【Ⅰ】PeaceⅣ「渓谷のつり橋」



 山間の木々の幹を抑えながら、ラインヴァルトと愛は黙々と山道を歩いていた。幸いなことに、愛に向けて新調された装備は、周囲の尖った木の枝やごつごつとした岩肌から、彼女の肌を守ってくれていた。


 「カジメグ、疲れてないか?ちょっと……もう少し歩くからな」


 「う、うん……」


疲れが見えてきたのか、呼吸が荒くなったのかは、定かではない。しかし、彼女の脈拍が早くなり、動悸(どうき)が激しくなって、息が苦しくなった。それと同時に、再び頭痛が襲い、彼女は動けなくなった。




 ――「メグミ、メグミ!聞こえますか?あなたが必要なのです!早く、早くして下さい。急いで悪王を倒し、聖杯を集めて下さい」――。


 度重なる、原因不明の幻聴と頭痛に、彼女はすっかり苛立ち、独り言は大きな声になっていた。


 「もう、誰なの?!あなた!私の身体から出て行って!!」


 ラインヴァルトは、急に取り乱す彼女を不思議に思い、心配していた。


 「お前、大丈夫か?いきなり叫んだり、立ち止まったりして」


 「なんか……一昨日の夜からうなされたり、幻聴が止まらないんだよ。私に『聖杯を集めなさい』とかなんとか」


 「聖杯……か」


 ラインヴァルトは少し考え込んでいた。愛はそんなラインヴァルトを不思議に思った。


 「……ん?知ってるの?考え込んだりして」


 「あ、いやー、なんでもない。いや、ただお前も慣れない事があって、疲れてるんだよ。……だよな」


 ラインヴァルトはお茶を濁していた。愛はもやもやしている気持ちが晴れないまま、ひたすら黙々と歩いた。そして、二人は「ガロの谷」まで来たのだった――。




 ガロの谷はとても険しく、谷底が見えなかった。ラインヴァルトはこの橋を利用して、昔は物品の運搬をしていたと話す。しかし山脈鉄道が発達して、すっかり徒歩での流通ルートは無くなってしまったらしい。何よりも、歩く道は危険だった。山賊やモンスター、気候の激しい変化によって、流通業を営む行商人達は何人も、この渓谷で命を落としてきたそうだ。


愛は深い谷の底を覗き込みながら、吹き抜ける風を肌で感じていた。そして恐怖心を身に感じていた。深い谷の真ん中には心もとない一本の長いつり橋が、渓谷の端と端を繋いでいた。それは、何度も何度も激しく吹きつける風に揺られながら、左右に上下にと、揺られていた。


 「……え?ここを渡るの?ライン」


 「もたもたしてる場合じゃない。さっさと渡ってくれ!」


 しかし、そう言っている間にも木々の間から聞こえる野太い声が聞こえてきた。どうやら、先ほどの山賊達が来たようだ。器用に山間の木々を走り抜けながら、ラインヴァルト達を探して来たのだ。


 「居たぞ!お前ら、逃がすな!!」


 「おう!!」




 ラインヴァルトは機転を利かせた。背負っていた大剣を横に振りかざし、何本かの木を切り倒すとバリケードを設置する形で、山から降りてきた山賊を足止めした。そして愛に言った。


 「悪い、カジメグ。ここでお別れだ。頑張って生き延びてくれ」


 「え?……何言ってんの?いきなり」


 「……俺もお前を守りながら、三人の連中を相手にする自信がないんだ。つり橋を渡り切ったら、お前に渡した短剣で縄を切り落して、つり橋を落としてくれ!」


 「だって、ライン、……そんなこと言ってたら、あなた死んじゃうよ!私も闘うよ?言ったよね?」


 「馬鹿野郎、早く行けよ!!あいつらが来ちまった!!」


 ラインヴァルトは力いっぱい、愛の背中を押し出した。愛がつり橋に乗ると、山賊に向かって大剣を構え直した。そして、愛は振り向かずにゆっくりと縄を掴みながら、怯えながら慎重に進んでいったのだった。




 「この小僧、邪魔しやがって!……ただじゃおかねぇぞ」


 「……ぶっ殺してやる」


 「やってみろよ。俺をただの傭兵だと思って見くびるなよ」


 二人の男と激しい打ち合いを始めたラインヴァルト。斧で切り掛かる男達の攻撃を、大剣を軽々と振り回しながら、いなしていく。しかし、背後には谷が広がり、徐々に追い詰められていた。三人のうち、一人の男は、愛を追って、愛がつり橋の中央まで歩いて来た辺りで、つり橋を慎重に渡り始めた。その距離は徐々に、徐々に詰まり始めていた――。




