第七章『誰も知らぬ秘め事』

(1)

(結局。あの人に何も言えないまま、あの人は帰ってしまった)


 薄暮れが忍び寄る庭を眺めながら、水菜は後悔していた。

 いっそのこと何もかも話せてしまえたらどんなにいいか分からない。

 だが、言ってしまったら最後、二度と早瀬が来てくれないような気がしてしまい、言うのを躊躇ってしまった。

(もしもあの時勢いに任せて話していたら、あの人も、あの人と同じ目に遭っていたかもしれない)

 それだけは嫌だった。もう沢山だった。

 いつも自分は独りだった。

 思い返せば、物心が付いたときから独りだった。

 誰かと何かをした記憶が全くない。

 誰かと楽しく遊んだ記憶も全くない。

 褒められたこともなければ、激しく怒られたこともなかった。

 いつも自分は独りだけ離れの天井を見て過ごして来た。

 遊び相手と言えば、庭にやって来る鳥や蝶や蜻蛉。遊ぶと言っても、一方的に話し掛けているだけだ。思い起こせば普通の会話すらまともにした記憶がない。

 一日に二度、食事を持って来る下働きの女性と一言二言型通りの言葉を交わすだけ。四日に一度、体を拭いてもらっているときも、会話と言う会話はない。

 ときどき、とても自分に同情をしてくれる女性がいたけれど、気が付くとその女性はいなくなっていた。

 あの女の人は辞めてしまったのだろうか?

 よく仕事で失敗して怒られた話をしていたから、もしかしたら暇を出されてしまったのかもしれない。

(そう言えば、私はあの女性の名前を知らなかったわ……)

 自分の世話をしてくれていた人の名前も知らなかったことに、今更ながら愕然とする。

 自分には誰もいない。自分の名前を呼んでくれる人もいなければ、自分が呼ぶ名前も持ち合わせていなかった。

 それに対して、妹や弟は町に出て買い物をしたり、友人と遊んだり、勉強をしたり、家事を教えられたり、色々な人と関わりを築いている。

 羨ましいと思った。

 小さい頃はよく、「お姉ちゃんのところに行く!」と、襖越しに駄々をこねる声が聞こえて来たものだが、今となってそんなこともない。

 むしろ、自分たちに姉がいることすら忘れているかのように、何年も声を聞かせるようなことはしなかった。自分のところに来てはくれなかった。

(一体どんな姿になったのだろう? どんなに美しくなったのだろう?)

 耳を澄ませば聴こえて来る、使用人たちの話。

 妹はある大きな商家との婚姻の話が出ているらしく、そのお陰で父と母は大喜び。妹は幸せ一杯の表情で毎日を楽しく過ごし、見ている者まで明るくなるほどだという。

 弟は、聡明に育っていると言う話だった。学問でも上位に入り、既に父の仕事について回っているらしい。そして、行く先々から、「将来は是非、家の娘を……」との声が止まないと言う。

 そんな妹や弟を持って、さぞや父と母は鼻が高いことだろう。

 だとすれば、

(私は一体何なのだろう?)

 離れに押しやってから訪ねて来てくれない両親。

 離れに近付こうとする妹や弟を引き止める両親。

 あるとき、どうしても水菜のところに行くと言い張った二人に、両親が言った言葉を水菜は覚えている。

「お姉ちゃんは病気なんだよ。とてもとても怖い病気。もしも傍に行ってその病気を貰って来たら、お前達もお姉ちゃんみたいに部屋から出られなくなってしまうよ? それでもいいのかい?」

 水菜が寝ていると思っていたからこそ話したことなのか、起きていてあえて聞いていることを知っていながら話して聞かせたのかは分からない。ただ、その後から、二人は自分の元へ来なくなったことを覚えている。

 それでも初めは、部屋の前に文が置かれていたり、ビー玉や風車などのお土産らしきものが置かれていたこともあった。

 会えない代わりに置いて行った物だろう。水菜はその心遣いが嬉しかったことを覚えている。だが、それも長くは続かなかった。

 それぞれに友達が出来てしまえば、水菜は二人から忘れられて行った。

 自分が悪い病気だからここにいるんだ。だから二人とも会えないんだ。

 子供心に納得した。信じ切った。

 だが同時に、疑問が湧いた。

 一体どこが悪いのだろう?

