(2)

 本来ならば驚くべきことだろう。だが、やはり早瀬には驚く気持ちはなかった。

 想像していたわけではない。予想外の出来事ではある。それでも早瀬は特別な反応を見せることはなかった。ただ一言、

「こんばんは」

 ある意味場違いな言葉だろう。だが、早瀬はそうは思わなかった。

 二人の距離は三間ほど。本来であれば光源のない夜の道で、それだけ離れていれば人物がいるかどうかは何となく把握できたとしても、表情までは把握できない。

 しかし、水菜は自らが発光しているかのようにくっきりとその姿を浮かび上がらせていた。

「俺のことを追って来てくれたのかな?」

 早瀬が完全に向き直って問い掛ければ、水菜はそれまでの幼さの残る笑顔ではなく、妖艶な笑みを浮かべて頷いた。まるで別人だ。つまり、

「それが、助けて欲しいもう一人の自分ってことかい?」

 水菜は「さあ」とでも言いたげに小首を傾げて見せた。構わず早瀬も続ける。

「さて、そうだとしたら、一体どうやって君を助けてあげればいいんだろう?

 教えてくれないか? どうすればいなくなってくれるんだ?」

 すると、水菜は微笑んで答えた。

「何を言っているのですか? あなたは私を連れ出してくれたではありませんか。それだけで十分です。私は外に出ることが出来ました」

「そのようだね」

「はい。これも全て早瀬様のお陰です。早瀬様が親身になってお話を聞いて下さり、励まして下さり、勇気を与えてくれたお陰です。

 私はいつしか早瀬様に一緒にいて欲しいと思うようになっていました。ですが、早瀬様は戍狩としてのお勤めがあります。いつも足を運んでもらうのは酷というもの。そんな厚かましいことをお願いできません。ですから私は早瀬様の傍にいたい一心で、あの座敷を出て参りました」

「垣根を越えてかい?」

「まさか。隠し戸があるのですよ。そこからちょっと」

「だろうね。その姿で垣根を越えたんじゃ目立ってしまう」

「仮にしたとしても、どうせ誰も歩いていませんから見付かることもありませんが」

 そう言って、水菜はコロコロと笑って見せた。

 釣られるように、早瀬も口元に少しだけ笑みを浮かべた。

 水菜が笑うのをやめる。そして、両手を静かに差し出した。

「こちらに来て下さい、早瀬様。来て私の手を取って下さい。長い間寝てばかりだった私には、早瀬様の足に付いて行くのが精一杯。もう立っているのも辛いのです」

 実際、寝たきり状態だった水菜に筋肉は殆ど付いていないだろう。それでいきなり長距離を歩けば辛いはずだ。

 早瀬は差し出された手を掴むために歩を進めた。

 水菜がそうして欲しいと思っているのなら、それを叶えてやらなければならない。

「ありがとうございます」

 早瀬が水菜の傍まで来ると、水菜は早瀬の首に腕を回して抱きついた。

 その足が爪先立ちになっていると知れたら、早瀬は片膝を付いてやった。

「ありがとうございます。早瀬様」

 耳元で囁く水菜。その目の前に晒された早瀬の項。

 早瀬は知らない。それを眼にした水菜の表情を。邪悪極まりない笑みを浮かべ、そこから鋭い牙が覗いていることを。そして、今まさに噛み付こうとしていると言うことを。

 早瀬はただ小さな体の背に手を回してやるだけだった。それを望まれていると言うことを知っていたから。だからこそ、

「早瀬様!!」

 怒りを含んだ怒鳴り声が、水菜の更に奥の闇から聞こえて来たとき、虚ろな視線だけを返した。

 視線の先に、肩で荒く息を吐き怒りの表情を浮かべて睨みつけてきている葵ノ進が立っていた。

「いきなり消えたと思ったら、こんな時間にこんな場所で一体何をしているのですか! というか、その女から離れて下さい! その女がどういうものか知っているんですか!」

 腰の刀に手を当て、抜刀の構えを取りながら訴えて来る。

「早瀬様。あの方は一体何を言っているのですか?」

 水菜が下から見上げるように訊ねれば、早瀬は静かに立ち上がって葵ノ進を見た。

「葵ノ進。お前にも見えるのか?」

「見えています!」

「じゃあ、信じるのか?」

「信じるも何も、現に見えているのですから否定も出来ません! 早瀬様がいきなり消えて。私がどれだけ心配したと思っているんですか! 今度もまた何日も帰って来なくなったら……! もしかしてもう二度と帰って来なくなったら……! そう思ってしまった私は何なんですか! 早瀬様は私の指導委なんですよ! 何度いなくなれば気が済むんですか!」

 葵ノ進の怒りは、これまで早瀬の見たことのないものだった。

「周りが変に気を遣って、いつも壁を作っている中で、唯一初めから壁などなく接してくれたのは早瀬様しかいないんです! 普通に、葵ノ進として接してくれるのは早瀬様だけなんです! 他の人は皆、戍狩親じゅしゅちかの父を持つ人間と言う見方をして接して来るんです!」

 それは、これまで誰にも洩らしたことのない心からの叫びだった。

「だから、誰も私を叱りもしないし、怒らせもしないし、表立って逆らったりもしない。だから、今回の事件のことだって、捜査対象を変えようと言ったらアッサリ変えられた! 本当は私自身半信半疑だったのにも拘らず!

 だから、そのまま早瀬様のいないあんな場所にいたら、私は飼い殺されるだけなんです! 何も得ることが出来ないまま心が死んでしまうのです! 早瀬様は自分が思っているほど、ずっとずっと沢山の影響力を持っているんです!

 それを! そんな女に早瀬様を渡すわけには行きません!」

 だからと言って、ただの刀を向けてどうにかなるものでもないことを早瀬は知っていた。

 それ以前に、水菜が何であるかを葵ノ進が自分で気が付くとは思えない。もしも葵ノ進が知ったとすれば、それは教えた者がいると言うこと。そして、葵ノ進一人でどうにか出来るものではないと分かっていれば、導き出される答えは一つ。

「焚き付けたのはお前か? 惺流塞」

 足音もなく葵ノ進の隣に現れた惺流塞に、抑揚のない声で早瀬は問い掛けた。

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