**


 「ねぇ、あんたのお兄さん、詐欺で捕まったんだって?じゃあさ、あなたも犯罪者の血が流れてるんだねー」


 「私達、波留(はる)と遊ぶのやめようかしら。今まで仲良くしてくれて、ほんっとうにありがとう!」


 「そんな……ひどいよ、みんな。今まで仲良くしてたのに」


 「私ぃー、犯罪者の妹とぉー、友達になった覚えなんてぇー、ありませぇーんっ!きゃはははは」


 波留と言う少女は、クラスメイトから陰湿ないじめに遭っていたようだ。暗い世の中で、一見どこにでもありそうな光景だった。実は、彼女の兄は「復讐のためにインサイダー取引と詐欺」をし、「警察に自首して」捕まったらしいのだ。そして残された家族だった妹と母は「犯罪者の家族と言うレッテル」を周囲の人間に貼られ、世間で肩身の狭い思いをしながら毎日を過ごしていたのだ。


 愛は、日々いじめに遭うクラスメイトに心を痛めながらずっと見ていた。波留に対して、日に日に陰湿化するいじめ。それを彼女は、傍観者でいることに耐え切れなくなっていた。


 「私はどうでもいいの!でもね、おにーちゃんの悪口だけは、絶対に言わないでよっ!」


 「気持ち悪い。ブラコンなんだね。しかも、口答えするんだぁ。悪い子はお仕置きしないと……ねっ!」


 女子グループのボス的存在が、波留に手を振り上げ、頬を叩こうとした。波留はその瞬間に目を瞑った。しかし愛は、振り上げられた女子の手首を掴んでいた。


 「やめろよ!あんた達!!弱いものいじめをしてて、惨(みじ)めにならないの?ねぇ!」


 「めぐちゃん……」


 「いこ、波留ちゃん」




 その日から、いじめのターゲットは、標的が波留から愛に変わった。執拗(しつよう)で陰湿な攻撃は、時にクラスの中で表面化していたのだが、担任の教師は臭い物に蓋をするように、それを黙認していた。そしてクラスはすっかりと腐敗していった。しかしそんな中で、波留と愛は心を許し合って、少しずつ親友と言えるほどの仲になっていった。


 「いい?波留。私が、例えどんなに知らない世界に行ったとしても、どんな事があっても、頑張って!胸張って強く生きて。何があっても負けないで!」


 愛は自分に言い聞かせるように、少女に繰り返し言っていた。何度も、何度も、何度も……。




**


 愛は冷や汗を滲ませながら、風と自分の体重に揺れるつり橋を慎重に渡っていた。思い返してみると、「私は、『あの時の困難』に比べたら、今している事は大した事じゃない」とそう思っていた。「大丈夫だ。私は出来る」と何度も愛は、自分に言い聞かせたのだった。


 「おい、待てよ、待てったら!逃げるんじゃねーよ!」


 山賊の男が愛に追いつこうと、罵倒を浴びせ、脅し、つり橋を揺らしながらじりじりと距離を詰めていた。しかし愛は真剣な表情で黙々と、つり橋を渡り続けた。男との距離は離れたり、近づいたりしていた。すっかり遠く離れてしまったラインヴァルトのいる「山脈側」からは、剣と斧が激しくぶつかり合う音が聞こえ、渓谷にこだましていた。つり橋の向こうは、霧が濃く立ち込めて見えなくなっていた。




 愛はやっとの思いでつり橋を渡り切った。そして、短剣を腰から抜き、縄を一本ずつ切り始める。山賊の男は、愛に言った。そして、急ぎ足になってつり橋を渡り切ろうと必死の抵抗をしたのだった。


 「お前、それ以上切ったら、ぶっ殺すぞ!」


 「やれるもんならやってみなさいよ!」


 彼女は心の中では、とても怖かったに違いない。しかし縄もあと一本になっていた。この縄を切ってしまえば、ラインヴァルトは渡って来れない。それは分かっていた。しかし躊躇(ちゅうちょ)していると、少しずつ山賊の男は近づいてくる。


 「ライン、ごめんね。ありがとう」


 そう言って、愛は涙を零(こぼ)しながら、最後の縄を切った。つり橋は激しい音を立てて、谷底に崩れ落ちていった。山賊の男は、罵倒と悲鳴を上げながら、谷底に真っ逆さまに落ちていった。


渓谷は霧が覆い隠して見えなくなっていた。ラインヴァルトは生きているだろうか?死んでいるのだろうか?それは分からない。ただ、彼女は「生きていて欲しい」と願い、そのまま涙を拭いて、顔を上げて、Ⅲ(ギーシャ)の国まで、黙々と歩いたのだった。

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