遠い夜空にこだまする

玄賓

遠い夜空にこだまする



 ちいさな頃から、なんども同じことを言われてきた。

 本当に姉弟? 似てないね。

 友達から、学校の先生から、近所のおじさんおばさんから。おじいちゃんおばあちゃんまで。

 くせっ毛でタレ目、ふっくら体型のわたしはお父さん似。さらさらの直毛でツリ目、やせ型のハルはお母さん似。わたし達は両親の特徴をバラバラに受け継いだ。

 趣味も合わない。わたしは和菓子派、ハルは洋菓子派。わたしはジャンプ派、ハルはサンデー派。わたしはサッカーが好き。ハルは野球が好き。勝負は9回裏2アウトまでわからない、だなんて、昭和のおじさんめいた言葉が口癖になるくらい、ハルは野球が好きだ。

 同じ言葉をよく口にしていたのは、昭和生まれのアキおじさんだった。口癖がハルにうつったのだ。おじさんは、わたし達が小学生の頃通っていた学習塾の先生だ。

 無精ひげを生やし、長い髪を頭のてっぺんでくるりと丸めていた。年中下駄を履いていて、カランカランうるさい。パッと見は四十代。けれど貧乏な大学生のような雰囲気もあった。京大に八年も通ったとか、走り幅跳びで全国に行ったとか、先祖は徳川将軍だとか、ホラばかり吹いていた。

 ちいさな学習塾だった。先生は塾長のおじいさん先生とおじさんの二人だけ。生徒もわたしとハルの二人だけ。昔はもっとたくさん、生徒がいたって言うけれど。小規模な塾だから、おじさんみたいなひとでもクビにならなかったにちがいない。

 授業にはいつも遅れてやってくる。教科書を忘れることも多々あった。「先生のくせに」と罵れば、「自習の大切さを教えている」と開き直った。いつの間にか「先生」ではなく「おじさん」と呼ぶようになった。本人も「先生」なんて柄じゃないと自覚してたんだと思う。一切とがめることはなかった。

 おじさんの授業はしょっちゅう脇道に逸れた。とくに野球の話が多かった。数式や漢字、日本の歴史より、野球の歴史を教わりにいっていたようなものだった。

 江夏の21球、バックスクリーン3連発、KKコンビ、10・8決戦、イチロー200安打、野茂メジャー挑戦…眼を輝かせながら語る。自分で見たわけでもないくせに。

「見た人間しか楽しめないような底の浅い娯楽なら、とっくに廃れてる。そうじゃないから、野球はここまで多くの人の心を捉えて放さないんだ」

 方程式を教えるときには見せない熱意で、おじさんは語った。

「いいか。野球はドラマなんだ。舌を巻くようなプレーにも感動するが、本質じゃない。技術だけを見れば、プロに比べて高校野球は稚拙だ。なのになぜあれだけ多くの人たちが熱狂する? ドラマがあるからだ」

 あくびをしたわたしを見て、おじさんが鋭い視線を向けた。思わず背筋がピンと伸びた。

「見ればわかる。今度、連れて行ってやる。社会勉強だ」

 プレーよりドラマなんじゃなかったの。質問を投げかけるより早く、おじさんは教室を出ていった。

 約束の日、珍しく時間通りやってきたおじさんと駅で落ち合い、新幹線に乗って名古屋へ向かった。名古屋駅に着いて地下鉄に乗り換える。駅を降りてからしばらく歩く。まだ歩くの? 喉渇いた。ねぇねぇ、コーラ買って。おじさんにねだる。おじさんはムスッとした表情を見せて、後でな、と言った。ケチ。隣のハルはうつむいたまま、ずっとわたしの服の裾を握って放さなかった。


 試合は青と白のユニホームのチームが勝った。らしい。中日ドラゴンズ、というチーム、らしい。サヨナラ勝ち、という勝ち方だったらしい。

 おじさんは立ち上がり、両手を突き上げて絶叫していた。周りの大人たちも同じように絶叫していた。球場内は嵐のようだった。「ほら見ろ! 勝負は9回裏2アウトまでわからない、つったろ!!」顔を真っ赤にしたおじさんが、わたしの肩をゆすりながら叫んだ。息がくさかった。

