Chapter3
03
その奇妙な逢瀬は、次の日も、その次の日も行われた。私は昼休みになるとすぐに(あるいは昼休みが始まる前から)学校中のいろいろな場所に隠れようとしたが、不思議なことに彼女は毎回必ず私を見つけ出し、半ば強引に彼女の車へと連れて行った。そして彼女の車の中で私達は、私の知らない音楽を聴きながら他愛もない話をする。(話の内容の大半は、クラスの生徒達や教師たちについてのくだらない悪口だった)初めの数日間はただ彼女が一方的に話すのに相槌をうつこともままならなかったが、日を重ねるにつれて少しずつ、言葉が自ずとこぼれだすようになった。私は、運転席に座る彼女の横顔にちらりと目をやる。彼女は不思議だ。まさか自分が誰かとこうして話すようになるなんて、この十数年の人生で思ってもみなかった事だった。
「ね、ケイトもそう思うでしょ?」
ふいに彼女がこちらに顔を向けた。私の頭はその時どうにもぼんやりとしていて、彼女の言う事をよく聞いていなかった。目が合い、なぜか恥ずかしいところを見られたような気がして耳が熱くなるのを感じた。
「あ、え、えーっと、うん」
彼女が何を問いていたか曖昧であったが、適当にそう答えた。そして、その自らの無様なしゃべり方に嫌気がさす。何かを話そうとする時、まるで幽体離脱するかのように私の心は体から一歩離れたところで無様な私の様子を傍観している。そしてあまりに見苦しいその姿に顔を覆いたいような気持ちになる。たとえ少し言葉が出てくるようになったとは言え、普通の人間のそれにはほど遠い。私は先天的に人間に必要な社会能力が欠落しているのだ。少しだけでも話せるようになった事に思い上がっていても、いざ話してみると奈落の底に叩きつけられるような気分になった。なんて、無様な。私はなんて無様なのだろう。
「やっぱり、ケイトもそうおもうよね。分かってたけど」
彼女はそういって、クイズを正解した子供のように得意げに笑い、他愛もない話を続けた。彼女は、私がどれだけ挙動不審で無様で醜く振舞っても決して嫌な顔をせず、何も気にしていないように振舞う。不思議なことに、たったそれだけで自己嫌悪で石のようになった私の心は少しずつほぐれていくのだ。「もしかすると、本当に何も気にしていないのではないか」という思いが頭をよぎることすらあったが、私はすぐにそれを打ち消した。まだ、信じてはいけない。たった数日、少し話をしただけで心を許すなんて、私が17年間成し得なかったことがこんなに簡単に起こって良いはずは無いのだ。心を許せる人間は兄だけだと信じていたのだから。だけど実際、私は彼女と過ごす時間に奇妙な居心地の良さを感じていた。
(ああ、そうか)
私は再び彼女の横顔を見つめる。彼女の微笑みが、彼に重なる。彼女は、兄に似ているのかもしれない。この心の安らぎには覚えがあった。私と彼を映し出したあの湖面が心によぎる。彼女といると、私の欠点や過去が全て無かったことになった気がする。まるでこの車内は外界から隔離されたようで、私と彼女だけが存在するこの小さな世界で私は「不気味な子」でも「殺人犯の妹」でもなく、だたの人間としていられるような気がする。
決まって彼女は食後に一本のマリファナを吸う。車内に蔓延する煙が私をくらつかせる。幸いこのささやかな悪行はまだ教師たちに見つかっていない。
「ケイトも吸う?」
答えが分かりきっていても、彼女はいたずらっ子のような微笑みを浮かべて私にそう問う。
「いらないよ」
私は彼女の眼を見て、そう答えた。きっと今、私の顔には無様な微笑みが浮かんでいるのだろう。
教室へ戻るといつだって、生徒たちは私たちの姿を見てぎょっとした顔をした。そして私たちが席につくと、まるで私と話す機会を作らせないかのように彼らは絶えず彼女の周りを取り囲んだ。教室にいるあいだ、彼女は私に話しかけることはなかった。それはクラスメイト達が邪魔をするからなのか、彼女自身の意志なのかはわからない。彼女を取り囲む生徒たちの隙間から、横目で彼女の姿を見る。生徒達と話す彼女の顔には完璧な微笑みが浮かんでいるが、車の中の世界では彼女はもっと大口をあけて下品に笑う。どちらが本物の笑みなのか定かではないが、なんとなく、私はあの世界の彼女が本物なのではないかと思っていた。彼女はきっと、「あちら側」の人間ではない。きっと演技をしているのだ。なぜか私はそう感じていた。私も彼女のようにうまく顔を使い分けて演じることができれば、人に好かれたのだろうか。ふと、自分の服から仄かに煙とジャスミンが香った。彼女が教室で私に話しかけることがなくても私の心はあの灰色の世界に戻る事はなく、まるでいつまでも彼女の車の中の世界にいるような気がした。
