(3)

 ドスンと結構大きな音がした。自分の耳にだけそのように大きく聞こえたのかもしれないが、何とか受身だけはとって大事には至らないようにした。むしろ、木の下に植えられていた低木が衝撃を吸収してくれた代わりに折れてしまったことの方が重大なことだった。

 マズイことをしてしまった。

 早瀬は血の気の下がる音を聞いた。

 どう弁解したところで立派な不法侵入だ。まさか子猫が証人として弁護をしてくれるわけもないこの状況。

「いっそ、逃げるのも一つの手だよな」

 と、絶対的にありえない可能性を口にして起き上がる。

 受身は取ったものの、それなりに痛みはある腰をさすりつつ、とりあえず庭木を折ってしまったことを表に回って謝らなければ……と、思ったときだった。

「………だ、大丈夫ですか?」

「!!」

 おずおずと掛けられた少女の声に、早瀬はビクリと肩を震わせて息を飲み込んだ。

 今一番聞きたくない声だった。

 恐る恐る顔だけ声のした方に向けてみると、少し離れたところにある部屋の障子が開いていた。そこに、寝ていたらしい女が上半身を起こして、怯えているような、安否を気遣うような複雑な表情を浮かべて早瀬を見ていた。

 傍から見れば、垣根を乗り越えてやって来た不法侵入者だ。それも、葵ノ進ぐらいの年齢の娘の寝ているところにいきなり現れたとすれば、どんな誤解をされるか分かったものではない。

「あー」

 なんと言い訳をしたものか、咄嗟に言葉が出てこない早瀬。無意味に声を出しては見るものの、後に続く言葉もなく、言い訳したところで言い訳にしかならないと思ってしまえば、早瀬はきっぱりと諦めて謝ることにした。

「すまない。落ちてしまった。でも信じて欲しいんだが、俺は別にこの屋敷に忍び込みたかったわけでもなければ、君に危害を加えようとしたわけでもないんだ。

 君の庭を滅茶苦茶にしてしまって言えるようなことではないとは思うのだが、出口はどちらになるだろう?」

 木の葉を払いながら立ち上がる。信じてもらえなければ叫ばれるだけだと思いながら少女の顔を見てみれば、キョトンとした表情を浮かべていた。

 色の白い少女だった。印象は儚げだが整った顔立ちをしている。風邪でもこじらせて寝ていたのか、着ているものは薄手の白い着物。

 あまりまじまじと見るのも失礼に当たると思い、視線を布団の端に固定したまま少女の反応を待つこと暫し。

 早瀬の耳に届いたのは、くすくすと笑う小さな声だった。

 何事かと思い少女を見れば、少女は口元を押さえながら間違いなく笑っていた。

 笑われている理由が早瀬には分からなかった。

 客観的に見てみれば、少女の置かれた状況は笑って済ませられるものではない。

悲鳴の一つでも挙げられるかもしれないと覚悟していた分、早瀬は拍子抜けした。

「あの、何かおかしなことでも言っただろうか?」

 自分で言いながら、既に色々おかしいだろ。と内心突っ込みを入れてみる。

 すると少女は笑みを浮かべたまま言った。

「す、すみません。いきなり笑ったりして。気分を悪くしないで下さい」

 けして大きくはないが、綺麗な声だった。

「いや、気分を悪くするのは俺ではなく君の方で……」

「いえ。いいえ。悪いのは私の方です。私の猫を助けてくれるために落ちてしまったのですから」

「え?」

「私の猫を助けようとしなければ落ちることもなかったでしょうに。それなのに笑ってしまって、申し訳ございません。そして、助けてくださってありがとうございます」

 深々と頭を下げられてしまった。

 見れば、ちゃっかりと子猫が少女の傍で早瀬を見ていた。

「あー、と言うことは、もしかして全部見てたのかい?」

 少女は小さく頷いた。

 情けなく落ちたところを見られたと知って、誤解を解く手間は省けたものの、やはり何だか情けない。

「いや、恥ずかしいところを見せてしまった。その猫に、下りられなくなるんだから初めから上ってはいけないと、よぉく注意しておいて下さい。俺は早々に退散するので出口を教えてもらってもいいかな?」

 と訊ねれば、少女はいきなり爆弾発言をした。

「あの……私の猫を助けたついでに、もう少しいてもらえませんか?」

「は?」

 垣根を越えていきなり現れた見ず知らずの男に対して、軽々しく吐いていい台詞ではない。大人しそうな清楚な外見とは裏腹の大胆な発言に、一瞬早瀬は自分の耳を疑う。

「もう少し……と言われても、それは少し問題じゃないかな?」

 だが、少女は一歩も引かなかった。

「私が今、十分に恥知らずな願い事を口にしたことは分かっています。ですが、お願いします。少しだけ私の話し相手になって頂きたいのです」

「お家の人には頼めないのかい?」

 あまりに一生懸命な表情に、思わず逃げ腰になる早瀬。しかし、

「家族には……家族には、頼めません」

 意味ありげに言葉を飲み込まれる。

 よく見れば、少女のいる座敷は離れになっているようだった。少女のいる座敷以外隣接している座敷がない。殆ど隔離状態だ。

「家族のものは誰もここには来ません。余程のことがない限り、ここに来るのは下働きの女の人だけです」

「気分を悪くさせてしまうかもしれないから先に謝っておくけれど、君は何か流行り病にでも罹っていて隔離されているのかい?」

「流行り病の類ではありません。ある意味同じようなものかもしれませんが……。

 あ、でも、別に誰かに移ったりするものではありません。私がここから出られないことにはきちんと理由はあるのです。ですが、それを口にしたところで到底信じられるものではないでしょう。

 でも、お願いします。憐れな子猫を助けたついでだと思って、どうか私の話し相手になって下さい。もし、どうしてもお聞き届けいただけなければ……私は、死人同然になってしまいます」

 消え入りそうな声音で吐かれた追い込まれた者の言葉は、事実、見捨てて行くには後ろ髪を引かれる言葉だった。その上、親に捨てられた子供が浮かべるような縋りつく眼を見てしまったなら、このまま立ち去る方が悪人のような気がして来て、結局早瀬は少女の願いを聞き入れることにした。

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