(2)
自分の周りには誰もいない。自分が近付いても近付かない。近付いた分逃げられる。一体自分は何をしているのだろう?
上半身が縁側からはみ出し、泥池と化した庭に手を浸し、肩を震わせて笑っていると、背後でいきなり息を呑む声が聞こえた。
おかしな笑い声を上げ続けていることで異変に気付いた誰かが人を呼んでいる。
笑いながらも頭の片隅で理解していた。
何もかもがどうでもよくなった。あらゆることが面倒なことのように思えていた。
自分の抱いている様々な悩みの全てが、とてつもなく下らないことのように思えて来て、誰かに左右から脇を抱えられるように持ち上げられても、されるがままだった。
雨に濡れていたかったとは思わない。
だからと言って、雨から引き上げて欲しいと思っていたわけでもない。
だからこそ、耳元で自分のことを心配しているような、呆れて怒鳴りつけているような、何かを喚き立てている人たちの言葉は水菜に届いてはいなかった。
頭の中に霞が掛かったかのように何も聴こえないし、見えていなかった。
水菜は着替えさせられ、寝かされた。その周りを様々な人が慌しく行ったり来たりしていたが、それら全てが他人事だった。
その日、生まれて初めて水菜は高熱を出した。体が火照って、芯が冷たくて、喉が渇いて水が欲しかった。
熱は七日間もの長い間続いていたと言うことを大分後になってから知ったことだった。
水菜はその間のことをあまり良く覚えていなかった。ただ、漠然と誰かが必ず傍にいたことは分かっていた。いつも額の手拭いが変えられて、汗を拭いてくれていた。だとしても、それが七日もの長い間ずっと続いていたとは思ってもみなかった。それほどまでに長い間誰かが傍にいたことなどなかった。
夢現の中で鮮明に記憶に残っていることは、初めて両親が医者を呼び、その医者に、
「どうやってもいい、金に糸目はつけない。だから娘を死なせないでくれ!」
そう訴えていたのを聞いた。
「この子がいなくなると、その先どうやって生きていけばいいのか!」
そう言って縋り付いている母親の姿を見たような気がした。
そのとき、初めて水菜は両親に見捨てられていたわけではなかったんだと知り、高熱にうなされている間、涙が出るほど嬉しかった。
ただし、その涙が乾くのも早かった。
自分が両親に見捨てられているわけではないと知ったその瞬間、水菜は自分が何故隔離されているのか、何故、誰も近付いて来ないのかを知った。
父親は言った。
「この子がもし死んでしまったら、この家は潰れてしまう! この子のお陰で私らは繁盛しているんだ!」
言われている意味がよく分からなかった。
「この子が私たちに降り掛かる災厄の全てを背負ってくれているからこそ、私らにはツキが回って来ているんだ。もしこの子が死んでしまったら、それまで蓄えられて来た災厄の全てが私らに降り掛かる。それだけはどうしても避けなけりゃならんのだ!」
「今更今の生活を手放すことなんて出来ないわ。娘も息子もせっかく良い縁談が決まり掛けていると言うのに、冗談じゃないわ」
ああ、そう言うことか。
喜んだ分、水菜は自分の存在価値を痛切に理解した。
私は単なる道具だった。
死なれては困る単なる道具。私自身を心配しているわけではない。
両親が心配しているのは、今の生活と妹達の将来のこと。その為だけに水菜は生かされている。ただ、それだけのことだったのだ。
ようやく両親の優しさを知ったと思った。だが、それは優しさとは違うものだった。
自分の存在価値は水菜という人間にはなく、水菜と言う名前の道具としてしかなかった。
本当に、何なんだろう?
私という人間は誰にも必要とされていない。だとしたら、私は何のためにここにいる?
