Chapter2
02
兄が私の前を去った日に動くことをやめてしまった私の心を、たった一瞬視線を交わしただけの彼女がめちゃくちゃにした。もしも再び彼女を目にしたら、私の心はどうなってしまうのだろうかと恐ろしかった。もう二度と会うことが無ければ良いと祈っていた。そして、たった一度の不思議な出来事として、いつの日か忘れてしまえればいい。胸の中を鷲掴みにされるようなあの不気味な感覚を味わうくらいなら、灰色の単調な日々に戻るほうがずっとましだと思えた。しかし、その期待はいとたやすく打ち砕かれるのであった。
「どうも、ペインです。フロリダから越してきました」
黒板の前に立った彼女はややぶっきらぼうにそう言った。その翌朝、教室に姿を現した少女は、まぎれもなく彼女だった。再び出会ってしまった。こんなにもあっというまに。しかし、私の不安とは裏腹に、彼女を再び目の前にして、昨日の圧倒的な混乱が嘘かのよう私の心は静まっていた。とはいえ落ち着いているというわけでもなく、私の頭はまるで夢をみているかのようにただぼうっとしている。昨日は気が付かなったが、彼女は片腕だけではなく、反対側の足も膝から欠損している。彼女の欠損した腕よりもいっそう痛々しく大きな傷跡があらわになっていて、義足をはめているが、服で隠すことはせず、鉄のステムがむき出しになっていた。教室の空気がこわばるのを感じる。彼女の姿を見た生徒たちが一斉にはっと息をのむような声さえ聞こえるような気がした。なんて痛々しい姿なんだろう、なぜ手足がないんだ、彼女の身に一体があったんだろう。どうやって彼女と接せばいいんだろう。彼らの頭の中はそんな疑問が矢継ぎ早に生まれているのだろう。そして同時に彼らの瞳には、珍しい生き物を初めてみる時のような不気味な好奇心がギラギラと光っていた。
「はは、みんなびっくりしているみたいだけど、よろしくね」
教室の緊張感を察したのか、彼女は柔らかく笑ってそういった。その笑い方は兄に少し似ていると思った。人を惹きつけるような無邪気でチャーミングな笑い方だ。その瞬間、教室の空気がほぐれるのを感じる。絞められていた首が解放されたかのように、彼らは安堵のため息をつき、緊張が解けた反動で小さな笑みさえ浮かんでいた。すぐに分かった。彼女は人に好かれる。すぐにこの学校中の人気者になるだろう。美しく、社交的で、陰に悲劇を秘めた転校生。その全ての要素は彼らの大好物だから。サナギが華々しい蝶になるためには十分な養分をもった彼女は、すぐに彼らの食い物になる。彼女は私とは違う、「テレビの向こう側」の人間だ。
私は昨日の光景を思い出す。彼女は私を見て微笑んでいた。それは先ほどの軽やかな笑み違い、もっと湿度を帯びたもののように感じた。だけど、彼女もすぐに私のことが「見えなく」なる。そう思うと、胸の芯が次第に冷えていき、いつも通りの灰色の感覚が少しずつ戻ってくる感じがする。
「それでは、一番奥の、空いている席に座ってもらおうか」
そう言って教師が指したのは、よりによって私の隣の席であった。彼女と目線がぶつかる。私はあわてて目をそらした。大丈夫、大丈夫、彼女はすぐに私が見えなくなる。そう自分に言い聞かせる。彼女がこちらへ歩いてくる。何人かの生徒たちが、立ち上がって体の不自由な彼女を介助しようと申し出るが、彼女は笑顔でそれを制した。彼女が席に着いた。私は決して彼女の姿を見ないようにうつむいているが、それでも彼女のがこちらを見ているのを感じた。廊下で出会った時と同じように、彼女の視線は夏の日差しのように熱い。視線に温度などあるはずがないのに、それは実際に熱を帯びているかのように私の肌に焼き付くようだ。私は彼女の視線を無視しようと決めていたが、彼女は決してあきらめる気配はない。耐えかねた私はおそるおそる彼女のほうに向かって眼球を動かす。
視線がぶつかる。
微笑みで細く歪んだ彼女の瞳はヘーゼル色。
灰色に戻ろうとしていた私の心の底で再び地響きが聞こえる。私は囚われたように、もう二度とこの瞳から目を離すことはできないような気がした。
「よろしくね」
彼女は私に向かってそういった。その瞬間、ざわついていた教室が一挙に静まり返り、溶けかけた教室の空気が再び凍り付く。彼女が幽霊に話しかけてしまった!
