(2)

 葵ノ進は一定の距離を保って、早瀬の跡をつけた。

 自分の世話役でもある早瀬を、まさか自分がつけることになるとは思ってもみなかった。

 だが、こうでもしないと、早瀬が毎日どこで何をしているのか分からなかった。

 本当ならば、そんなことにかまけていないで、事件のことを調べる方が先決だと言うことは分かっている。だが、事件のことはいくら調べても、解決の糸口さえ見えない。その上、早瀬の様子がおかしいとなれば、気に掛かって集中出来なかった。そんな状態で仕事をしたところで身が入るはずもなく、だったら、手っ取り早く解決できそうな方を解決してしまえばスッキリする。

 葵ノ進はそう自分に言い聞かせた。

 そして、ふと思う。聞き込みなどをしている最中に、いきなり脱線してしまう早瀬も、同じ気持ちで行動していたのではないかと。

 たとえ些細なことだったとしても、それを見なかったことにして、今やっている仕事を優先したところで、その後どうなったのかずっと気にかけ続けて後悔するのが嫌だから、さっさと脱線して終わらせているのではないかと。

 その分、事件に関わっているわけだから、報告書をまとめる時間は増えるが、それで満足するのなら安いものなのかもしれない。

 自分以外にも同じことを調べている人間がいるのであれば、少し脱線しても構わないだろう。という安易な気持ちでやっているわけではない。

 脱線した分を取り戻すために、早瀬はその後、聞き込みなり調べ物をしている。だから外出すると帰って来なくなるのだ。

 だとしても、それはそれだった。

 本来なら葵ノ進と早瀬は二人一組になって動いていなければならない。それは葵ノ進が新米だからだ。新米の証の白い布が取れるまで、早瀬は葵ノ進と一緒にいなければならい。

 それなのに、早瀬は今、葵ノ進を放って置いて、一言も考えを聞かせてくれることもなく行動している。信用されていないことが悔しくて、意地でもどこに行くのか突き止めようと思った。

 早瀬は平福屋に向かっているようだった。この数日で何度も通った道だ。

 人で賑わう表通り。早瀬を見失わないように一生懸命付けて行く。

 やっぱり早瀬さんも女将を疑っていたんじゃないのか?

 まっすぐに平福屋の店に向かって歩みを進める早瀬に対して、自分と同じ考えだったことを喜ぶ気持ちと、何故、それを隠し、挙句否定するようなことを言ったのか? という疑問が同時に沸き起こった。

 そんなことを考えていると、不意に早瀬が足を止めた。遅れて、慌てて葵ノ進が人混みに紛れて隠れ、様子を窺っていると、早瀬は何事かを書いている動作をし、店の前にいた子供にその紙を渡して再び歩き出した。

 見失う前に追い駆けなければ!

 しかし、慌てて飛び出した目の前に、早瀬が何かを託した子供が現れたなら、葵ノ進は危うく子供を突き飛ばしそうになった。

「うわっとと。危ないじゃないか!」

 実際に危なかったのと、早くしないと早瀬を見失う焦りから、思わず声を荒げてしまう葵ノ進。

 そんな葵ノ進に怒鳴られて、一瞬怯えた表情を浮かべる子供。

 年の頃は六歳ほどか。その怯えた顔を見て、葵ノ進は瞬く間に後悔に襲われた。

 私は何をやっているんだ! この子は何も悪くない。いきなり飛び出して走り出したのは自分の方じゃないか! もう少し冷静になれ!

