第八章『鏡現戍狩』

(1)


 やたらと子猫に威嚇され、とてもではないが水菜のところにいられなくなった早瀬が、垣根を越えて裏道に戻ると、辺りはすっかり暗くなっており、空にはくっきりと三日月が浮かび、星が瞬いていた。

「もう夜か………」

 辺りを見回してポツリと呟く。

 早瀬の顔には動揺など見て取れないが、それが異常なことはきちんと理解できていた。いくらなんでも、入る前は昼前で、半時もいなかったにも拘らず、出て来たら真夜中だったら、馬鹿でもおかしいと思うだろう。

 だが、分かっていても、早瀬には動じる素振りは見えない。それどころか予測していたかのような落ち着きぶりだった。

「きっと葵ノ進は怒っているだろうな……」

 眦を吊り上げて、怒り狂っている様を想像し、思わず苦笑を浮かべる早瀬。

「そうじゃなくても、葵ノ進から見れば俺はいきなり姿を消してしまったように見えただろうし……。捜したかな? だとしたら悪いことをしたかもしれないな。

でもなぁ、本当のことをあらかじめ言っていたとしても、葵ノ進に理解できたとは思えなかったしなぁ。や、別に理解力のことを言っているわけじゃないんだが」

 本人が目の前にいるわけでもないのに、思わず弁解を口にする早瀬。

「受け入れるだけの柔らかい頭があればいいんだが、葵ノ進は真面目だからなぁ……。本当のこと言っていても、『からかっているのですか!』って、絶対に怒りそうだからなぁ……って、どっちにしろ怒られるだけだな」

 早瀬は苦笑を深めた。深めたままに、怒られるべく番所へ帰ることにする。

 誰もいない裏道。弱弱しい月明かりだけを頼りに歩みを進める。

 進めながら考える。葵ノ進のことではなく水菜のことを。

 水菜のことはどうにかしてやらなければならないことだと思っている。

 今の状態はけして水菜にとっていい環境だとは思えない。

 問題はあの座敷から出ないことだ。

 入ることが出来るのであれば、出ることも出来るはずなのだ。だが水菜は頑として出ようとはしない。まるで何かに怯えているように、水菜は頑なに拒む。

 水菜が災厄を恐れていることは話を聞いて知っている。だが、あの空間に留まっている限り、水菜はどこにも行くことが出来ないのだ。

 その空間から出てしまえば、水菜に明日はあるが、出なければ一生明日は来ない。あの空間は時間が止まっているのだ。止まっている空間に居続けると見えないことが増えて来る。気が付かないことが増えて来る。

 もしも早瀬が水菜のために出来ることがあるとしたら、それはあの空間から出してやることだけだった。例えそれを水菜が望んでいないことだったとしても。結果、それによって水菜が更に傷つくことと直面しなければならなくなったとしても。本当に水菜に必要なことだとしたら早瀬は水菜を引きずり出してやらなければならない。

 だとしても方法がない。いつも自分は無力だと早瀬は思っている。いつも自分は何も出来ていないと思っている。

 だから早瀬は、いつも話を聞くことと傍にいることだけはしようと思って来ていた。それだけは早瀬の気持ち一つでどうとでも出来ることだからだ。

 だが、人の人生を変えるような場面に直面すると、早瀬は何も出来なくなってしまう。


 早瀬は生まれてからずっと、自分の置かれる境遇を不幸だとも変えてやりたいとも思ったことはなかった。

 傍から見ればけして幸せな生活や暮らしではなかったと言うことは、理解はしている。だが、それを不満だと思ったことはなかったのだ。

 眠らずに働かなければならなかったなら働いた。

 食べるものがなければ当たり前のように食べずに終え、妹達に食事を与えた。

 それでもどうにもならなくて口減らしをしなければならないとなったとき、実の父に鉈を振り上げられても、恐怖心はなかった。

 それが当然のことだからだ。どこでも起きていたことだからだ。

 ただ一つ辛かったのは、自分を殺さなければ生きていけず、やむ終えなく殺そうとしている父親の辛さを取り除けないことが悔しかった。

 いつもそうだった。早瀬は自分に関することで一生懸命になったことがない。怒ったことも泣いたことも笑ったことも何かを欲しいと思ったこともない。

 いつも目の前の誰かのために怒って泣いて笑って欲していた。

 もしもただ一つ、早瀬が許せないことは何かと訊ねられれば、早瀬は答える。


 目の前の人を救えないこと。


 だから、目の前で人が困っていたら、それを助けるために出来ることをした。

 そして助けられたなら、その人に笑顔が戻ったなら、早瀬は自分の役目は終わったとばかりに身を引いた。


 来るもの拒まず、去るもの追わず。


 だから早瀬には友人と呼べるほど親しい人間がいなかった。

 いらないわけでもないが、特別欲しいと思うものでもなかった。

 自分が関わって、少しでもその人の人生がいい方向になればそれで良かった。

 ずっと自分が傍に居続けることをしなくても、必要になったとき傍にいられたらそれでいい。

 葵ノ進や戍狩の仲間は早瀬のことを仕事が出来る優しい人間だと思っているが、それは少し違うと早瀬自身は思っている。

 自分は仕事が出来るわけではない。いつも誰かが助けてくれるため、結果的に仕事が出来ているだけに過ぎない。

 実際早瀬は自分が仕事に関して何か特別なことをした覚えはない。早瀬がしているのは話を聞いて、傍にいて、自分の出来ることをしているだけだ。

 だからこそ、今、早瀬は自分の無力感を味わっていた。

 水菜にとって結果的にいいことは、あの空間から出してやること。しかし、引っ張り出せば出られると言うものでもないことは薄々早瀬も察しが付いていた。

「惺流塞にでも聞けば方法が分かるだろうか?」

 可能性はある。可能性はあるが、別な危険があった。

 もしも惺流塞に頼んだら。もしも惺流塞の探し物を水菜が持っていたら。

 水菜は外に出ることの意味を知る前に消されてしまうかもしれない。それは少し待って欲しいことだった。

 だとしても、早瀬の知っている人間の中に惺流塞以外に教えを請えそうな人間はいなかった。

 早瀬の脳裏を、泣いて笑って苦しんで、後悔していた水菜の顔が過ぎって行く。

 水菜は笑顔がとても可愛らしい女性だった。それだけに早瀬も無理矢理引きずり出すことが躊躇われたのだ。もしも自分のことをきちんと把握していないのだとすれば、その笑顔が二度と戻らないかもしれない。

 だが、もし、水菜が自分のことを知っていたとしたら……

「知らなくても本能的に察していたら、最悪の事態だけは避けられるんじゃないか?」

 思わず足を止めて呟いてしまう。

 そこは栄音さかね通りと下杉しもすぎ通りの交わる辻だった。刹那、背後から恐ろしく冷たい風が吹きつけ、早瀬の中を通って行った。反射的に振り返る。

 その先に、月光が人の形を取って立っていた。

 日の光に当たらない白い肌。結い上げられた漆黒の髪。透けるような白の肌襦袢姿の水菜が、唇だけに鮮明な赤い色の紅を引いて、まるで夢の中にいるような虚ろな表情で立っていた。

 あれほど出ることを嫌がっていた水菜。

 一緒に行きたくて行きたくて仕方がなかったにも拘らず、涙まで流して平汰の誘いを断った水菜。

 それが、あられもない姿で、足元に子猫を従えて立っていた。


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