(3)
(やっぱり、葵ノ進は一緒に来ることが出来なかったか……)
後ろを振り返り、大した驚きもなく早瀬は思った。
何となく、その空間が日常と少し違う場所にあるのではないかと言うことは想像出来ていた。
子猫が下りられなくなった白木蓮の木。その下に綺麗に切り揃えられている低木。
そこには初めて早瀬がやって来たときに折ってしまった痕跡はない。
手入れをしたわけではない。折ってしまった次の日に来たときには、既に植え替えられたかのように何事もなかった。いつ来ても、咲いている花に変化がなかった。
気の所為ではない。ある日早瀬はこっそりと植えられている花を摘み取ってみた。次の日、同じ場所に花は咲いていて、持ち帰ったはずの花がなくなっていた。
もしかしたら……と思った。
この場所は、日常から切り離された場所にある。
だからこそ、自分の時間の感覚と、外の時間の流れが違い、一日いたわけでもないのに、二日間も音信不通で行方不明になっていたのだ。そう確信した。
だとしても、早瀬には自分の直面している状況に対して、どうと言う感情も芽生えなかった。普通であれば混乱し、動揺する場面だ。中には恐怖を覚える人間もいるかもしれないが、早瀬は至って平静だった。
早瀬にしてみれば今更なことだった。小さい頃から早瀬には現実と非現実の境がなかった。誰にも見えない相手と長時間話していることもあったが、それは大抵独り言を言い続けているようにしか見えなかった。
周囲の者には気味悪がられたが、それすらも気になるものでもなかった。
自分には見えている。そんな自分にそれらは話し掛けて来る。だから話をする。
見えることが特別なことだとは思っていなかった。たまたま自分が見えているだけ、それはたまたま剣道の腕が立って、いきなり段持ちになったりするのと変わらないことだと思っていた。ただ、出来ることが剣道という身を立てるものではなく、皿回しなどの自慢にならない役に立たないことだったと言うだけの話だと思っていた。
(いや、皿回しは人を笑わせてあげられるから役に立たないわけじゃないな)
一部自分の考えを訂正する。
何にしろ、早瀬にしてみれば約束を守りに来ただけだった。
縁側が見えるように障子が開かれている。
風邪を引くから閉めておけと何度言っても水菜は閉めておかない。
一度、閉めていたときがあった。水菜は開けて下さいと頼んで来たが、風邪をこじらせてはいけないと言って開けなかったのは早瀬だ。それ以降、水菜は閉めて置こうとはしなかった。早瀬の姿が見えないことが不安なのだと言っていた。
そんなことを言われては無理に閉めることも出来なかった。
「こんにちは」
声を掛けていつも座っている縁側に腰を下ろす。
「来て下さったのですね。ありがとうございます」
「ああ、そのまま寝ていてもいいから」
体を起こす音を聞いて、安静にしていることを勧める。だが、
「大丈夫です。今日は体調もいいので」
水菜は布団から出て羽織を背中に掛けると、早瀬の斜め後ろの位置に座った。
あくまでも座敷と縁側の敷居を跨がない位置。まるで、そこから先には出てはいけないと言われているかのように、水菜はその先へ出ようとはしない。逆に、招き入れようともしない。そんなはしたないことをして、早瀬が愛想を尽かすのが怖いと水菜は言っていた。
仮に水菜が言ったとしても、早瀬は誘いには乗らないだろうが、「それは懸命な判断だ」と褒めてやった。
「今日はどんなお話を聞かせていただけるのですか?」
「どんな話が聞きたい?」
問い掛けに問い掛けで答えるのは卑怯臭い気もしたが、正直、ほぼ寝たきり状態の若い娘が何を話せば喜ぶのか、早瀬には皆目見当が付かなかった。
どうせ話すなら、興味のある楽しい話の方がいいだろう。
だが、あまり外の話ばかりをして、憧れだけを強めさせるのも気が引けた。大抵初めは聞いていて楽しいだろうが、そのうち憧れが憎しみに変わり、絶望へと変化して行く可能性がある。そうなることは早瀬にとって不本意だ。
だからこそ、水菜の望むものを自分が分かる範囲で話してやろうと思っていた。
暫く沈黙が流れていた。自分でも何が聞きたいのか分からないのだろう。
時々、何かを言いかけようとして止めるような気配だけがして来る。