 帰り道ずっと、おじさんは鼻歌を歌っていた。〝燃えよドラゴンズ〟という曲なのだと、そのときはじめて教えられた。

「今までもう何十回とナゴドに来てるけど、オレが見に来て勝ったの、はじめてだよ。すげえよ。フユは勝利の女神だな」

 別にわたし、何もしてないし。そんなことねぇよ、案外そーゆーもんなんだよ。そーゆーもん、ってなに。そーゆーもんはそーゆーもん。ちゃんと教えてよ、おじさん、先生でしょ。おじさんは口を大きくあけて、ガハハと笑った。勝負は9回裏2アウトまでわからない、と何度も繰り返し、笑った。ドラゴンズ最高! また来ようぜ! くさい息を吐き散らし、しつこく同じセリフを連呼した。わたしの話を聞け、質問に答えろ。くそじじい。

 うんざりだ。野球なんて。もう見に行くことは二度とない。そう思った。

 なのにハルが、

「また行きたい!」

 目を輝かせるもんだから。

「姉ちゃんも一緒に行こうね」

 わたしの手を握って、離さないもんだから。

 いったい、なにが弟の琴線にふれたのだろう。

 この日を機会に、ハルはどんどん中日ドラゴンズに染まっていった。授業中も、おじさんとドラゴンズの話ばかりする。興味なんて微塵もないけれど、嫌でも会話が耳に入ってくる。おかげで知識が増えてしまった。

 中日ドラゴンズというチームはどうも随分弱いらしい。たいていの場合、負け数が勝ち数を上回っている。なので、中日ファンのおじさんとハルは愚痴ばかり。しょっちゅうヘコんでいる。そんなに落ち込むこと? つらいならファンをやめたらいいのに。けど、あんまり熱心に応援してるもんだから、言いづらい。おじさんも謎だ。どうして中日ファンなんかになったんだろ。

「さぁ……ある日聞こえたとか言ってたよ」

 なにが?

「とーおい夜空にこだまする~ 竜の叫び」

 ハルは、歌うように答えた。

 なにそれ。わたしは笑いを噛み殺しつつ訊いた。

「それが聞こえたら中日ファンなんだってさ」

 ハルは聞こえるの?

 訊ねると、ハルは笑顔でVサインを作って見せた。

 わかんない。どうしてこんな、よわっちいチーム。

 負け方だってひどい。6点もリードしてるのに9回裏に追いつかれ、延長戦で逆転負けする。ファンじゃなくても心が折れる。しかも今年は30回以上逆転負けしているらしい。こんなのあんまりだ。好きで応援してるのに、好きだからつらい目にあうなんて。なんどもそんな思いをしてまで、どうしてまだ好きでいるの?

 ところが不思議なことがある。こんなによわい中日ドラゴンズが、どうしてかわたし達が観戦に行くときだけは勝ってしまう。年に一度の生観戦で、まだ負け試合を見たことがない。

「姉ちゃんは勝利の女神だね」

 ハルが白い歯を見せて笑う。

 どうなんだか。こんなところで幸運を使ってしまって、かえって損してるきぶんになる。


 ハルはどんどん野球にのめり込んでいった。

 中学にあがると野球部に入り、練習に打ち込むようになった。もちもちの白肌は真っ黒に焼け、身長はぐんぐん伸びてわたしを追い越した。どこからどう見ても野球少年。平日はわたしより早くに家を出て、遅くに帰ってくる。放課後も土日も練習練習。たまのオフも部活の友達と遊びに行く。

 ハルが中学にあがると、おじさんは塾の先生をやめた。ある日突然、どこかに消えてしまった。今頃どうしているんだか。ナゴドのちかくに引っ越してたりして。知らんけど。

 おじさんがいなくなってからはふたりで観戦するようになった。帽子を被り、ユニホームを着たハルはメガホンを鳴らし、大声を出して応援する。ハルにあわせてわたしも帽子とユニホームを着用する。メガホンを鳴らして応援する(フリをする)。

 ハルはわたしが中日ファンだと思い込んでいる。

 大変申し訳ないけれど、毎日ドラゴンズの話を聞かされていても、毎年球場に足を運んでいても、いっこうに興味は湧かない。チームに愛着も湧かない。見に来た試合で勝ったところでどうなるのと思う。だって他のほとんどの試合で負けてるから最下位なんじゃん。

 わからない。

 地元のチームってわけでもない。イチローや大谷みたいに、スーパースターがいるわけでもない。負けてばかりの弱小球団。こんなチームを応援して何がたのしいの?

 わたしも物好きだ。中学生になっても、高校生になっても、友達の誘いを断って、彼氏との約束をブッチしてまで、どうして姉弟で野球観戦に行ってるのか。

 ハルもさ。もう高校生なんだから、彼女でもつくって、その子と一緒に行きなよ。

 ある日ハルが言った。

「今度さ、三人で行かない?」

 え。おじさん、戻ってきたの?