「ねえ、あなたっていつもどうやって通学してるの?」
ふいに、彼女が質問した。ある日の昼休み、いつも通り彼女の車で昼食をとっている時だった。その日は夏の気配が遠のき始め、少し肌寒く、粒の小さい糸のような雨が車のフロントガラスを濡らしていた。
「あ、えっと…バス」
私がそう答えると、彼女はいかにも忌々しいというように顔をしかめた。彼女の表情は百面相のようにころころと変わる。
「うわ、バスって最悪!今日みたいな雨の日は特に。ジメジメして、混んでいて、変なにおいがするし。」
彼女の言う通り、私も雨の日のバスは好きになれなかった。いつもよりも人が多く、雑巾のような臭いがするし、他人の濡れた体や靴が触れる感じも気持ちが悪い。
「でも…私車をもっていないし、自転車で来るには少し遠いから……」
私がたどたどしくそう答えると、彼女は唇をまげ、指で小刻みにハンドルを叩きながら何かを考え込むようなそぶりをした。
「…よかったら、家まで送っていこうか?」
彼女の提案に私の心臓は小さく跳ねた。何と答えた良いか分からず、私は言葉を濁す。車内で話しながら昼食をとるというルーティーンにようやく慣れ始めたところに提案されたその新たな展開に、私は何となく気後れしていた。
「実は」
彼女の提案に動揺する私をちらりと見て、彼女は言葉をつづける。
「誰か一緒だとありがたいんだけど。雨の日の運転って不安だからさ」
そういった彼女の顔にはいつものいたずらっ子のような笑みが薄く浮かんでいる。きっとそれはただ、私に断らせないための口実に過ぎないのだろう。彼女は本当にそういう事が上手い。手のひらで転がされているような気分だ。しかたなく、私が首を縦に振ると、彼女は小さくガッツポーズをした。
放課後になると、私は車の前で彼女を待った。特に待ち合わせ場所を決めていたわけではないが、なんとなく教室よりもここで待つ方がいいと思った。少し遅れて駐車場へやってきた彼女を、数人の生徒たちが取り巻いていた。私はなぜか咄嗟に車の陰に隠れる。彼女は二言三言彼らと話した後、手を振って別れた。どうやら彼らは彼女と一緒に帰りたかったようだが、彼女はそれをやんわりと断ったらしい。そうだ、彼女と帰りたがる人など沢山いる。なぜ私なのだろう。ヒエラルキーに属すのが好きじゃなかったとしても、どの集団にも属さず、かつ私より面白い人たちだっていくらでもいる。なぜ彼女は、よりによって私を選んだのだろうか。この問いは、初めて彼女が私に話しかけたあの日からずっと、私の脳内を同道巡りしている。
彼女は車の陰に隠れた私を見つけると、うっすらと驚いた顔をしていた。
「なんで隠れてるの?探したのに。てっきり約束忘れたのかと思ったよ」
彼女はポケットから車のキーを取り出しながら言った。キーチェーンがジャラジャラと鳴る。
「…他の人がいたから。」
彼女は、隠れる必要なんかないのに、と笑った。
もはや見慣れた車の中に入ると、彼女はおもむろに後部座席に転がる義手を取り出した。彼女はいつも義足をはめているが、腕はむき出しのままだ。なので、義手をはめる姿は初めて見る。それは肌色のプラスチックかシリコンのような素材で作られていて、腕の根元にはハーネスが付いている。人工的な肌色は彼女の肌よりも濃く、指先は動くようには作られていないように見えた。
「運転をするには必要なのよ、これ」
何かを察したのか、彼女はおもむろに言った。
「どうして…いつもはつけていないの?」
「邪魔なの。足は歩くのに必要だけど、この手はそんなに器用に動かないし。それに、なんだか付け心地もよくなくて。蒸れるし」
そう言いながら、彼女はハーネスを服の上から回し、義手を装着していた。普段、彼女の欠損した腕には、痛々しい傷跡がむき出しになっている。しかし彼女はそれを隠そうとする素振りもない。人々は、じろじろと見てはいけないと思いながらも好奇心を抑えられないかのようにそれを盗み見ていた。私自身も例外ではなく、直視するのは気が引けたが、横目で見ることを止められなかった。その視線に彼女は気づいているはずだが、それでも平然としている。
