第三章『自称妖の相談者』
(1)
平福屋の息子の遺体が見付かった
かつては名のある貴族の別荘が建っていたという話だが、今となっては住む者もいない。
そんな森の中を、提燈片手に入って行く無謀な男が一人いた。早瀬だった。
早瀬は日中でも暗い森の中を、それこそ町中を歩いているかのように、恐れも戸惑いもなく進んでいた。道らしき道は特にない。それでも早瀬の足に迷いはなかった。
早瀬にだけ見えている獣道があるかのように、暗さなど問題にせず、早瀬はどんどん森の中へ入って行く。
その森は、何度来ても人間を拒絶している森だと早瀬は思った。
一歩でも足を踏み入れたなら、何者かの視線が付き纏う。
何かが付いて来ている気配がしたかと思えば、唐突に進みたくなくなる瞬間が訪れる。
気の弱い者なら、それこそ恐怖心を呼び起こされて、それだけで逃げ出してしまう。
しかし、不思議と早瀬はそのような感覚に囚われたことはなかった。
確かに、警戒するような視線を感じたことはあるが、怖いと思ったことはない。
妖の住む森。
そう呼ばれて恐れられている森だ。
だが、早瀬は知っていた。誰も近付きたがらないその森に、一人の男が住んでいることを。かつて貴族の屋敷だった廃屋に、勝手に住み着いた絵師の存在を。
男の名前は
人間嫌いで、煩わしいことが嫌いで、人の来ない場所を探して勝手に住み着いて、絵を描いている。その絵がまた、町では高値で売れているのだから皮肉だ。人間嫌いの作品が、人間に受け入れられているのだから、皮肉でなくてなんだと言うのか。
そんな変人と早瀬が出会ったのは大体半年前に遡る。惺流塞の大切な筆を取り戻すのに協力したのがきっかけで、今でも時々様子を見に森へ来る。
本当ならもっと明るい時間に来る予定だった。だが、葵ノ進の調査に付き合っていたら、結局月が昇ってしまった。
顔を出しに行こうか止めようか迷って、結局来ることにしたのには深い理由があるわけではない。何となく足が向いたとしか言いようがなかった。
だとしても、それはそれで構わないと早瀬は思っている。
久しぶりに
「望むなら、夕餉の残りがあればいいんだがなぁ……。
さすがに腹の虫が煩くなって来た」
提燈を持っていない右手で腹を押さえながら呟いて、すぐに苦笑を浮かべる。
「着いて早々、夕餉の残りはあるか? などと訊ねたら、きっと惺流塞は顔を顰めて『飯屋じゃない』って怒るんだろうな」
せっかくの整った顔を露骨に歪めるのを想像したなら、やはりおかしい。
惺流塞が益々不機嫌になりそうなほど満面の笑みを浮かべて、早瀬は足取りも軽く、森の奥へと進んで行った。
そのまま進むと、暫くして開かれた場所に辿り着く。そここそが、荒れ果てた貴族の屋敷が放置されている場所であり、早瀬の『友』が住まう場所だった。
確かに、部分によっては荒れ放題の見るも無残な姿を晒してはいるが、母屋は全く荒れた気配がない。それこそ人が今でも住んでいる証拠だった。
部屋の一室に明かりが点いているのを目にし、惺流塞が起きていることを確認する。
「小珠はもう寝てしまっているかもしれないな」
今更ながらのことに気が付いたりもしたが、早瀬は気にせずに崩れかけた門を潜った。
※
「邪魔をするよ」
「全くだ」
勝手知ったる何とやら。玄関で声を掛けた後、当たり前のように上がりこんだ早瀬に、屋敷の主である惺流塞は不機嫌な口調で即答した。
明かりの点いていた部屋だった。畳の敷かれた一六畳ほどの広さを有する部屋である。その部屋一面に、惺流塞が描いたと思しき絵が散乱していた。
さすがに天井にはないが、襖と言う襖に絵が貼られ、畳の上には表裏関係なく何枚もの絵が置かれていた。水墨画や風景画が主だったものだが、中にはどことも知れない景色や、存在しえない不気味な姿の生き物が描かれているのもあった。
それは何かと訊ねたら、それこそが妖だと惺流塞は答えた。
惺流塞はいつも同じ姿でいた。絵に囲まれ、その絵の中心に置かれている三脚つきの板の上でいつも絵を描いている。普通は机の上に板を置いて、その上に紙を置いて絵を描くのだが、惺流塞は板を斜めにして、体を倒さなくても描けるような三脚つきの板を使用していた。
長い黒髪を垂らし、深緑色の着物を着流し、黒味がかった羽織をその上に着ている。左膝を立て、右膝を胡坐を掻くように倒し、周りに様々な色を侍らせ、筆を洗う水の入った壺を三つ置いている。
そして、絵を描いている途中は、一段落するまでけして絵から眼を離さない。
だからこそ、知らない者が惺流塞に話し掛けようとすれば、不満が募る。
人の話を真剣に聞く態度からは程遠いのだから仕方がない。
だが、それは勘違いだと言うことを早瀬は知っていた。
元々惺流塞は人の話を聞くつもりがないのだ。それにも拘らず話し掛ける方が悪い。
どうしても話したいことがあるときは、惺流塞の仕草を一切無視して話し切ってしまうことが大切だ。そう、思っている。
思ったところで、こんなところまで、一体自分以外の誰がやって来るのかと考えてしまうが、惺流塞の絵が町に流れているのであれば、誰かが買い付けにやって来ているのだろうと思う。間違っても惺流塞自らが、この屋敷から絵を売るために出て行くとは考えられない。
その程度には惺流塞を把握しているつもりだった。
だが、いつ来ても不思議なことはある。惺流塞の絵だ。
惺流塞の絵は色がついている。普通の色使いのものもあれば、普通は使わない色で景色を塗って、同じ絵でもまるで印象の違うものを描いたりしている。
普通であれば、それは何ら特別なことではない。
だが、惺流塞は普通ではないことを早瀬は聞かされていた。
惺流塞は色が見えないのだ。
眼が見えないのかと訊ね返せば、色が見えないだけだと訂正された。
今一理解し切れていないと、惺流塞はたとえ話をしてくれた。
惺流塞が認識できる色は黒だけなのだと。
そこに、取り戻した分だけ色がつくと言っていた。
例えば、赤い色を取り戻せば、黒一色の景色の中に赤い花や、赤い色の実が鮮明に浮かび上がって見えるのだという。
色を塗るときに赤い色を使って作る色に関しても、色合いに応じた濃度で黒い景色の中で見えるのだという。
惺流塞は今のところ黒と赤と橙と藍色の四種類しか見えていないのだという。
それでも、その他の色を使って惺流塞は色を塗っている。
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