「ちがうちがう。じつはセンパイにひとり中日ファンの人がいるの」

 随分かわった人だね。

「姉ちゃんが言う? ウチは姉弟で毎年ナゴドに行くんです、姉ちゃんと一緒に見に行くと負けたことないんです、って言ったら、一緒に行きたいって」

 ふぅん。

 わたしが答えを濁したのを肯定と受け取ったのか、今年の野球観戦は三人で行くことになった。

 待ち合わせは駅の改札。〝センパイ〟は、約束の時間になっても現れない。しびれを切らしたハルが電話をかけようとすると、ベリーショートの女の子が駆けてきた。もう既にユニホームを着ている。遅れてスミマセン! と、行き交う人が振り返るほどの大声を出して頭を下げた。てっきり野球部のセンパイかと思いきや、まさか女の子とは。

「こんにちは! 藤原夏生って言います! ナツって呼んでください! 今日はよろしくお願いします!」

「はぁ。どうも」

「春海くんのお姉さんですよね! 春海くんにはいつもお世話になってます!」

「はぁ。こちらこそハルがいつもお世話になってるみたいで」

「いつもお話は聞いてます! 今日は気合い入れて応援しましょうね!」

「はぁ」

「お姉さんが見に行くと絶対勝つんですよね! すごいな~、わたしなんて負け試合ばっかりで…」

「あの」

「お姉さんは誰が好きなんですか? わたしは大島が好きなんです! ほんっっとFAせず残ってくれてよかったなぁ〜〜〜」

「あの」

「あとは大野雄大も好きです! トークもおもしろいですしね! あっ、もちろんみんな好きなのは前提ですよ! で、お姉さんは誰推しですか!」

「あの」

「なっかなか勝てなくてくやしい思いをしてばっかりなんですけど、今日はお姉さんと一緒だから絶対勝てるぞ! ってたのしみなんです!」

「あの」

「一緒に燃えドラ歌いましょうね! お姉さん!」

「あの!」

「……お姉さん、どうかしました?」

「その〝お姉さん〟ってのやめてくれます? 同級生、ですよね?」

 同じクラスになったことはないけれど、廊下で姿を見かけたことがある……気がする。たぶん同じ学校の人……だと思う。

 それまでマシンガンのようにしゃべりまくっていた藤原さんの表情が固まった。次の瞬間口を大きく開けると、

「あー! そうだ! どーりで見たことあると思った!」

 と、高らかに笑いながら頭をかいた。

「ふつうに呼んでくれますか」

「〝真冬〟よろしくね!」

「……できれば名字で」

 そう言うと、藤原さんは眉を寄せ、唇を尖らせる。

「えー、それじゃ仲良くないみたいじゃん!」

 いや……ほぼ初対面ですよ、わたしたち。

「あー! ダメだよ!」

 いちいち声が大きい。耳が痛い。

「〝橘さん〟呼びだとハルと一緒になっちゃう! やっぱり下の名前で呼ぶね!」

 意見を挟む余地もなく、藤原さんはひとりでしゃべり続ける。

「〝真冬さん〟はカタイかー、〝真冬ちゃん〟じゃーふつうだし」

 いいよそれで。ふつうでいいの。ふつうで。

「姉ちゃん、友達には〝フユ〟って呼ばれてるよね」

 ハル。余計なこと言わないで。

「そうなの? じゃあわたしも〝フユ〟って呼ぶ!」

 藤原さんは満足したように大きく頷くと、白い歯をむき出しにして笑った。

「はやくしないと新幹線でるよ」

 ハルに言われて時計を見ると、発車まで10分を切っていた。


 試合は負けた。

 序盤にホームランが飛び出して大量リードを奪われる。先発が早々に降板し、出てくる中継ぎピッチャーは軒並み痛打を浴びる。攻撃陣は申し訳程度の反抗すらできず、試合を終えた。生まれてはじめて体験する、ぐうの音もでない敗戦だった。わたしは勝利の女神なんかじゃなかったのだ。それなのに。

 これだけコテンパンにやられたら、逆にすっきりするよね、だって?

 僅差で負けるほうが、応えるよね、だって?

 何点取られて負けても、一敗は一敗、だって?

 キミら、いったい、なんなの? 

 ドアラのバク転が成功しようが、どうでもいい。

 オーロラビジョンに映ったとか、どうでもいい。

 松坂のユニホームが買えたとか、どうでもいい。

 負けたんだよ? わかってる? キミらドラゴンズファンじゃなかったの? 悔しくないの? やっぱ生観戦はいいよね〜って、ふざけてんの?