授業が終わると、彼女の周りはすぐに人だかりになった。まず話しかけたのは、生徒会の優等生たち。そしてそれを押しのけるように、チア部やアメフト部の男女が囲む。
「何か手伝いが必要?なんでも言ってね?校内を案内しようか?」
「連絡先を教えてよ」
「フロリダはどうだった?」
「素敵な髪色だね」
「お手洗いは大丈夫?」
「カフェテリアにつれていこうか」
彼女が返事をする間もないほど、彼らは矢継ぎ早に彼女に話しかけた。興味深々という感じで、鼻息が荒くなっているのを隠しきれていない。彼女に親切にするふりをして、どんな悲劇が美しい彼女をこんな姿にしたのか、それを誰よりも早く聞き出したそうと必死になっているのが伝わってくる。まるで餌にむらがるハエのようにブンブンと煩い。嫌気がさして、私はすぐに席を立つ。自意識過剰のようで自分でも嫌になるが、教室を去る私を彼女が目で追っているのを感じる。私はそれを無視して、教室を抜け出す。
彼女の視線から逃れた途端、緊張から一気に解放される。身体が軽くなったようにさえ感じた。昼休みの学校は、教室も、廊下も人でごった返している。彼らはいろいろな場所で昼食をとる。そしてその場所は必ずしもランダムではなく、基本的は彼らの所属するコミュニティに因る。あるものはカフェテリアで部活の仲間たちと、あるものはベンチで読書仲間と、あるものはトイレの中で一人きり。
私にも私の場所がある。
校舎裏に面した外階段は誰も寄り付かない不思議な場所だ。というより、私がいつもここにいるから、誰も寄り付かないのかもしれない。腰を下ろし、ランチボックスを開ける。私は、心を落ち着かせようと自分に言い聞かせる。あの混乱は一過性のものに過ぎないはずだ。もしかすると、昨日彼女が私に微笑みかけ、声をかけたせいで、私は何か特別なものを感じてしまったのかもしれない。だけど彼女はすっかり「あちら側」の人間だということが分かって、安心したというか、心が少しずつ冷めていくのを感じている。きっと彼女は恐ろしいほど気安く、世間知らずなのだ。だから私のことを知らずに声をかけてしまったに違いない。だけど今頃彼らが私について教えているはず。そうすればすぐに彼女も私が「見えなく」なる。手のひらには、昨晩できた小さな傷が残っていた。多分、この傷が癒えるころには、私の心もすっかり落ち着いているだろう。穏やかな風が私の髪を揺らした。この場所は、日が当たらずいつもじめじめとしてて、通り抜ける風は土の香りがする。決して居心地のよい環境ではないが、静かで、暗くて、私にはぴったりの場所だと思う。
錆びた音を立てて、外階段と校舎をつなぐ扉がふいに開かれる。そこから出てきた人影を見て私はぎょっとした。
「こんなところにいたんだ」
彼女の赤い髪を風が揺らした。信じられない。どうしてこの女はいつも、私の希望と反するタイミングで私の前に現れるのだろう。いやがらせだろうか。私を揺さぶって楽しんでいるのだろうか。私の正体を知って、嫌な目に合わせようとしているつもりだろうか。だけど、それならこんな風にからかうような真似はせず、もっと憎しみを込めた方法をとるはず。ようやく穏やかになったはずの私の頭の中が、いよいよ混乱し始めた。
「みんなうるさくてうんざりしちゃった。誰が私とランチをたべるかって、みんなで引っ張りあい。まるで新しいおもちゃを奪い合う幼稚園児みたい!嫌になって、こっそり逃げだしちゃった。きっとみんな私を探してるね」
彼女は一息に吐き出すようにそう言って、いたずらっ子のようにクスクスと笑った。
なんと答えたらいいか分からないまま、挙動不審になる私をよそに彼女はしゃべり続ける。
「あなた、昨日廊下にいた人でしょ?名前は?」
「…………」
彼女の問いかけに対し、私はどうすればいいか全くわからなかった。答えるべきか否か、それ以前に、答えようとしても、喉に何かが詰まっているかのように、弱弱しい空気がひりだされるだけだった。
気まずい沈黙は私に嫌な汗をかかせた。ただひたすら、一刻も早く彼女が去ってくれることを祈った。