やがて、水菜は遠慮がちに声を掛けて来た。
「あの、早瀬様」
「何だい?」
「早瀬様は、戍狩様……なんですよね?」
「そうだよ」
「……戍狩様は、皆を守って下さるのがお役目なんですよね?」
「そうだね」
「どんな人でも助けて下さるのですか?」
「俺はね」
「他の方は?」
「分からない。どうして?」
「それは……」
問い掛けに対する答えはすぐには返って来なかった。
水菜は何か大切なことを言いたいのだと言うことはすぐに分かった。
気配に落ち着きがない。言いたいけれど言えない歯痒い思いをしているような、もどかしい気配だけが伝わって来る。
別に早瀬は霊能者などではない。その手の修行をしたこともない。だが、早瀬には時々分かるときがある。
「助けてもらいたいのかい?」
何となく、思ったことを口にしてみた。刹那、小さな悲鳴を挙げて、水菜が驚いた。
見なくとも分かる。水菜が口に手を当てて、驚きを隠そうとしている様子が。
だからこそ、早瀬は振り向こうとはしなかった。ただ、念を押した。
「何から助けてあげればいいんだい?」
「それは……」
水菜の声はとても苦しそうだった。言ってしまえたらどんなに楽か分からない。だが、絶対に言えない。そんな葛藤が見え隠れするような声だった。
「言えないのなら言わなくてもいい。ただ、助けてはもらいたいんだよね?」
三度に渡る確認の末、水菜は長い黙考を経て「はい」と一言だけ返した。
声に出してしまえば弾みがついたのだろう。水菜は続けて言葉を吐き出した。
「わ、私を助けて欲しいのです。い、いきなりこんなことをお願いするのもどうかとは思うのですが、私は、もう嫌なのです」
「嫌って、何が? この座敷から出られないことかい?」
「違います。そのことは構わないのです。ただ、私は私から助けてもらいたいのです」
「自分から?」
「おかしなことを言うと思っていただいても結構です。でも、私は私から救ってもらいたいのです。だって、私は……っ」
と、話が核心に達しようとしたとき、水菜は慌てて口を噤んだ。
どうしたのかと思い、水菜へ振り返ろうとした途中で、早瀬は縁側を悠々と歩いて来る黒い子猫を見つけた。早瀬が助けてやった猫だ。
黒猫はいつも、初めは姿を隠している。そして、ある瞬間いきなり現れて、その鼻の頭を早瀬の手に擦り付けて甘えて見せるのだ。
「おお。また来たな。よく俺が来たってこと分かって来るもんだ」
水菜が慌てて口を噤んだ理由は分からなかった。だが、話したくないのなら話を大げさに変えてやるのも優しさかもしれないと思った早瀬は、
「そう言えば、あの黒猫は何て名前なんだ? 今の今まで気にしてなかったが、こんなとき呼んでやれないのも味気ないからな」
と、問い掛けてみれば、水菜はぎこちなく答えてくれた。
「あ、と、特に……名前は……ない、です」
「そうなのか。まぁ、お互いに眼が合っていれば名前を呼ばなくても話は出来るからな。な? お前」
後半は猫に向けてのものだった。右手を差し出して「チチチ」と、舌を鳴らして呼べば、子猫は嬉しそうに小走りで近付いて来た。
が、早瀬の手に自分の顔が触れるか触れないか! と言う瞬間に、悲鳴を挙げて勢い良く飛び退いた。
あまりにいきなりのことで、早瀬も反射的に手を引っ込めて驚いた。
「何だよいきなり。俺がまた何かしたか?」
と、猫に向かって問い掛けてみるが、黒猫は全身の毛を逆立てて、完全なる威嚇の体勢を取っていた。それは明らかに自分に対しての敵意だと言うことを早瀬は理解していた。
ただ、恨まれて威嚇される理由が全く分からなかった。
(まぁ、身に覚えがないからと言って、本当に理由がないとは限らないからな……)
とは思うものの、正直なところ悲しくないわけではなかった。
「何だか、そこまで威嚇されると居辛くなるじゃないか。来いよ」
と、もう一度だけ誘ってみるが、結果は惨敗。爪まで出して引っかく素振りまで見せられてしまえば、早瀬は日を改めるべきかと思い、水菜を振り返って苦笑を向けた。
対する水菜は物言いたげな表情を浮かべた後、悲しげに眼を閉じた。
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