(4)
それから暫くしたある日のことだった。平汰は思いつめた表情を浮かべて言って来た。
「水菜。よく聞いてくれ。俺はあんたのことが好きだ」
一瞬言われていることが分からなかった。
「でも、ここではあんたと一緒にはなれない。だから、俺と一緒に逃げて欲しいんだ」
何をどう理解したらいいのか分からない単語ばかりが並んでいた。
好きだ。一緒にはなれない。逃げて欲しい。
言葉の意味が理解出来るまで、かなりの時間を要した。
そして、理解した瞬間。水菜は嬉しさよりも恐怖を感じた。
それはいけないことだと思った。自分がここから離れてしまえば恐ろしいことが起きると思った。何故そう思ったのかは分からない。だが、それだけはしてはならないことだと本能的に悟った。
そのため、水菜は平汰を傷つけないように一生懸命になって断った。
だが、平汰は聞く耳を持ってはくれなかった。
「何故だ? お前さんだって一緒に暮らせたら……って言ってたじゃねぇか。俺のことが嫌いなのか? 違うんだったら、どうして一緒に来てくれないんだ! 一体何が起こるって言うんだ。
は? 溜まりに溜まった災厄が降り掛かる? 一体誰がそんなこと言ったんだ?
両親? そんなものを信じてるのか? そんなことあるわけないだろうが。どうやって人一人に災厄を溜め込むようなことが出来るんだよ」
それは、あえて水菜が考えないようにして来たことだった。
水菜だって馬鹿ではない。災厄などと言うものが何もせずに一つ処に溜まったり、溜められたり出来るものではないと言うことは分かっている。
だが、もし、そうでなかったとしたら、それこそ自分が隔離されている理由が分からない。本当に不要だから。外に出て来られると困るから。誰かに知られることが恥だから。
もしもそんな理由だったら、それこそ水菜は自分自身の存在価値が分からなくなる。それ故にあえて触れないようにして来たことだった。
それを平汰は問答無用で突いて来たのだ。
けして平汰のことが嫌いなわけではない。平汰の申し出が嫌なわけではない。嬉しくないわけでもない。だが、それらの気持ちを伝える言葉が水菜の中になかった。
自分の気持ちをきちんと伝えられないこと。平汰を誤解させて不愉快な気持ちにさせてしまったことが悔しくて、もどかしくて、水菜は言葉の変わりに涙を溢れさせてしまった。
「俺はあんたを泣かせたくて来たんじゃない。喜ばせたくて来たんだ。笑って欲しくて言ったのに。どうしてあんたは泣いてるんだ」
そう言う平汰も泣きそうな顔をしていた。
「俺は諦めないからな。絶対にあんたを連れ出して見せるからな」
そう言って出て行って、平汰は二度と来なくなった。
きっと愛想を尽かれてしまったんだ。
三日間、水菜は泣き暮らした。来てくれなくなってから痛切に感じたことは、水菜にとっても平汰は大きな存在になっていたと言うことだった。思い返す全てが平汰と過ごした時間ばかりだった。
だからこそ悲しくて泣き暮らしていたのだが、ふと、別れ際のことを思い出して疑問が湧いた。平汰は言っていた。絶対に連れ出して見せると。
その言葉が嘘だったとは思いたくはなかった。ただ縋っているだけだと言うことは分かっていた。だが、思わずにはいられなかった。
もしかしたら平汰に何かがあって、来たくても来られなくなったのではないかと。もしそうだとしたら、一体平汰に何があったのだろう?
水菜は気になって気になって仕方がなかった。だが、見えない壁が存在しているかのように、開け放たれた庭に向かって出て行こうとは思わなかった。いや、思えなかった。
何かが自分を押しとどめている感じがした。
自分がここから出て行ってしまったら大変なことになる。
自分の中の誰かがそう叫んでいた。
それでも水菜は平汰のことが知りたかった。誰でもいい。どうやってでもいい。平汰のことを知りたかった。
そんな矢先、再び子猫の悲痛な鳴き声が聴こえて来た。
そして、垣根を乗り越えて現れたのが早瀬だった。
水菜は平汰が帰って来てくれたのかと思った。だが、現れた人物が違うことで戸惑いを覚えた。一瞬どうすればいいのか迷った。だが、物は考えようとばかりに、早瀬に平汰のことを聞いてみようと思い至り声を掛けてみた。
結果。水菜は信じたくない事実を突きつけられた。
早瀬は平汰が死んだことを告げて来たのだ。よりにも寄って、一番聞きたくない答えを聞いてしまった水菜は目の前が暗くなった。
きっと、奈落の底に落ちる気分と言うのは、こう言うことを言うのだと理解する。反面。どこかホッとしている自分もいることに気が付いていた。
平汰は自分のことを嫌いになってやって来なかったわけではない。来たくても来られなかった理由があったのだ。だから悲しむ必要はない。
そう思った。だが、悲しむ必要はないと言っても、悲しみは抑えることなど出来なかった。否定の言葉が出ない代わりに、涙が後から後から溢れ出た。
自分が近付いたから平汰が遠退いた。自分に近付いたから平汰は災厄を移された。だから命を失うようなことになった。だとしたら悪いのは私だ。私が平汰を殺してしまったんだ!
その突きつけられた事実に、水菜は打ちのめされた。
早瀬はそんな水菜の傍で、水菜が落ち着くまでただ静かに縁側に座っていた。
そして静かに一言こう言った。
「早まってはいけないよ」
ハッと息を呑んだ。
「今は辛いかもしれないけれど、後を追ったりしたら、その人も悲しむかもしれない。その人に報いたいのなら、その人が望んだことを叶えてやった方がいいかもしれないよ?」
言っていることは分かるが、平汰の望んだことを水菜は叶えてやることは出来なかった。
早瀬は「そうか」と一言だけ答えて沈黙した。何となく、自分の言葉を待っているような気がして、水菜はポツポツと事情を説明し出した。
早瀬は親身になって、水菜の話を聞いていた。
とても話しやすい人だった。同時に、話せば話すほど落ち着いていける人だった。殆ど毎日来てくれた。仕事の途中に寄っていると言うことで滞在する時間はバラバラだったが、早瀬は平汰とはまた違う安らぎを与えてくれた。
話している間に、水菜は早瀬のことを好きになっていた。平汰の時に感じた好意とは少し違うその気持ちがどういう気持ちなのか分からない。ただ、落ち着いた。平汰のいない不安を打ち消してくれた。
独りになると不安だが、一緒にいると落ち着いた。一緒にいて欲しいと思った。
もっと長い間一緒にいて欲しいと思った。一緒にいる間は不安を感じなくて済む。
いっそのこと帰られなくしてしまえばいい。
自分の傍に置き続けられたらいい。
そう。平汰のように…………。
平汰のように?
水菜は自分の考えていることに疑問を持った。刹那、それまで何を考えていたのかすっかり忘れてしまった。
一体今、自分は何を考えていたのだろう?
何だかとても恐ろしいことを考えていたような気がして動悸が治まらなかった。
何を考えていたのか分からないことが、急激に不安を膨らませた。
怖かった。何かとてつもなく嫌なことが起こるような気がしてならなかった。
何なんだろう、この不安。
そのとき、水菜は子猫の鳴き声を聞いた。顔を上げると、縁側に一匹の子猫がいた。
平汰と早瀬をつれて来た猫。その猫の目を見たとき、水菜は背筋が冷たくなり、急激に意識を引っ張られて行くのを感じた。
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