「…ケイトでしょ。知ってるよ。皆が教えてくれたから。ねえ、ケイト、私、ランチを車に忘れてきちゃったみたい。さすがにこの階段を一人で降りるのは難しいから、迷惑じゃなければ手を貸してくれる?」
嫌だ、と言えればよかった。すぐにでも彼女とのコミュニケーションを終わらせたかった。しかし、断る勇気があるはずもなく、断るための声すら絞り出すことができない。彼女は、私の答えを待つかのように、じっと私を見下ろしている。
何も言うことも出来ない私には選択肢などなく、仕方なく立ち上がり、彼女の側に立つ。どう手を貸せばいいか分からず、棒立ちになる私を見て、彼女は私の手をとると、それを彼女自身の腰に回した。
「こうして支えてくれればいいから。オーケー?」
抗うことも出来ず、されるがまま私は彼女の腰を支える。手から彼女の肉感が伝わる。彼女の腰はとても細いが、私のようにひ弱な細さではない。彼女は体重の半分を私に任せながら、ゆっくりと階段を下っていく。彼女が体を動かすたびに、筋肉が動いているのが伝わってくる。彼女の髪から、ジャスミンのような香りがただよってくる。心がすこしずつザワつき始める。昨晩のような感覚がまた襲ってくるのではないかと、不安になる。彼女の体を支えるのはそう簡単なことではなく、運動不足の私にはちょっとした重労働に感じた。
少しでもバランスを崩したら二人して階段を転げ落ちてしまうような気がして、緊張した。私の体はすっかり汗ばんでいたて、心拍数も呼吸も上がっていた。私は私の汗のにおいや呼吸の音が彼女に伝わってしまうことが無性に恐ろしく感じた。ようやく階段を降りきると、彼女は私に軽くありがとうと言い、駐車場の彼女の車へ向かっていった。私は安堵した。無事に階段を降りることができたことはもちろんだが、何より彼女とのコミュニケーションを終えられたことがうれしかった。本当に、これが最後だ。彼女はもうきっと私が嫌になったはず。胸をなでおろし、またあの陰気な場所に戻ろうと階段に足をかける。
「ねえ、せっかくだしおいでよ。いいものあげるから」
背後から彼女の声がして、ギクリとする。まだ終わっていなかった。恐る恐る振り向くと、彼女はにやにやと笑いながら手招きしている。頼むから放っておいてくれ、と心の中で強く祈ったが、誘い断る勇気もなく、うつむきながら彼女の後をついていった。
彼女は車のドアを開けると「入って」と言った。扉を閉めると、昼休みの喧騒から隔離されて、息が詰まるような静寂に包まれた。夏の日差しに焼かれた車内は茹だるように熱く、かすかなマリファナのにおいと、それを消すための香水なのか、ジャスミンのような香りがした。彼女はエンジンをかけると、エアコンと音楽をつけた。ようやく気まずい静寂から解放される。小さな音でかかる音楽は、いまのヒットチューンなのだろうか。私は音楽も聴かないし、テレビも見ないのでそういうことにはとんと疎い。彼女は後部座先においてある紙袋をとると、ガサガサとスナックを取り出し、食べ始めた。
後部座先には、義手が無造作に転がっている。運転する際につけるのだろうか。
「それで、なんであなたは昨日廊下にいたの?あれって授業中だったよね?」
「…」
「授業がつまらなくて、サボったの?意外とパンクね」
私が答えずとも、初めから知っていたかのように彼女は言い当てた。
「それで、教師は怒らないの?」
彼女の問いかけに対し、私はうつむきながら小さく首を振った。
「サボり放題ってわけ?うらやましい!」
私は何も言うことができず、ただうつむく。なぜ私はこんなところにいるのだろう、と現実感がなかった。まるでまだ夢の中にいるように頭の中がフワフワとしている。
「クラスの奴らも言っていたけど、どうしてあなたってそんな風に扱われているわけ?これっていじめ?」
やはり、彼らはもうすでに私について話していたらしい。当然だ。「あちら側」のヒロインになる彼女が、幽霊に話しかけていいはずがない。彼らは私が教室を去ってすぐに、必死になって伝えたのだろう。その光景は容易に想像できた。…だけど、もう知っているのにどうして彼女は私に話しかけたのだろう。