水菜はその日を境に、何も感じなくなった。それこそ、たんなる物になったかのように。
それを再び人間としての水菜に戻したのは、自分とは何かを思い知らされた原因を作った子猫が、再び現れたときだった。
爽やかな風が座敷の中に流れ込んで来たとしても、表情一つ変えなかった水菜の頬。その頬を舐めるものがあった。
驚いた。さすがに水菜も驚いた。何が自分に起きたのかと思わず顔を向ければ、そこに黒い一匹の子猫がいた。一瞬理解が出来なかった。
あのときのお前なのかい? と訊ねると、信じられないことに子猫は頷いた。
私の言葉が分かるの?! と訊ねると、再び子猫は頷いた。
会いに来てくれたの? と訊ねると、眼を細めてニャーと鳴いた。
それはまるで「そうだよ」と言っているようだった。
その後子猫は、この前は逃げてごめんなさいと詫びるかのように、水菜に頭を擦り付けて甘えて見せた。水菜は泣いて喜んだ。
子猫が初めての友達になったのだ。
水菜は来る日も来る日も子猫と話をした。子猫も水菜の言葉を理解しているような仕草を返して、鳴いて見せた。だから水菜は色々なことを話した。自分のこと。家族のこと。自分の望み。自分の思い。自分も誰かと一緒にいたいという願い。
子猫は全て任せろとでも言うように、力強く頷いて見せた。
それから二、三日。子猫は水菜の前に現れなかった。やっぱり言葉が通じていたわけではなかった。それなのに、馬鹿みたいに話してしまった。情けないと思った。
それから更に二、三日経った頃、ボーっと天井を見ていると、悲痛な子猫の鳴き声が聴こえて来た。帰って来たのかと庭先を見てみるが姿はなく、だが、声だけは確かに聴こえている。どこにいるのだろうと見渡していると、いきなり男の話し声が聴こえて来た。
「あっはは。馬鹿だな。どうしてお前ら猫は降りられなくなるくせにそんな高いところに登るんだ。仕方ない。降ろしてやるから待っていろ」
そして、いきなり垣根から平汰が姿を現した。
初め平汰は水菜の存在に気が付いていなかった。垣根の近くに植えている白木蓮の木の枝の先だけを見詰めていた。
不安定な垣根に跨り、白木蓮の枝に掴まりよじ登り、その先へと手を伸ばす。
ここに至って水菜は子猫が枝の先にいるのだと言うことを知った。
ハラハラしながら水菜は見守った。生まれてこの方、布団を握り締めるほどハラハラしたことはなかった。
子猫は平汰の手が届きそうになると、ますます先の方へと逃げて行った。
「おいおい。さすがにそこまで俺は登れねぇぞ? 逃げるなら俺は帰るぞ、いいのか?」
ややムッとした口調で抗議する。
とりあえず水菜は落ちる前に降りて欲しいと思った。どこの誰かは知らなかったが、怪我をして欲しくないと思った。
その思いが通じたのか、子猫は警戒しながら平汰の手の中に納まった……かに見えた。
「分かればいいんだ、分かれば」
と、平汰も満足げに頷いたとき、再び子猫は恩を仇で返すかのように、平汰の顔面目掛けて飛び掛かった。
「なっ!?」
平汰が驚きの声を挙げるのと、水菜が悲鳴を飲み込むのは同時だった。
驚いた平汰が状態を反らして木の上から落下する。運よく下に低木が植えられていたため、衝撃は吸収されたが、平汰は垣根を越えて水菜の元へやって来た。
「だ、大丈夫ですか?」
さすがに無視しているわけにもいかず、水菜は起き上がって声を掛けた。
刹那、ぶつくさ毒づきつつ腰を擦って体を起こしていた平汰は、ギョッとしたように目を見開いて水菜を見た。そして、狼狽し出した。
「あ、いや、別に俺は、あの、あんたがいたとは思わなくて、いや、いなかったらいいと思っていたわけじゃなくて、猫が……。そう、猫が木から降りられなくなっていたから助けてやろうとして、そしたらその猫が俺に向かって飛んで来るから驚いて、そしたら落ちてしまって」
そのあまりの慌てっぷりに、暫しポカーンと見ていた水菜は、不意に噴き出してしまった。口元を押さえて笑いを噛み締める。その分、体が震えた。
それが、水菜と平汰との出会いだった。
その後、平汰は度々水菜の元へやって来た。
そこで二人は沢山話をした。自分のことや家族のこと、それに対する思いや、やりたいこと。様々なことを話した。そして二人は互いに共通点が多いことを知り、急激に親しみを感じるようになって行っていた。
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