 焦る気持ちは消え去るものではないが、何とか笑みを浮かべて子供の安否を確かめる。

「す、すまない。少し急いでいたもので。大丈夫だったかい?」

 問い掛ける声が震えていれば、笑っているはずの頬も引き攣っているのを感じた。

 これでは逆効果じゃないか! と、むしろ自分の方が泣きたい気持ちになる。

 そんな葵ノ進に、子供は一枚の紙切れを差し出した。

「これ、あなたにわたせって」

「え?」

「わたせって!」

 殆ど押し付けるように渡して来る紙切れを受け取ると、子供は一目散に逃げて行った。よほど葵ノ進が怖かったのだろう。

 そのことに少なからず悲しみを覚えたが、問題はそんなことではなかった。

 早瀬が自分宛の手紙を預けていたのだとしたら、それはつまり、葵ノ進が尾行していたことがバレていたと言うことに他ならない。

 血の気が引く思いだった。慌てて手紙を読んでみれば、そこにはこう書かれていた。


「独りで逝くのは寂しいものだ。誰かが傍にいなければならない。お前にその気持ちがわかるかな?」


 読み終わっても、どう反応をしたらいいのか、葵ノ進には分からなかった。

どう解釈したらいいのか分からなかった。

 その文面はまるで死にに行こうとしているかのようでもあり、誰かを見取ろうとしているようでもある。

 刹那のときを経て、葵ノ進から音が消えた。目の前が暗くなり、心臓が早鐘のように鳴り出した。血の気が引く。足が震えて、体が震えた。訳が分からなかった。

 早瀬が誰かの死を見届けようとしているのなら構わない。だが、もし、何かを思いつめていた早瀬が早まった真似をしようとしていたなら……。

 誰かがそばにいなければならない!

 早瀬さんを捕まえなければならない!

 瞬間、葵ノ進は紙切れを握り締めて走り出した。

 早く早く! 早瀬さんを捕まえて考え直させなければいけない!

 その一心で走っていると、奇跡的に路地に入って行く姿が見えた。

 こんなものを渡されたとあっては、バレるもバレないもあったものではない。形振り構わず葵ノ進は疾走した。

「どけどけ! どいてくれ! 道を開けてくれ!」

 人々の『何事だ?』という視線を浴びつつ葵ノ進は走る。

 そして、平福屋の裏口がある裏通りに入ると、まっすぐに伸びたその道に、小さな早瀬の背中が見えた。

「早瀬さん!」

 葵ノ進は大声で叫んだ。喉に引き裂かれるような痛みが走った。ただでさえ全力疾走で空気を求めて喘いでいたところに、大声を張り上げたのだから当然だ。

 それでも葵ノ進は叫ばずにはいられなかった。少しでも思いとどまってくれる可能性があるのなら、それに賭けるしかなかった。

 一瞬、早瀬の足が止まったような気がした。

 一瞬、早瀬が自分の方を見たような気がした。

 一瞬、早瀬が笑ったような気がした。

 もしかしたらその全てが、葵ノ進が生み出した都合のいい錯覚だったのかもしれない。

 早瀬は走り出すこともせず、立ち止まって葵ノ進が追いつくのを待つこともせず、そのまま右に折れて入って行った。

「待って下さい!」

 と叫ぶだけの気力が葵ノ進にはなかった。とにかく苦しくて、とてもではないが叫べなかった。焦る気持ちだけが空回りして、全く進んでいないように思われた。

 そして、早瀬が曲がったと思しき場所に達して、葵ノ進は愕然とした。

 そこは行き止まりだった。火事でもあったのだろうか? 焼け崩れた屋敷の残骸が手付かずのままに残っている。

 道を間違えた?!

 焦りのあまり、道を間違えたのかと思った。通りに戻り、左右を見渡す。だが、目の前の焼け崩れた敷地以外、曲がれるところは一つとしてなかった。

 だとしても、いや、だとしたら、一体どこに早瀬は消えたと言うのだろうか?

「一体どこに……」

 まるで神隠しにでもあったような現象に、葵ノ進は狸にでも化かされたような拍子抜けた気分に陥る。

 どう見ても、人が隠れていられるような焼け跡ではない。それこそ焼け跡の中に潜り込まない限り、姿を消すことは出来ない。

 そこで早瀬は忽然と姿を消し、その日から帰って来なかった。

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