「…どう…て話し…るの」
自分の喉から声がこぼれだし、ハっとして手で口を覆う。彼女と話したいはずがないのに、自分の意志より早く、口が動いてしまった。彼女に聞こえてしまっただろうか、と恐る恐る眼球を彼女に向ける。案の定、彼女はきょとんとした顔で私を見ていた。そしてその表情はすぐに微笑みに代わる。
「ごめん、せっかく話してくれたのに。エアコンの音がうるさくて。もう一回言ってくれる?」
彼女は私の顔を見つめながら、じっと私の言葉を待っている。しかたなく、喉につっかえているものを吐き出すように深呼吸をする。
「…どうして、私に…話しかけるの。私のこと…知っているのに…」
声が震えるのを堪えながら、私は一言一言吐き出すように言った。
彼女はおどけるように肩をすくめる。
「別にどうでもいいもん。あなたが人を殺したわけでもないし」
「………」
「人を殺した」という言葉がチクリと胸に刺さる。面と向かって私にその言葉を投げかけられるのはずいぶんと久々のことだった。
「あの人たち、うるさいよ。私からいろいろ聞き出そうとしているみたいだけど、そういうの好きじゃないんだよね。でもあなたはそういうタイプには見えなかったからさ」
そもそも、あなたに関わるつもりもないし、声を出すことすらできなかった、とは言えなかった。
「あなたにも、私にも、秘密がある。人間、秘密のひとつやふたつあったほうがおもしろいでしょ」
「………そう」
私のことを「どうでもいい」と一蹴したのは、本心かどうかわからないが、正直少し小気味よく感じた。彼女はもしかすると「あちら側」の人間ではないのかもしれない。でも、まだわからない。もしかすると、本当は彼らが彼女に近づこうとするように、彼女も私の中身を詮索しようとしているだけかもしれない。そしてある日私を打ちのめす気かもしれない。まだわからない。信用してはいけない。…だけど今この瞬間、私の心の中は不思議と少しだけ清々しいような気がした。
彼女はランチの入っていた紙袋を乱暴に丸め、コンソールボックスから何かを取り出した。
「いる?」
彼女が差し出したのは、巻いたマリファナだった。
「…もしかして…これが"いいもの"?」
「そうだよ!」
「……はは…」
思わず笑いがこぼれ、自分でも驚く。私がマリファナなどに手を出すタイプではないのことは見てわかるはずなのに、こんなもので私を釣ろうとしたのかと思うとおかしかった。彼女の感覚は、かなり世間とずれているようだ。それにしても、誰かと話して笑うなんて、久しぶりのことだった。…兄がいなくなってからは、初めてかもしれない。
「あっ、笑った!」
彼女がのぞき込むように私の顔を見て、一緒に笑い始める。
「いらない?」
私は首を横に振る。先ほどまでと違い、不思議と今度はすんなり彼女の提案を断ることができた。彼女はからからと笑った。
「学校で吸うなんて無謀だ、とでも言いたそうな顔だね。だけど私は気にしないの。今が楽しければ何でもいいから」
彼女はそういうと、巻いた一本に火をつけ、椅子に深くもたれて深く一口吸い込んだ。パチパチと、草が燃える音が聞こえる。
「……あなたこそ…パンク」
「ははっ!言うね!」
彼女が笑い声と共に吐き出した煙の独特な匂いが広がる。
煙は車中に蔓延し、視界がほんのりと霞がかる。この副流煙は私に影響するのだろうか、と疑問に思った。少なくとも、匂いは私の服や髪に染みつくだろう。だけど、たとえ私からこの匂いがしても、誰も咎めたりはしないんだろうな、と思った。もしかすると、彼女の言う通り、ラッキーな立場なのかもしれない。
「大丈夫、あとで匂い消しの香水かしたげるから」
私の意図を汲んだのか、彼女はそう言った。香水とは、あのジャスミンの香りのことだろうか。その香水をつけたとき、私は彼女と同じように香るのだろうか。そんなことを考えながら、私はただ彼女が吸い終わるのを待っていた。
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