(4)

「御免下さい! 誰か居られませんか?!」

 離れや庭の荒れた様を横目に、葵ノ進は何とか無事でいる玄関で声を上げた。

 森の中で見つけたものの、今でも本当に人が住んでいるのか、今一確信の持てない葵ノ進。

呼び掛けてはいるものの、返事が返って来るとも思ってはいなかった。

それでも駄目元で何度か声を張り上げていると、タタタタタと何かが駆け寄って来る音が聞こえた。

 子供がいるのか? と、葵ノ進は思った。少なくとも大人の足音ではない。

 実際、衝立の後ろから小さな影らしきものが見えたときも、その姿は見えなかった。と言うより、影らしきものに続いて現れたものを見て、葵ノ進は眼を見張った。

 衝立の後ろから現れたのは、赤い布飾りをつけた一匹の子狸だった。

 そんなことはないとは思うが、急いで来たらしい子狸も、驚いている葵ノ進に負けないほど驚いたようで硬直していた。

 暫し気まずい空気が流れ、葵ノ進は自分の間抜けさを感じながら確かめずにはいられなかった。

「た、タヌキ……だよな?」

 その瞬間、子狸は脱兎の如く屋敷の奥へと逃げ出した。

「あ、おい!」

 反射的に呼び止めようとするものの、呼び止めたところでどうすることも出来ないことに気が付いたなら、何をしに来たのかと、葵ノ進は呆然とした。

 せっかく手掛かりが見付かると思いきや、出て来たのは人間ですらない子狸。噂が噂を呼んで人に化けたかと落胆する。

 期待して来た分、その落胆の度合いは頭を殴られたような衝撃と変わらなかった。

「帰ろう……」

 暫く玄関に佇んでいた葵ノ進は、空しくなって踵を返した。だが、そのときふと引っ掛かることに気が付いた。

 待て、よく思い出してみろ! あのタヌキ、赤い布飾りをつけていなかったか? ちゃんと結び付けられていなかったか? だとしたら、一体誰に結び付けてもらった? 親ダヌキか? そんな話聞いたことないぞ? だとすれば、何だ? 考えられることは一つじゃないか?

「奥に飼い主がいるんだ!」

 瞬間。葵ノ進は弾かれたかのように草履も脱がずに上がり込んだ。

「おい! 誰かいないか!」

 叫びつつ駆けること数歩。左右に分かれる場所に達する前に、右から山伏のような姿をした体格のいい男がいきなり現れる。

葵ノ進は妖にでも会ったかのように飛び退いた。

 自分でも情けないと思う。だが、まさかいきなり、無言で人が出て来ると思っていなかったため、驚きと、ぶつかってはいけないと思う気持ちとで、飛び退いた末に尻餅を付いた。

 山伏姿の男は、そんな葵ノ進を笑うでもなく、案ずるわけでもなく、ただ静かに見下ろしていた。何だかとてつもなく気まずい空気を感じ取り、葵ノ進はなるべく落ち着き払って立ち上がると訊ねた。

「あなたが、あのタヌキの飼い主ですか?」

 しかし男は問い掛けには答えず、ゆっくりと玄関を指差した。

釣られてそちらを見やり、何も変化がないことにホッとしつつ、顔を戻し、問い返す。

 一瞬、異形の妖が立っているのかと思った。

「一体、何ですか?」

 男は言った。

「履物を脱いではもらえないか」

 責めるわけでもない、落ち着き払った静かな声だった。

 だが、言われた葵ノ進は隠し切れないほどに慌てた。確かに、いくら荒れていると言っても、仮にも人が住んでいる場所に土足で入り込むなど失礼なことこの上ない。

「も、申し訳ない! 今すぐ脱いで来ます!」

 慌てて玄関に戻って草履を脱ぐと、再び葵ノ進は山伏姿の男の元まで歩いて行った。

 男は葵ノ進に忠告した場所から一歩も歩いていなかった。目の前まで来て、やや気圧されながら問い掛ける。

「あなたが、絵師の惺流塞さんですか?」

 それに対し、男はゆっくりと葵ノ進に背中を向けると、「主はこちらです」と言って、歩き出した。付いて来いとは言われなかったが、葵ノ進は置いて行かれないように急いで付いていった。

 そして、つれて来られたのが、部屋一面に絵が散らばり、その中で絵を描いていた惺流塞の待つ座敷だった。


「連れて参りました」

 男が静かに報告し、葵ノ進が入りやすいように少し避ける。

 葵ノ進はそれに対して一礼をすると、座敷の中へと入り、その場に座って身分を名乗った。

 背後で静かに襖が閉まり、座敷の中で葵ノ進は惺流塞と二人っきりになった。

 想像よりも若い惺流塞。そして、愛想のなさに葵ノ進は身分を語り、やって来た目的を話してしまうと、何も言葉を繋げなくなってしまった。

 惺流塞は、葵ノ進が話している間、筆を止めることはしなかった。

 そして、相槌の一つも打ってはくれなかった。

 お陰で、葵ノ進にしてみれば、聞いているのかいないのか不安でたまらなかった。

 しまいには、本当に話を聞いているのかどうかすら怪しんで、腹立たしさを覚えながら話していた。

 それでも、友人の大事だと知れたら、何かしら反応を示すだろうと待つこと暫し、返って来た第一声が、迷惑そうな声での一言だった。

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