(2)
「あまり女性には見せたくない代物だが、大丈夫なのかね」
志乃坂が、毅然とした態度の女将と、既に青褪め掛けている喜兵衛。まさかこんなところに呼ばれるとは思ってもいなかった様子の使用人三人に対し、自分の隣に立っている早瀬に小声で訊ねる。
遺体を間に挟んで並んでいる面々を見て、早瀬は小声で返した。
「ああ。多分大丈夫だ。むしろ、女将より主と使用人連中の方がどうにかなりそうで怖い」
「まあ、野郎共が気絶する分には笑って済ませられるからいいがね。
まぁ、何を見せられるのか分かって来ているんだったら、話は早い。
皆さん。覚悟はいいですか? 止めるなら今ですよ?」
「店を閉めて来たのです。そんな無意味なこと今更致しませんわ。
どうせ見なければならないのですから、さっさと済まして下さいな」
気持ちのいいほどに急かしたてる女将に中てられ、志乃坂はちらりと早瀬を見やると小声で呟いた。
「ハッキリ言って、いけすかねぇ女だ」
志乃坂好みの女ではないと言うことが分かった。そもそも志乃坂の伴侶とは正反対の性格なのだから仕方がない。
「腰抜かさねぇで下さいよ」
明らかに不快を込めて、志乃坂が筵を捲る。
籠もっていた臭気が溢れ出て、誰もが皆一斉に退いて呻いた。
水分と脂肪が抜き出てしまい、骨とわずかばかりの肉に皮膚が張り付いている様は、古木のような色と相まって、吐き気を催させる。
眼窩は落ち窪み、目玉が飛び出て、だらしなく口は開いている。
とてもではないがそれを見て、自分の息子だと確定できる親はどこにも存在しないだろうと早瀬は思う。
それこそ、前歯が抜けているとか、どこかに傷があるとか、持ち物がそうだとか、何かしら本人である証拠が体のどこかにあれば話は別だが、今の状態では肝心の着物を着ている仏自体が持ち主なのかどうか判断出来ないでいる。
干乾びきっている状態であることは再三に渡って説明を繰り返して来たが、それでも「見る」と意見を変えなかった女将の意志の強さを感心すればいいのやら、頑固者と称すればいいのやら。
しかし、意見を変えないでいただけあって、女将の態度が一番気丈だった。
使用人たちは本能的に吐き気を催す臭いと、衝撃的な映像に耐え兼ねて死体置き場の外の植え込みに戻しているし、主は立ったまま器用に気絶していた。
ただ一人女将だけが、鼻と口元を抑え、血の気を無くしながらも干乾びた遺体を直視し続けていた。
「だ、大丈夫ですか? 平福屋さん……」
情けない男達の中で、唯一やって来た目的を果たそうとしている女将に対して、葵ノ進が声を掛ければ、
「だ、大丈夫です」
初めは頷くだけでなかなか声が出なかった女将だが、それでも掠れた声で答えた。
それどころか、一歩近付き、震える手で襟を持ち上げると家印があるのかどうか確かめた。
あばら骨の浮き出た胸を見て、一瞬苦しそうに眉を寄せる。
喉が何かを飲み込むように動くのを見て、一体何故、そこまで耐えようとするのか、葵ノ進には分からなかった。
一度眼を閉じて、その後に襟から手を離す。
一歩下がり、大きく息を吸って吐く。
顔色は青白い。それでも、女将の目から強い意志が消えることはなかった。
「確かに、着物はわたくしどもの息子のものでした。
ですが、これが本当にわたくしどもの息子かどうかは判断出来かねます。
干乾びた人間と言うものがこれほどまでに変貌するとは思ってもいませんでした。どんな姿になろうとも息子だったら分かると思っていたわたくしが間違っておりました。とてもではありませんが、あれが息子だとは断定できません」
「それはそうでしょう」
葵ノ進が何かを言う前に、早瀬は素直に聞き入れた。
「ここまで容姿が変貌してしまっては、普通の人間には判断など付きません。余程どこかに特徴でもあれば話は別ですが、何か特徴はありましたか?」
「いえ。特別何もなかったと思いますが……。
お前達。何か聞いているかい? いい加減にしっかりおし! だらしない!」
いつまでも呻いている使用人たちを怒鳴りつけて女将が問い掛けると、その内の一人が戸口までやって来て、口を開いた。
「あ、あの」
「なんだい? 何か知っているのかい?」
「あ、え……っと、前に女の人を巡って殴り合いの喧嘩になって、左の奥歯が二本欠けたとか何とか言っていたような気がします」
「本当かい?!」
「どうだった? 志乃坂?」
女将が使用人に念を押すのと、早瀬が確認を取るのは同時だった。志乃坂は答えた。
「確かに、左の奥歯が二本欠けてはいたが……」
「でも、そういう人間は吐いて捨てるほどいるだろうな」
どんな息子でも、こんな変わり果てた姿で見付かるのは嫌なものだ。それ故に否定の言葉を早瀬は口にしたのだが、
「いいえ。特徴が合ったと言うのであれば、これはわたくしどもの息子と言うことになります」
女将はきっぱりと断言してしまった。
「そんなに簡単に認めてしまっていいのですか?」
身元が分かった喜びよりも、何か釈然としない物に突き動かされて葵ノ進が訊ねれば、女将は、どこか軽蔑するような眼で葵ノ進を射抜いて言った。
「あなたはわたくし共に認めて欲しいのですか? それとも認めて欲しくないのですか? あの馬鹿息子の身体的特徴と同じ特徴があって、わたくし共の家印の入った着物を着ていたというのであれば、この遺体はわたくし共の息子です。
それとも、わたくしの息子だと何か不都合なことがおありなのですか?」
「い、いいえ。そう言うわけでは……」
まさか喧嘩腰の言葉を投げつけられて来るとは思いも寄らなかったのだろう。
しどろもどろになって言葉を飲み込めば、女将は畳み掛けるように言葉を続けた。
「だったら、この遺体はわたくし共の方で葬儀を挙げたいと思うのですが、運び出しても宜しいのでしょうか?」
「まぁ、あんたが自分の息子だと言い張るのであれば、番所の方で手続きさえしてもらえれば大丈夫だと思うが?」
「分かりました。ではさっそく手続きをしに行って来ますわ」
まるで悲しみの欠片も浮かべることなく言い切ると、颯爽と踵を返して番所の方へ向かう女将。その後を、ようやく我に返った喜兵衛達が慌てて追い駆けて行く。
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