 寝かしつけられてはいたが、別段水菜はどこかに痛みを感じたり、息苦しさを感じたり、咳き込んだりすることはなかった。熱が出て寒気がすることもなかった。

 ただ、それでも病気のときは寝ていなければならない。

 ただそれだけを信じて、いつか治れば皆と一緒に遊べると思って、一刻も早く元気になろう。病気を治そう。その一心で離れの寝床の中で大人しく寝ていた。

 我侭の一つも言ったことはなかったと思う。

 あれが食べたい。あれが欲しい。こうして欲しい。ああして欲しい。

 一言も言わなかったように思う。我慢すれば我慢しただけ、早く治ると思っていた。

 今にしてみれば何と健気で、何と愚かしいことだっただろう。

(私は病気などではなかった)

 少し考えてみれば分かることだった。まず、医者に診てもらったことがない。

 世話をしに来る女達に病を恐れる怯えを見たことがない。

女達に見えたのは同情か面倒くささか、事務的な無関心だけだ。それらには恐怖心など欠片もない。

 だとしても、来る日も来る日も床の上から動かないでいると、本当に何かの病に罹ったかのように体が動かなくなって来た。食事を取るために体を起こしているだけで疲れを感じた。横になることがとても楽で、そのうち起き上がること自体が辛くなって行った。

 不思議と逃げ出そうとは思わなかった。それを何故かと訊ねられても、水菜には答えて聞かせられるものはない。

 ただ、唐突に空しさを覚えて消えてしまいたいと思うことがあった。

 だからと言うわけではなかったが、ある日、水菜は雨の降りしきる庭に出たことがあった。雨に濡れたら風邪を引くかもしれないとは思ったが、そんな物に関わっている場合ではない状況が訪れていたのだ。

 雨の激しい音に混じって、子猫のか細い声が聞こえていた。

 初めは空耳だと思っていた。幻聴を聞いていると思っていた。

 だが、その声が幻聴やまやかしなどではないと分かると、いても立ってもいられなくなった。それほどまでに悲痛な声だったのだ。

 誰かを呼ぼうと思った。誰かに助けてもらおうと思った。

 しかし実際には、水菜は弱った体に鞭打って、床から這いずり出て庭へと向かった。

 世話役の女達が五歩と掛からない短い距離が、とてつもなく長く感じた。

 情けないことに息が切れていた。それでも渾身の力を込めて障子を開けると、一気に冷気が吹き付けて来た。

 白く煙るほど雨脚は強かった。そんな中で、水菜は見た。一匹の黒い色の子猫が荒縄に絡まってもがいている姿を。

 そのときは、どこから迷い込んだのか、何故その状態で庭先にいたのか、疑問にすら思わなかった。ただただ、助けてやらなければならないと思っていた。

 這って縁側まで出ると、上半身がずぶ濡れになった。

元々濡れていた縁側。そこに痛いほど叩き付けて来る雨。まさに一瞬で濡れ鼠。

 それでも水菜は子猫を助けるために一生懸命になった。

子猫は自由の身になった瞬間、恩を仇で返すように、脱兎の如く逃げ出した。

 一体自分は何をしているのだろう?

 手の中に残った荒縄を見詰めて、ふと思った。

 助けたら懐いてくれるとでも思っていたのだろうか?

 思いっきり逃げられてしまったくせに。

 馬鹿みたいだ。

 そう思うと、不意に笑い出したい衝動に駆られた。衝動は堪え切れずに、水菜の口をついて出た。まるで壊れてしまったかのように、笑いが止まらなかった。

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