(5)

 早瀬が出て行って、部屋には静けさが戻って来た。

 黒と赤と藍色と橙色しか認識出来ない世界の中で、ぽっかりと何かが欠けたような空気が暫く残る。早瀬が帰った後はいつもそう言う欠けた空気が残る。

 早瀬は察しがいいのか悪いのか、惺流塞には判断に迷う人物だった。

 早瀬と言う男は、ある意味とても危険な人種の人間だと、惺流塞は認識している。

(あの男には境界がないんだ。常識非常識に関係なく起きていること、起こったことをそのまま受け入れるだけの度量はある。だが、それが特異なことだという認識がない。いや、危機感がないのか?)

 惺流塞は自分の態度が一般的には受け入れがたいものだと言うことを認識している。あえて誰も自分に関わろうとしないように確信犯的にしていることだ。

 元々そういう傾向の性格だったため、心が痛むと言うことはないが、それにも関わらず早瀬はやって来る。

 話の相手をしなくても、あからさまに迷惑だと言って追い返そうとしても、風に吹かれる柳のように、ふらりと流れては元に戻る。

 勝手にしろと言われたから、勝手に上がらせてもらった。

 どちらが傲慢なのかと一瞬迷うほどの理由で押し掛けて来たこともある。

そして、何をするでもなく少しの時間世間話を一方的にすると、帰って行く。

 何しに来ているのかと訊ねれば、様子を見に来ているだけだと言う。

困ったことがあるのなら手伝おうと言う。

 自分が人間ではないと事実を語っても、下駄を飛ばして表が出て、『明日の天気は晴れだそうだ』と言われて信じるように、あっさりと信じた。

 もしかしたら妖と言うものが何なのかきちんと理解していないのかもしれない。

 だが、早瀬を見ていると、説明がどうでもよくなって来てしまい、今までずっと説明をせずに来た。別に早瀬を馬鹿にしているわけではない。説明をしても今と変わらないような気がしたのだ。

 ある意味あいつは馬鹿なんだ。

 そう思うことにして、それこそ好きなようにさせることにした。

あの手の人間は脅そうが宥めようが頼もうが、勝手に纏わり付くと相場が決まっている。

そして、一方的に見切りをつけて勝手に去って行くものだ。

だからこそ、それを静かに待っていればいい。ただそれだけのことなのだ。だが、

(干乾びた遺体か……)

 早瀬には妖など関係ないと言い切ったものの、もしかしたら、自分の色を持っている妖が関わっているかもしれないと思っていた。

 だとしても、あの時そう答えていれば、早瀬は間違いなく取り返しの付かないことをしそうな予感がして言うのを止めた。

 別に早瀬の身を案じたわけではない。そうなる方が何だか面倒なことになりそうな気がしたからだ。

 出来ることなら早瀬をその件から外せないものかとまで考えたが、そこまで気を揉む必要もないことに気付いたなら、気にかけること自体を止めにした。

 第一に、あの変わり者が止めろと言われて止めるわけがない。

 言った方が益々意地になるだろう。

 そんなことを考えるともなく考えていると、静かに襖が開けられた。

 そこからちょこちょこと小珠が入って来る。

早瀬の食べ終えた膳を持ち、そのまま出て行こうとするのを、惺流塞は呼び止めた。

 小珠が立ち止まり、逡巡の末に惺流塞の元へ膳を置いてやって来る。

それを視界に納め、自分の横に座るのを待ってから、惺流塞は筆を動かしつつ言った。

「小珠。早瀬が言っていた。美味しかったそうだ」

 見なくとも、小珠が満面の笑みを浮かべたのが分かる。

 だからこそ、もう一つのことも言ってやる。

「お前のことを狸だと言ったら大層怒られた。あいつにはお前の姿は俺と同じように。それが、どういう意味か分かるか?」

 見なくとも、小珠の表情が強張ったことが分かる。

「あいつはある意味俺より危険だ。お前はあいつが好きか?」

 視界の端で小珠が頷くのが見えた。

「だったら、どうにかしてやれ。お前には出来るな?」

 そう言えば、小珠が魔除け袋を作ることを惺流塞は知っていた。

 案の定、小珠は真剣そのものの表情で頷くと、すっくと立ち上がって膳を持ち、部屋から出て行った。

 惺流塞の場合は色を奪われるだけで済んだ。

 だが、早瀬の場合は色だけで済むか分からない。

 もしもこのまま知らない振りをして何かが起ころうものなら、きっと小珠は臍を曲げる。

 そうなれば困るのは自分だ。

 けして自分が、早瀬の身を案じた訳ではないと自身に言い聞かせ、惺流塞は筆を動かし続けた。

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