(2)

使用人の一人がこっそり教えてくれたことには、立派な白木蓮の木が植えられている離れに住んでいるらしく、しかも、それほど遠くないらしい。

 だったらということで、早瀬は平福屋の裏手の道をきょろきょろしながら歩いていた。

「はて? 探すのはいいが、白木蓮という木はどういうものを言うんだったか?」

 根本的な問題が早瀬にはあった。花や草木を愛でる気持ちは持ち合わせているものの、物に頓着しない性格が災いして、物の名前を覚えられなかった。

木蓮と言うくらいだから白い花の咲いている木を探せばいいんだろうが……」

 表の道とは打って変わって、人通りのない裏道には人の姿は一つもない。

 均された広い道。垣根の壁がずっと向こうまで続いている。垣根の途中に裏口があり、その内側が、裏庭になっていることを早瀬は知っていた。少し覗けばもっと詳しく庭の様子も分かるだろうが、さすがに日中堂々と覗く趣味は持ち合わせていなかった。

 いくら戍狩だとしても、人通りのない真っ昼間から他人の裏庭を覗いていいものではない。良からぬことを企んでいる一味の隠れ家になっていると言うのであれば話は別だが、そうでなければ戍狩でも捕まる。

 いっそのこと、表から回って、

「こちらには白木蓮と離れがありますか?」

 と、訊いて回った方が早いような気もしたが、結局それは営業妨害にも繋がる行為にしかならないと気付き、踏み切ることは出来なかった。

 だったらいっそのこと、普段着姿で訊いて歩いたらどうだとも思わなくもないが、それこそ怪しさだけが前面に押し出されて、結果、戍狩に通報されかねない。そんなことにでもなれば笑い話にもならない。

 だからこそ、早瀬は地道に歩いてみることにした。

 それ以前に、何となく歩きたい気分でもあった。

 今日は非番なのだ。休むときには休む。ついでに何か収穫があれば大儲け。

そんな気分で歩いていると、

「?」

 心細そうな、不安そうな小さな鳴き声が降って来た。

 繰り返しになってしまうが、道には早瀬の姿以外人っ子一人いない。声を頼りに頭上を仰ぎ見てみれば、そこには、垣根を乗り越えて伸びている、青々とした葉を茂らせた木の枝があった。その先端に、真っ黒い子猫が座り、頻りに鳴いていた。

 調子に乗って上って行って、怖くて下りられなくなったらしい。

「どうして子猫は高いところに上りたがるんだろうな。怖くて下りられなくなるのに」

 懸命に声を振り絞って鳴いている姿を見て、思わず苦笑が浮かんでしまう。

 そんな早瀬に抗議するかのように、黒い子猫は益々声を大きくして鳴いて見せた。

「分かった分かった。下ろしてやればいいんだろ?」

 いつまでも耳に残りそうなほど必死に鳴かれたなら、早瀬は根負けして下ろしてやることにした。

「さて、どうやって下ろしてやるものか………と、考えたところで、垣根に登るしか届かないからな……」

 一度辺りを見回して、誰もいないことを確認してから垣根に左足を掛け、勢いを付けて上に伸び上がれば、右手が垣根の上に届いた。手が届いてしまえば後は力任せに自分を持ち上げるだけである。

 だが、その瞬間、と垣根の軋む音がした。

 一瞬、上半身を垣根の上に持ち上げ切っていた早瀬は硬直した。

 耳を澄まし、垣根に今以上の負荷が掛からないかどうかを確かめる。下手に動いて垣根を壊してしまったら弁解の仕様がない。

 暫く待っても、それ以上軋む音がしないことを確認し、ホッと一息ついて、早瀬は一気に足を掛けて垣根の上に立つと、そのまま木の枝に足を掛けて身を乗り出した。

「さぁ、おいで」

 手を差し伸べて子猫を呼ぶ。

 しかし子猫は、自分で早瀬を呼んでおきながら、いざ早瀬が手を伸ばすと、ますます枝の端の方へ行ってしまった。

「おいおい、それはないんじゃないか? 結構俺、今大変なことしてるんだけどなぁ」

 困りきった顔に笑みが浮かぶ。どちらにしろ、こうなることは想像していたが、実際にやられると大変困った。

「さて、どうしたものか。さすがに俺が上ると枝が折れてしまいそうだしな。

だからと言って、誰が通るとも分からない場所にずっと立っているわけにもいかないし……。 なあ、こっちに来てはくれないか? 来たくないのなら俺はもう帰るぞ?」

 その言葉が通じたわけでもないだろうが、子猫は一瞬考えるように首を傾げた。

 動作は可愛らしいのだが、来てくれないものだろうか?

 と思いつつ、もう一度だけ「チチチ」と舌を鳴らしながら呼んでみる。

 すると子猫は、おずおずと、警戒心を消すこともなく近付いて来た。

 助けを呼んでおきながら、いざ助けに来ると逃げ出して、挙句に警戒しながら近付かれていることに何だか複雑な気分に陥る早瀬。まるで自分が悪党か何かにでもなったような心境で待つこと暫し。手が届く範囲に近付いた子猫を、逃げられる前に捕まえる。刹那、子猫はまたしても暴れ、早瀬の顔面目掛けて飛び掛かって来た。

「なっ、ちょ、お前!」

 想像はしていた。きっとそうなるだろうと言うことは分かってはいた。

 だが、実際に暴れられてしまうと、案の定、早瀬は垣根の上で姿勢を崩した。

 元々足場などあってないようなものだ。マズイと思った次の瞬間には、早瀬は垣根の内側に落下していた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る