義手をつけた彼女はエンジンをかける。車はずいぶんと古く、何度かキーをひねってようやく走りだした。それと同時に音楽が流れ始める。私は未だに歌手も曲名も知らないけれど、その音楽は耳になじみ始めていた。明るい曲調ではないが、重たくはない、彼女の吐く煙のように自由に揺蕩うような音楽だ。
彼女の性格からして、あまり運転は上手くないだろうと予想していたが、それは予想以上に荒い運転だった。かなりの速度をだしながら、信号の直前でブレーキを踏むので、そのたび体が前のめる。速度を落とすことなく曲がるので、そのたびに車中のペットボトルや紙くずが右へ左へ転がった。
「家はどこらへん?」
「あ、えっと、〇〇アベニューのあたり」
車から投げ出されやしないかとハラハラしながら答える。
「へえ、それなら結構私の家に近いよ!」
彼女は嬉しそうに言った。知らなかった。私たちはあまりプライベートなことを話したことがなかった。互いに、誕生日も、家族構成も、住んでいる場所も知らない。彼女にも家があり、家族がいるのだと思うと、当たり前の事のはずなのに不思議な感じがした。彼女とこの車の中にいると、まるで外の世界など存在しないように思えたのだ。
「そっか、近いのか。じゃあバスなんかで通うくらいなら、乗せて行こうか」
思わず、え、と聞き返す。予想外の申し出に動揺した。私は、この閉ざされた世界が展開して行くことに僅かな恐れに似た感情を覚え、臆病になっていた。私達は現状たかが数回昼食を共にしただけの関係だ。今ならまだ、いつだってあの灰色の世界に引き返すことができると思う。この関係がなくなっても、たいして気にせずに一瞬の幻だったと忘れることができる。だが、一緒に通学して、昼食を食べて、私の価値観が間違っていなければ、そんなのまるで「友達」ではないか。この17年間ずっと幽霊のように生きていた私に、そんな心構えが出来ていはずがないのだ。確かに彼女と過ごす時間にはある種のの居心地の良さを感じ始めているが、それ以上に強く、一人きりでいた頃には感じる必要の無かった緊張と自己嫌悪と羞恥心と劣等感に襲われるのも事実だ。私は疲れていた。彼女との関係を断ち、元の世界に戻ってしまえば私はこの疲労感から解放され、彼女も私よりずっとましな友人を見つけることができるだろう。しかし、この世界を手放すことを思うとなぜか胸の内側がむず痒く、もどかしい気持ちがした。
「あー、えっと。本気で言ってる?」
恐る恐る、彼女の意志を問う。冗談なら良いとすら思っていた。それならば、もう悩む必要がないからだ。
「え、本気だよ。どっちにしろ学校へ行く時通る道だし」
彼女は何てことでもない、というようにそう答えた。たとえ友人関係へと発展したとして、きっと彼女はすぐに私が嫌になる。それならその少しの間だけ身を任せてみるという選択肢もあるのかも知れない。何より、この場で彼女の誘いを断って、この穏やかな空気をぶち壊しにする勇気などなかった。私はむず痒い胸を抑え、ひとつ深呼吸をした。
「えっと、いくら払えばいいの?」
私がそう問うと、少し間をおいて彼女は大きな声で笑っ
た。また的外れなことを言ってしまったのだろうかと赤面する。
「じゃあ、今一杯コーヒーをおごってよ」
「それだけ?」
「実は今、もう死にそうなくらいコーヒーが飲みたいの。本当に死にそう。だからその一杯のコーヒーには一生分の価値があるってわけ」
「なにそれ、めちゃくちゃだよ」
私は思わず笑うと彼女も笑った。
彼女は、私が馬鹿なことを言うと、それ以上に馬鹿なことを言う。私を傷つけないようにするためなのか、無意識に言っているのかはわからないが、これが私が居心地の良さを感じている一因なのかもしれない。結局、私の明確な答えを待たずして、車は乱暴に角を曲がり、近くのコーヒーショップで雑に止まった。その店はバスで通りかかるため、見覚えがある。この町はバスや車で中心地へ出ればそれなりに栄えているが、学校や私の家の辺りは退屈な住宅ばかりが並んでいるため、唯一のこの店は若者たちのたまり場になっていることは噂に聞いていた。しかし私は学校が終われば直ぐに家に向かうし、家族で外出することもないので、このような店に入ったことは殆どない。
