(2)

「あれ、お前達女将を洗うの止めたのか?」

 それに対して、別の戍狩が言う。

「ああ。葵ノ進が『このまま女将を洗っていても、事件は解決しないし、早瀬様も帰って来ない! 早瀬様がいなくなったのは事件の核心に近付いているから! そして自分たちはその核心とは程遠いところにいる。だから自分たちは早瀬様を見つけることも出来ない!』って、騒ぎ立てるから、もしかしたら、本当に女将じゃないのかもしれないと思ってな。初めから取調べのときの供述を確かめて、新しい可能性を昨日から模索し始めていたところよ」

「へぇ~、よく考えを変えたな」

「それだけ俺たちもお前のために必死だったということさ」

「お前と来たら、お前のことを良く知っている友達の一人もいないんだから、俺たちがどれだけお前の行方を探るために苦労したか」

「あははは」

「あははじゃない。何乾いた笑い声上げてるんだ。俺たちは必死で、お前が何か思い詰めて早まった真似をするんじゃないだろうかって危惧して、誰か何か聞いていないか調べようとして、わざわざ下鉦しもがねの森まで行ったんだぞ」

「え?」

 乾いた笑い声を上げていた早瀬の顔が強張った。

「行ったのか? 惺流塞のところに? 何故?」

 感心とも呆れとも付かない表情と声音で早瀬が問い掛ける。

 それに答えたのは葵ノ進だった。

「何故ってことはないでしょ? 早瀬様の友達は惺流塞さんしかいないと結論が出たからですよ。それ以外に、早瀬様が親しくしている人がいなかったんです!」

「確かにそうかもしれないが……。だとすれば、ある意味大変だったんじゃないか?」

「ええ、ええ。大変でしたとも!」

 葵ノ進は、惺流塞の座敷でのことを思い出して、頬を引き攣らせながら肯定した。

 その表情だけで察しが付いたらしい早瀬は、ますます苦笑いを深めて、しみじみと続けた。

「だろうなぁ……。俺と惺流塞は友達じゃないからなぁ……。もしも友達なら行く先とかに心当たりありませんか? なんて問い掛けたら、『友達なんかじゃない。ただの知人だ。知人の行方など知るか』とか何とか、取り付く島もなかったんじゃないか?」

「全く持ってその通りですよ! 見ていたのですか?!」

「いや、見てはいないけど、簡単に想像は付くから。きっとお前さんとは合わない人種だってことは」

「と言うか、何なんですか、あの礼儀知らずは!!」

 みなまで早瀬が言う前に、葵ノ進は食って掛かる。

「人のことは馬鹿にはするし、話している相手の顔は見ない。人の話を聞いてるんだかいないんだか分からないし、挙句の果てに、狸に私の相手をさせる。本当に一回もこっちの眼を見なかったのですよ! あんなに馬鹿にされたのはいつ以来なのか分かりませんよ!」

「ああー、済まない」

「どうして早瀬様が謝るのですか」

「いや、俺が失踪していなければ遭わずに済んだことだろうと思ってな」

「全くですよ。あんな礼儀知らずと付き合っていられる早瀬様が分かりません!」

「ははは。まあ、そう言わないで。慣れれば思ったほど嫌には思わないと思うから」

 どうすればあんなのに慣れるのか、葵ノ進には全く分からなかった。慣れる前に二度と会いに行こうなどと思わない。

「惺流塞さんも言っていましたが、早瀬様の心の広さには感心を通り過ぎて呆れてきます」

 思わず腹立ち紛れに嫌味を言ってしまう。口走ってしまってから「しまった」と思うが、

「へぇ、あの惺流塞が俺のことを褒めたのか。それは凄い」

 素直に感心している早瀬を見て、葵ノ進はますます判断に困った。

 惺流塞は言っていた。早瀬は馬鹿なのだと。

 言われたときは、何を失礼なことを! と頭にも来たものだが、今になって、何となくその意味を理解してしまえたなら、少し腹立たしさが紛れた。それと同時に、惺流塞から託された文のことを思い出す。

