第六章『踏み込めぬ場所』

(1)


「やあ、おはよう」

『…………………』

 何事もなかったかのように早瀬が出勤して来たのは、惺流塞の元へ出向いた次の日の朝のことだった。

 手掛かりと言う手掛かりの一つも得られず、落胆していた葵ノ進たち。人一人いないだけで、番所の空気は重く沈んでいたと言うのに、その原因ともなっている早瀬が、ちゃっかりと帰って来た。

 その、あまりと言えばあまりの展開に、一瞬誰もが反応出来ず、皆ポカーンとした間抜け面を晒すことになった。

「ん? どうした、皆。そんな間の抜けた顔をして。俺の顔に何か付いてるか?」

 あまりにも注目を浴びたため、早瀬は自分の顔や着物を見て触って、変なところがないか確かめた。

 だが、葵ノ進にしてみれば、その普通の態度が、安堵した分腹立たしかった。

一気に頭へ血が上り、次の瞬間には叫んでいた。

「早瀬様! 一体今の今までどこに行っていたのですか!」

「え?」

 突然怒鳴られて、早瀬は訳が分からない様子で体を引いた。

「一体どれだけ私たちが心配したと思っているのですか!」

 足音も荒く、葵ノ進は早瀬に詰め寄る。

 しかし、言われていることが理解し切れないでいる早瀬は、近付かれた分自然に下がり、 掌を葵ノ進に向けながら何とか落ち着かせようとした。

「まぁまぁ、少しは落ち着け、葵ノ進。何のことを言っているのか分からないぞ」

 その、本気で分かっていない様子に、益々葵ノ進の怒りは募る。

 この人は、自分のことを何だと思っているんだ!

「変な書き置きまで残して、丸二日音沙汰もなく失踪しておいて、どうしてそういう安穏とした台詞が吐けるのですか!」

「は?」

 聞き返した早瀬の表情が固まった。

「今、何て言った?」

 若干表情を強張らせて問い返されたなら、幾分冷静さを取り戻した葵ノ進は、嫌味も込めて答えてやった。

「早瀬様は、聞き込みに行くと出て行って、私がその後を付けていることを知った上でこんな紛らわし書き込みを残して、そのまま丸二日帰って来なかったんです!」

「二日……?」

 眉間に皺を寄せると言う珍しい表情を浮かべて呟く早瀬。

 そこに至って、ようやく葵ノ進も冷静になった。

「もしかして、本当に覚えていないのですか? この二日間どこにいたのか」

 冷静にはなったが、半信半疑で問い掛けると、早瀬は暫し長めに黙考した後、考えながら言葉を紡いだ。

「どこにいたのかは分かる。ただ、二日も経っていたとは思わなかった……」

「一体、どこにいたのですか?」

 葵ノ進はそればかりが気になっていた。あの辺りで、あの焼け崩れた屋敷の残骸がある場所以外で、曲がれるところはどこにもなかったのだ。そこから一体どこへ行ったのか、葵ノ進は気になって仕方がなかった。

 だから、早瀬がどこに行っていたのかを口にしたとき、葵ノ進は言葉の意味を捉え切れなかった。早瀬は答えた。

「女の子の所にいたんだよ。生前平福屋の息子の平汰が通っていた女の子のところ」

「は?」

 反射的に聞き返す葵ノ進の後ろで、他の戍狩たちがにわかにざわめき出す。

「あの使用人が言っていたことは本当だったのか?」

「一体どこの女だ?」

「って言うか、丸二日もその女のところで何してたんだ? まさかお前……」

 露骨に軽蔑の眼差しを向けられ、少なからず動揺する早瀬。

「違う! 断じて違う! 何を想像しているのか知らないが、多分そういう卑猥なことじゃない! だから、そういう穢れたものでも見るような眼を止めなさい。葵ノ進」

「だったら何をしていたのか言ってみろ」

 葵ノ進の背後から追求の声が上がる。

 丸二日心配掛けさせられた分の仕返しに、番所内は燃えていた。

「いや、だから、話し相手になっていただけだよ」

「話し相手?」

「ああ。その子は体が弱くて外に出られない。平福屋の平汰はそんな彼女を見舞っていたらしい。その平汰が暫く来ないからどうしたのかと心配しているって言っていたから」

「まさか、素直に『死んだ』なんて言ったわけではありませんよね?」

 先程とはまた違う、非難の眼差しを向けつつ葵ノ進が訊ねれば、早瀬は罰の悪そうな顔を一瞬だけして答えた。

「さすがに干乾びた遺体で見付かったとは言ってはいないが、死んだことは伝えたよ」

「どうして?!」

 反射的に葵ノ進は責めてしまった。

「相手は外に出られない人なのでしょ? だとしたら、黙っていてあげれば良かったのではないのですか? 余計な心配や衝撃を与えて、ますます体調を悪くしたらどうするつもりなのですか!」

「うん。お前の言うことは分かるよ、葵ノ進」

 早瀬は静かに答えた。

「でもな、いつ来るとも知れない人間を待ち続けるのも辛いものだ。ただでさえ体の弱い人だ。長い間来ない人間のことを考え続けることが心にも体にもいい影響を与えるとは、俺には思えなかった。

 実際その子は、自分が平汰と一緒に外に出て行けないことを、平汰が嫌がって、それで愛想を尽かして来なくなってしまったのではないかと思い詰めていた。

 もしも、この先もずっとそんなことを考え続けていたとしたら、どうなると思う? ただでさえ病弱なことを後ろめたいことのように思っているんだ。そのまま消えてなくなってしまおうとするかもしれない。

 それよりは、事実をきちんと告げて、その子の所為で来なくなったのではなく、来られない事情があっただけなんだと教えてやる方が、自分の気持ちや考え方にけじめをつけられるだろ?

 ただ、その後気持ちを落ち着かせるまで傍にいてやろうと思っていたんだが……まさか二日も経っていたとは思わなかった」

 最後は早瀬も不思議そうな顔をして締め括った。

 葵ノ進には、早瀬の言っていることが優しさなのか残酷なのか判断が付きかねた。

 確かに、何も知らずに延々と待ち続けて自分を責めるよりは健全かもしれないが、希望をすっぱりと断ち切ってしまうのもどうかと思った。

 反射的に反論しようとして口を開き、だが、発するべき言葉は頭の中を駆け巡るだけで、何故か口をついて出ることはなかった。

 そんな葵ノ進に向かって、早瀬は苦笑を浮かべて言った。

「だとしても、まるっきり連絡しなくてすまなかった。心配してくれたんだな。ありがとう。皆も、すまなかった。世の中には思いも寄らぬことが起こるものだと身に染みて分かったよ。で? 調査はどの程度まで進んだんだ?」

 そう言って、葵ノ進の前を早瀬が通り過ぎて行ったなら、葵ノ進は唐突に思った。

 無事に帰って来てくれたのであれば、それだけでいいのかもしれない……と。

 実際はそれほどいいわけでもない。

 何故今の今までその女の存在を誰にも言わなかったのか。

 何故二日間も音信不通で帰って来なかったのか。

 あの使いを通して渡して来た、書き置きの意味は何なのか。

 聞きたいことは沢山あったが、ひとまずそれは置いておいて、帰って来てくれたことにホッとした。

 そんな時、早瀬が意外そうな声を挙げた。

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