やけに重く感じる扉をあけて店に入ると、店内で高校生くらいの若者やや、パソコンを開いた大人が集っていた。場の空気に圧倒される私をよそに、彼女は躊躇せず注文カウンターへ歩いて行く。私はただ隠れるように彼女の後ろについた。カウンターのメニューには、黒板に手書きの字でフラペチーノやらラテやら書かれているが、それが何を指しているのか私には全く分からない。まるで知らない言葉で書かれた本を見た時のように、目が回るような気がした。そもそも私はコーヒーを飲む習慣すらないのだ。
「アイスモカをショートで」
彼女は迷わず店員にそう告げると私の顔を見た。何もわからず目を回している私に気を遣ったのか、同じのにする?と尋ね私が頷くと、店員に2つで、と付け加えた。プラスチックのカップに入れられたコーヒーを受け取ると、店の隅の席についた。てっきり車の中で飲むものと思っていたので少し焦る。この店の空気はあまりにも私には不相応に思え、随分と緊張していたのだ。コーヒーを一口のむと、見た目よりもずっと苦く、思わず顔をしかめる。
「オッケー、あなたがコーヒーが好きじゃないことは今よく分かったわ」
彼女は笑いながら言った。
「好きじゃないというか、あまり飲まないから」
恥ずかしいところを見られてしまった、と顔が熱くなる。私は彼女を子供っぽいと思っただろうか。私は彼女とあまりにも違う。タバコも吸わないし、音楽も聴かないし、車も運転できないし、コーヒーも飲めない。大人へのプロセスを知ることがないまま、体だけが育ってしまったように感じる。ちょっと待ってね、と言って彼女は席を立つと、カウンターわきの棚へ向かった。するとこの機会を待っていたかのように、彼女の方へ数人の男女が近づく。彼らの顔には見覚えがあった。名前など憶えているはずもないが、たしか同じ学年の人たちだと思う。きっと彼らもこの喫茶店でたむろしていたところ、彼女を見つけて思わず話しかけたのだろう。彼女はごく自然に表情をあの偽物の笑みに切り替えて、彼らと話し始めた。何を言っているのか聞こえないが、きっと彼らの席へ誘っているのだろう。彼らにとって、これは彼女と親しくなる絶好のチャンスに違いない。彼女がこちらを指さす。彼らの視線はその指を追って私にたどり着く。その瞬間ギョッとしたように揃って目を見開き、そそくさと視線を彼女に戻すと彼女に何かを耳打ちをした。きっと私の事を言っているのだろう。私は手元のコーヒーを見つめた。結露したプラスチックカップに幾筋もの水滴が垂れた。陰口など気にしたことなどなかったはずなのに、今はとてもその内容が気がかりだった。兄についてだろうか、それとも私の醜さや無様さについてなのだろうか。彼女はもう私が嫌になっただろうか。胸の内側がむず痒くなる。
席へ戻った彼女の手にはガムシロップが握られていた。
「ほら、これを入れたらどう?甘くしたら飲めるかもよ。私も最初は甘いコーヒーしか飲めたなったけど、いつの間にかブラックが好きになったんだよね」
これが大人になるってことなのかな、と軽く笑いながら彼女はコーヒーを一口すすった。
「ねえ、あの人たち何を言ってたの」
私は彼女に目を合わせることができないまま、カップから滴り落ちた水滴がテーブルを濡らして行く様を見つめてきた。私の声はいつも以上に弱々しく、店内の音楽にかき消されてしまいそうだった。
「うん、なんだかバカみたいなことを言っていたよ。呪われるんだって、あなたといると。私びっくりしちゃったよ。この21世紀に呪いを信じる十代がいる?」
彼女はあっけらかんとそう言って、許可を取ることもなく、私のコーヒーにシロップを入れる。私はただその器用な手元をじっと見ることしかできない。
「もし彼らが言うことが事実だったら…?私があなたを「呪う」としたら?」
えー、マジで、と彼女はカラカラと笑った。その声が私の耳の中で転がる。私が何も言えずにいると、しばらくの間を置いて彼女は言葉を続けた。
「うん、まあでも、それはそれでアリなんじゃない?何かしたくても何もしようとしない人達よりも、人を呪える力がある人間のほうがよっぽど面白いとおもうけど。少なくとも私にとってはね」