「あ、そう言えば、惺流塞さんからの預かり物があったのです」

「え?」

 それこそ、鳩が豆鉄砲食らったかのような表情を浮かべて聞き返す早瀬。

「あの惺流塞が俺宛に?」

 余程意外なことだったのか、珍しく確認を取って来る早瀬。

 それに対して「はい」と答えて、葵ノ進は懐から一通の文を取り出した。

「うわ。文だ」

 差し出されたものを眼にして、早瀬は嬉しそうな、嫌そうな、なんとも複雑な表情を過ぎらせて受け取ると、暫くまじまじと見詰めた後、

「後で読ませてもらうよ。ありがとう」

 葵ノ進に礼を述べて懐にしまった。

 出来ることなら今ここで読んで貰いたかったと葵ノ進は思った。

 文は個人同士の物だと言うことは分かっている。他人が勝手に読むべきではないと言うことも分かっている。だが、正直なところ無性に内容が気になって仕方がなかった。

 だとしても、ここで読んで下さいとは、葵ノ進の名誉と常識の下、言えるはずもなく、葵ノ進は自分の好奇心を必死に抑えた。

 それにも拘らず、直後に早瀬は驚くべきことを口にした。

「皆。この二日間音沙汰なしで心配掛けて済まなかった。だが、迷惑ついでと言っては何だが、もう一度俺は出掛けなければならないんだ。今日も必ず行くと約束してしまったからな」

「約束って、その女とですか?」

「そうだ」

「独りで行くつもりですか?」

 思わず詰問してしまう葵ノ進。

「まぁ、一応」

「駄目です」

 困ったように頬を掻く早瀬に対し、即答する葵ノ進。

 即答された早瀬は、まるで我侭を言っている子供を、どうやって言い聞かせようか悩んでいる親のような表情を葵ノ進に向けて言った。

「駄目……か?」

「駄目です。また何日も帰って来なくなったら私が困ります。早瀬様は私の指導委なのですから。いてもらわなければ困ります。どうしてもと言うのであれば、私も一緒に連れて行って下さい」

 早瀬は逡巡しているようだった。

 何をどう考えているのかは分からない。分からないが、葵ノ進にしてみれば、そう言えば早瀬が行くのを止めるか、せめて単独行動を防ぐことが出来ると思っていた。案の定、早瀬は言った。

「まぁ、独りで行くとは言っていないからな。行くか? 一緒に」

「はい!」

 葵ノ進は即答した。それ以外の答えなど存在しなかった。独り残されて苛々しているより、一緒に付いて行った方がどれだけマシだか分かったものではない。

「じゃ、そういう事で、また少し出て来る。多分今度はすぐに帰って来ると思うから、心配しなくても大丈夫だろう。葵ノ進もいることだしな」

「はい。ちゃんとつれて帰って来ます」

 力強く同僚達に頷いて、葵ノ進は早瀬と共に番所を後にした。

 そして、平福屋などの裏口が面する裏通りに入り、もう少しで早瀬を見失った場所に着こうというとき、葵ノ進は『あのとき早瀬がどこに行ったのかが分かる』と期待に胸を膨らませた。

 前を行く早瀬はどんどん焼け廃れた一角に近付いて行く。

 あのとき早瀬はどこで曲がったのだろう?

 その答えが今すぐ分かる。

 そう思っていると、早瀬の足がピタリと止まった。

 そこは焼け崩れて放置された一角だった。

「どうしたのですか? 早瀬様。こんなところに何か用でもあるのですか?」

 と問い掛ければ、早瀬は微苦笑を浮かべると、残念そうに言った。

……」

「え?」

「その娘さんはな、

「ここ……」

 と、言われても、葵ノ進には娘も屋敷も見えなかった。あるのはただの焼け焦げた屋敷の残骸だけ。雑草が申し訳程度に生えた庭は庭とは言えないし、そんな場所に娘が独り住んでいるとも思えない。それこそ、そんなところに住んでいたら、誰もが同情するだろう。どう見ても雨風を凌げるとは思えない。

 そんなところに人が住んでいると言われても、到底信じられるものではない。むしろ、信じられる方がどうかしているし、そんなことで騙せるとでも思っているのだとすれば、それこそどうにかしていると葵ノ進は思った。

「……って、一体何を言っているのですか? 早瀬様。ここのどこにその人がいるって言うのですか?」

 と、葵ノ進は言い切ることが出来なかった。

「早瀬様?」

 少し眼を離しただけだった。少しだけ、本当に少しだけ早瀬の背中から、焼け跡に視線を移しただけだった。

 それだけの僅かな間。時間にしても一呼吸分あるかないか。ただそれだけの僅かな時間で、早瀬の姿は前回と同じように、忽然と消えていた。

 後には、現状に置いて行かれて理解不能に陥っている葵ノ進だけが、ただ呆然と残されるだけだった。

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