(5)

「で? 俺にどうしろって言うんだ?」

 その後に続く台詞でも、呆れにも似た苛立ちの含まれた問い掛けに、葵ノ進はただただ予想を裏切る結果に言葉を見つけられずにいた。

 だが、だからと言ってこのままおめおめと帰ることだけは出来ない。葵ノ進も根性を見せて話しかけた。

「先程もお話させて頂きましたが、お恥ずかしい話、私たち戍狩は早瀬様のことを何も知りませんでした。何に悩んでいたのかも、どういう場所が好きなのかも、それ故に、今早瀬様がどこにいるのか見当も付かないしだいでして」

「だから、何故俺のところへ来たんだ? どこを捜しても早瀬はいないぞ」

「いえ、惺流塞さんを疑っているのではなく、早瀬様のご友人として何か聞いていないかと思いまして……」

「だから、その時点で見当外れだと言っているんだ」

「と、言いますと?」

「俺と早瀬は友人ではない。ただの知人だ。ただの知人がどうして早瀬のことを知っていると思う?」

「え? でも」

 それは今日の出来事の中で最も予想外の展開だった。

「確かに、あいつはしょっちゅうここへ来ていた。それは認める。

だが、貴様もそうだが、いちいち他人の家に上がりこんで、どうにもならないことを散々愚痴って帰ったりするのか? それを聞いて他人があまり面白がらないと思うことを話したりするのか?」

「それは……」

「あいつは愚痴を溢しには来たりしない。俺が世間と隔離し過ぎているから、世間で何が起きているのか、俺の探し物の手掛かりになりそうな話しを拾って来るとか、小珠の様子を見に来たりとか、頼んでもいないのに、生活に必要なものがないか訊きに来たりしていただけだ。

 いいか? あいつは自分の境遇を不幸だと思わない男なんだ。自分の身に降り掛かって来る忌まわしい出来事を、忌まわしい出来事と思わない男なんだ。

あいつが『不幸だ。大変だ』と思うのは、赤の他人がそういう事態に陥っているときだ。その相手をどうすれば助けることが出来るか意見を聞きに来ることはあるが、あいつ自身が困っていることを打ち明けに来たことはない。お前達は俺よりあいつの近くにいて、今の今まであいつがどういう人間か分からなかったのか? 本当に情けない奴らだな」

 思っても見ない攻撃に、葵ノ進はぐうの音も出なかった。

 こちらの方を見ることなく、惺流塞は辛辣に言葉を突き刺して来る。

「あいつはな。馬鹿なんだよ。お人よしを通り越してな。だからおかしなことに巻き込まれる。特に、お前達が見当違いの下手人探しなんてしているから、あいつが自分独りだけでどんどん核心に触れて行く」

「え?」

「あいつのことを助けたいのなら、もっと違う方向から物事を見たらどうだ?

 ま、おそらくお前達には永遠に無理だろうがな」

「あ、あの。それはどう言う」

 何かを知っていそうな口ぶりに、葵ノ進が困惑しながら問い掛けると、惺流塞は相変わらず筆を動かしながら言った。

「入れ」

「?」

 勿論、自分に向けられた言葉ではないと言うことは分かった。

 一体誰が入って来るのかと思わず振り返ってみれば、そこにはあの子狸が、信じられないことにお盆を持って入って来た。正確にはお盆を押して入って来たのだが、十分に驚くべきことだった。しかも、お盆に入っていた文らしきものを持ち上げて差し出して来るのだから、大いに葵ノ進は戸惑った。

 つぶらな瞳が自分を見詰め、『さあ、さあ』とばかりに文を差し出している。

 受け取れと言っていることは伝わるが、何故そんな物を差し出すのか理解出来ないでいると、惺流塞が促した。

「お前にではないが、お前に託す。それを早瀬に渡せ」

「わ、渡せと言われても、その肝心の早瀬様がいないんです! 私の話を聞いていましたか?!」

 思わず葵ノ進は声を上げてしまった。

 あれほど散々いなくなってしまったから捜すことに協力して欲しいと頼んでいたと言うのに、知ったことかとばかりに罵っておいて、挙句に文を渡せと言われて出来るものではない。

 しかし惺流塞は筆を洗って新しい色をとりながら、何でもないことのように言った。

「生まれたばかりの子供でもあるまい。明日にでも帰って来るだろうさ。それほど無責任な男ではないはずだからな」

「ど、どうしてそんなことが分かるんですか……」

 あまりにも当然のように話すため、葵ノ進は戸惑うことしか出来なかった。

「むしろ、分からないお前達の方が不思議でならんな。

 分かったらさっさとそれを持って出て行ってくれ。これ以上ここにいても何も分からんぞ」

 挙句に、出て行けと宣告されてしまえば、葵ノ進はもう居座ることは出来なかった。

 葵ノ進は惺流塞の態度を怒ればいいのか、自分自身反省すればいいのか、何もかもを知っている様をどう解釈すればいいのか分からず、様々な感情に苛まれながら、文を受け取って屋敷を後にした。

 最後の最後まで、とうとう惺流塞は葵ノ進の顔を見ようとはしなかった。

 そして、帰りは錯覚だとは思うが、来たときよりも早く森を抜けることが出来た。

 森から出てしまえば、葵ノ進は何かに騙されたような心境に陥っていた。もう一度森の中へ戻ろうとは思えなかった。

 手の中の文を見る。

 惺流塞は、早瀬は帰って来ると言っていた。何故そんなことを断言出来るのか全く持って理解出来なかった。

 馬鹿にされているのかとも思った。

 狸だ。あの狸が化かしているんだ。

 だとしても、葵ノ進は文を叩き捨てようという気にはならなかった。

 何故かは分からない。分からないが、渡さなければならないと思った。

 その文を渡すとき、葵ノ進は早瀬に会えるときなのだ。もしも文がなかったら、早瀬にもう二度と会えないかもしれない。

 そんなことはないとは思いながら、心のどこかでそう思っている自分がいるのも確かだった。


                ※


「小珠」

 誰もいない座敷にて、惺流塞は小珠を呼んだ。

 小珠は素直に頭を上げて、次の言葉を待っていた。

 そんな小珠に惺流塞は言う。

 揶揄の混じったその言葉に、小珠は可愛らしく頬を膨らませた。

 そんな小珠に視線を移し、言葉とは裏腹に微笑を向けたなら、労わるような口調で続けた。

「あいつのことが心配か?」

 小珠は心配そうに眉を下げて頷く。それに対して惺流塞は殊更素っ気無く答えた。

「大丈夫さ。明日には帰って来るだろうよ。それよりも、帰って来てからの方が大変なことになる。

 その言葉に、小珠は真剣な表情で力強く頷いた。

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