そこで私はようやく顔を上げる。恐る恐る彼女の顔を伺う。彼女のヘーゼルの瞳が微笑みで歪んでいる。彼らの前でみせるのとは違う、私だけに向けられる笑顔だ。不思議とその瞳に映った私の姿はそれほど醜くないように思えた。
「人を呪える友達なんて、初めてだよ」
友達、彼女はそういった。私は彼女の友達。それはつまり、彼女は私の友達。友達ができた。私に、友達ができた。
彼女はシロップをいくつもいれたコーヒーのストローを私の口元へ押し付ける。されるがまま、私はそれを一口すする。
「これ、さすがに甘すぎるよ」
「そう?」
私たちは笑った。私の心の湖は今、このコーヒーで満ちている。友達、という言葉に蕩けていく心の奥底で、隠れた苦みがザワザワと波打っている。私はそれに気づかないふりをした。
彼女は約束通り私を家の前まで送り届けると、明日迎えに来る時間を告げて去っていった。
彼女の姿が見えなくなっても、私を友達と呼んだその彼声が、まだ鮮明に耳の中に残っていた。私は頭の中で、何度もそれを繰り返しては、胸を温かい気持ちでいっぱいにした。
家の中はいつも薄暗く、先程までの賑やかさが幻であったかのように静まり返っていた。
「おかえり、ケイト。あれはいったい誰?」
灯のともらないキッチンから音もなく姿を現したのは母だった。雑に束ねられた髪は乾ききっていて、目の周りには深いシワが刻まれた彼女は年齢以上に老けて見える。
「…学校の人」
彼女はそれ以上返事をすることもなく、ゆっくりと音もなく暗がりの中へ戻って行った。この家の住人は私と母の二人だけだ。兄の事件の後、兄は刑務所へ入り、両親は離婚した。それ以来父とは連絡を取っていない。私と母の間にも会話はほとんどない。母は、生活のために職を掛け持ちしていて、疲れ切っていた。彼女が必死に稼いだ金で私は無為に学校に通っていると思うと申し訳ない気持ちはあったが、高校を辞めて働くと提案した際は、それは絶対に許さないと一蹴された。せめて高校を出ないとろくな仕事に就けないから、と。しかし、高校を出たところで、社会不適合な殺人犯の妹である私がろくな仕事に就けるはずがないことはわかりきっている。だが私はそれ以上反抗することはなかった。母は私とあまり話をしたがらない。私が幼い頃からそうだった。可愛げがなく、不気味な私を愛せなかったのだろう。その代わり、私の分まで兄を可愛がっていた。だからこそ、彼が事件を起こして、愛せない娘だけが残された現実は彼らにとってあまりにも辛いものだということは私にもわかる。きっと、いなくなったのが彼ではなく私だったらよかったと何万回も思ったことだろう。愛されなかったことを責めてはいない。それは私のせいだから。私は両親を不憫に思っている。いっそ、私のことなど捨てて、忘れてしまえばいいのに。解放されて、また新しい人生を始めてくれれば私も心が楽になるのに。だけど母が私を捨てることができないのは、かろうじて残った私への愛情なのか、それとも世間を気にしてなのかはわからない。
私はそれ以上母と話をすることはせず、二階の自室へ向かった。私の頭の中は、ペインのことでいっぱいだった。「明日、8時に迎えに来るから」彼女はそういった。明日を待ち遠しく思う夜が来るなんて、数日前の私は知りもしなかった。ああ、友達ができた。週末になったら、刑務所の兄に電話をかけよう。話したいことがたくさんある。兄はきっと喜んでくれるだろうな。そんなことを考えながら、私は永い永い夜をやり過ごした。
その晩、私は夢を見た。
壁も、家具も、全てが真っ赤に染められた部屋があった。見覚えのない部屋だ。それは、撮影のセットのように一室だけが切り取られて暗闇の中に浮かんでいる。私は暗闇の中にいて、遠くにその部屋を見ている。何もかもが赤いその部屋で唯一の白が浮かんでいる。彼女だ。ペインの背中だ。彼女は私に背を向けている。
私は彼女の方へ歩み寄ろうとするが、いくら歩けどもちっとも先へ進むことができない。私が進んでいないのか、その部屋が遠ざかっているのかわからない。立ち止まって目を凝らすと、彼女の背中になにかが蠢いているのが見える。
それは、血にまみれた翼だった。
Creep 里吉 芙蓉 @satoyoshihuyou
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