と称するものはいない。

 惺流塞が月を見るための色を取り戻していないため、月が朧に見えているということは分かったが、青空の意味は不明だった。

 思わず夜空を仰いで早瀬は告げる。

「今は夜だぞ、惺流塞」

 だが、惺流塞の顔には珍しく笑みが浮かんでいた。

「ああ。それは分かっている。だからこそ俺の刻。その夜には似つかわしくない青空を回収しに来た」

 言いながら、懐から一本の筆を取り出す惺流塞。『隠世』だ。

「惺流塞。お前は今回の件にお前の色は関係ないと言っていなかったか?」

 水菜を守るように前に出て問い掛ける。

「早瀬様! どうしてその女を守るんです! その女は!」

「下がっていろ、小僧。今は俺があいつと話している」

 容赦ない突っ込みに、顔を一瞬赤く染めて口を噤む葵ノ進。

「確かに。俺は関係していないと言った。だが、初めに関係しているかも知れんと話を持って来たのは貴様だろ、早瀬」

「確かに」

「だから来た」

「でも、良く場所が分かったな」

「お前が初めに失踪したとイヌが飛び込んで来たとき、俺が何もしなかったと思うか?」

「?」

 不敵に笑みを浮かべるのを見て、早瀬は唐突に思い至った。

「あの文か?」

「そうだ。見てみろ」

 言われるがままに、早瀬は懐から文を取り出して開けてみた。

 中には二枚の紙切れだけが入っていた。一枚目には悪趣味極まりない目玉の絵。

 もう一枚は、痛いほどに寒々しい、一面が澄んだ水色で塗られた紙だった。

「悪趣味じゃないか?」

「時間がなかったんだ。どれでもいいから使い魔を持って来いと指示を出しておいたら、小珠がそれを持って来た。文句があるなら小珠に言え」

「小珠ちゃんが持って来たのなら文句を言うはずがないだろう。むしろ、こんな絵を用意しているお前に呆れるだけだ」

「女に半分骨抜きになりかけているくせに口の減らない男だな」

「生憎と気は確かだが?」

「その上で女を庇うと言うのか?」

「だったらどうした?」

「分からないわけでもあるまい? その女は人間ではないぞ」

「そうかもしれないが、だからどうした? 俺にはあまり重要じゃない」


 ――はやり、こうなったか。


 惺流塞は、内心で冷ややかに舌打ちをした。危惧していたことが現実になった。

 元々早瀬が『』の気質を持っていることを惺流塞は気が付いていた。

 鏡はそれ自体が物を考えているわけではない。鏡はその前に立つものを映し出すものだ。映し出すものをえり好みするわけでもなければ、去って行く者を引き止めることもしない。

 人々は映し出された鏡の映像を見て、様々な反応をするように、早瀬も映し出された人間の思いを自分の思いとして投影し、自分のことも省みずに、その者が望んでいることを叶えてやろうとする。

 鏡は様々なものを映し出しはするが、そんな自分自身を賛美したりしないように、早瀬も自分の、何者をも受け止めて応えようとする性質を素晴らしいものだとは思っていない。それ故に、危惧していたことがある。

 早瀬は孤独なものに惹かれる傾向があると言うこと。

 誰もが注目する者。一人でも気持ちを分かち合えるもの。そんな相手がいる者はともかく、誰も自分を見てくれない。誰も自分の気持ちを分かってくれない。誰も自分の存在に気が付いてくれない。

 そんな思いを抱いているものにとって、早瀬ほど依存する相手として適任なものはいない。

 それ故に、孤独なものが集まる。


 それは何も、生きている人間だけに限ったことではなかった。遠の昔に死んでいて、そのこと事態に気が付いていない憐れな死霊たちも例外ではない。

 そう。水菜はこの世の者ではなかった。

 葵ノ進が早瀬を見失ったあの場所で、焼け崩れた屋敷がそのまま放置されていたあの場所で、一年前に焼け死んでいたのだ。

 その頃の主が何をどうして水菜に災厄の全てが集まると思い込んでいたのか知る術はないが、そこで火事があったことは葵ノ進の調べで分かっている。

 屋敷が火事になったとき、幸運にも主たちは無事に逃げおおせていた。だが、非常にも主たちは閉じ込めていた自分の娘のことを忘れ、誰一人として水菜のことを助けに行くものはいなかった。

 誰かが教えてくれなければ、外のことを知る術を持たない水菜は、気が付いたときには逃げられる場所もなく、白木蓮の木の下で焼け死んでいた。

 だが、当の本人は、そうやって死んだことを自覚していない。自覚しないままに、何事もなかった離れの座敷と庭を再現してしまった。

 その中に、生前訪れなかった両親達の姿はない。それ故に水菜は孤独を味わい続けた。そのこと全てを早瀬は知っていた。知ってしまっていた。その上で、当たり前のように水菜の元へ通っていたのだ。現世に囚われて苦しみから解放されないことを哀れんで。助けてやりたくて。そして、水菜の望みを叶えてやろうとしていた。

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