 チームもチームならファンもファンだよ! バカじゃん。ファンがそんなだからチームも弱いんだよ! 順位表見て、順位表。最下位だよ、最下位! ドラゴンズじゃないじゃん、ドベゴンズじゃん。めっっっっちゃくちゃよわいじゃん。へろへろじゃん。見所ひとつもなかったじゃん! こんなチームのどこがいいのさ!

 だいたいさぁ、藤原さん。あなたハルのなんなの。どういう関係なの。ふたりはどうやって知り合ったの。もしかして付き合ってたりするわけ? キミらの関係について、なにひとつ説明がないんだけど。

 いったい、どこがいいのよ。なにが好きなの。

 教えてよ。ハル、教えてよ。ねぇ。


 もうガマンできなかった。帰り道、ようやくハルとふたりきりになった瞬間、わたしは訊ねた。

 思いの丈をぶちまけたわたしに気圧されたハルは、「そうだなぁ…」と呟くばかりで、はっきりと答えようとしなかった。さすがに言い過ぎたかもしれないと、それ以上問いつめることもできず、黙って後ろをついて歩いた。空を見上げると、すっかり暗い。細長い月を囲むようにして、星がまばらに輝いている。

「なんでだろう。気づいたら好きになってたからなぁ……理由なんてわかんないな。好きなものは好きなだけ」

 振り向かずに、ハルは言った。

「確かに心の底で諦めちゃってるのかもしんない」

 そんなだから…そんなだから…

「ヘタレ!」

 月に向かって、わたしは吠えた。

 ハルは俯いたまま、ぼそりと呟いた。

「……だって。勝ち目、ゼロだから」

 頼りなく吐き出された言葉が夜道に落ちる。

「ヘタレ!」

 勢いをつけて、足元の石ころを蹴っ飛ばした。石ころは一直線に転がって、ハルのかかとに当たって跳ねた。立ち止まったハルはゆっくりと膝を折り、石ころを拾い上げる。そのまま手のひらを握り締めて、息を吐く。

「相手が悪すぎるよ」

「は?」

「ナツセンパイの彼氏さ、甲子園に出たことあるんだよ。すごくない?」

 振り向いたハルの横顔を街灯が照らした。すこし、頰がこけてみえた。

「ヘタレ!」

 わたしはずんずん歩いて、ハルを追い越した。



 次の日。登校中にバーン!と背中を叩かれた。驚いて振り返ると藤原さんだった。

「お姉ちゃんおはよ! 昨日はありがと!!」

 朝の光を浴びた白い瞳がきらきらと輝いている。見つめられるほどに、わたしの眉間の皺が深くなりそうだ。

「そうそう昨日からずっと思ってたんだけど」

 息がかかるくらいの距離まで瞳を寄せ、まじまじとわたしの顔を見つめると、


「そのふっとい眉毛、ほんっっとハルとそっくり!

 まさに姉弟ってかんじ!」


 笑いながらそう言って、藤原さんは走り去った。


 なんなのアンタ。

 ほんっとなんなの!



 今年の中日ドラゴンズも、年間通じてほとんどをBクラスで過ごした。

 最後の最後で落ちてきた阪神を交わし、かろうじて5位。勝ち数が負け数を上回ることは一度もなく、6年連続のBクラスでシーズンを終えた。シーズン初めは勝ち負けに一喜一憂していたハルも、夏頃になると負けても大して落ち込まなくなった。長年弱小チームのファンをやってると耐性がつく。

 はじめからあきらめちゃえば、傷つかない。

 信じなければ、裏切られない。

 期待しないように、気持ちに蓋をする。

 バッカみたい。

 負け犬根性が染み着いてるだけじゃん。

 本当に好きなら、なんとかしてみてよ。どんなに相手が強くても、どんなに勝ち目がなくたって、勝負は9回裏2アウトまで、わかんないんでしょ。



「姉ちゃんそれ」

「なに」

「口癖になってる。俺といっしょ」

「そんなことない」

「あるよ」

「ないってば」

「別にムキにならなくても」

「なってない!」


 わたし達は似ていない。

 わたしとハルは似ていない。

 姉弟になんか、見えないくらい。

 なにひとつ似ていない。

 だから、野球なんか好きじゃない。

 ぜんっっぜん、好きじゃない!


 好きじゃない好きじゃない。好きなわけない!


 部屋に戻り、カーテンを開けた。すっかり日は落ちて夜空に月が昇っている。目を瞑り、耳をすます。

 

 遠い夜空から、こだまが聞こえた。

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