Chapter1
01
「高校生活は地獄のようだ」
そんな言葉は今となってはありふれたもので、彼らは息を吐くようにそう言う。課題やテスト、嫌な教師の存在、友人とのいざこざ、そんな些細な要素のすべてが、彼らの高校生活を地獄たらしめる。私にとっての学生生活は地獄というほどのものではないが、もちろん天国のように良いわけでもない。私にとってここは、天国にも、地獄にすら行くことを許されぬような、単調で灰色の世界。高校なんて所詮は同じ年頃の人間が集団になってたった数年過ごすだけの場所だ。長い人生からしてみればほんの瞬きのような期間に過ぎないはなのに、彼らは心の底から毎日を天国だと舞い上がり、地獄だと嘆き苦しみながら暮らしている。毎日いたる場所で色恋や友情にまつわる事件が起こり続け、昨日泣いていたと思えば、今日は笑っている。天国と地獄を行ったり来たりしている。絶えまなく湧き上がるエネルギーの全てを一瞬にに惜しみなく費やしている。私はこの17年間の人生で、一度もこの世界を天国だ地獄だと感じられたことがなかった。何も感じることもなくただ単調に暮らす私と比べると、彼らの一瞬の濃度は、私の人生の10年あっても足りないのではないかと思える程だ。私はよく兄の言葉を思い出し、想像する。彼らの心の湖はきっと色とりどりの水で満ちて、絶えず立つ波に夏の日差しがきらめいているのだろう。 私と彼らは、あまりにも違っている。まるで、彼らはテレビの中にいて、私だけがその外にいるように感じる。彼らの世界は私の生きる世界と別の場所にあって、私が彼らと話すことはできないように、彼らにも私の姿は見えない。彼らの青春ドラマは、私の存在など意識することもなく続いている。
それはあながちただの例え話というわけではない。 実際彼らは言葉通り私を「見えてい」ないようにふるまっている。誰も私に話しかけない。私と目を合わせることもしない。生徒だけではなく、大人達も同じように振る舞う。朝の点呼の際も、教師は私の名前を呼ばない。もちろん授業中に指されることもない。例えば私が今この教室で大声で叫んだとしても、誰も聞こえていないかのように授業は続くだろう。まるで、最初から私がその場所に存在していなかったかのように。黒板の前で中年の男性教諭が、生徒たちが書いたレポートを冗談交じりに講評している。この教師はよくつまらない冗談を言う。 生徒たちに好かれようと必死なのが伝わるが、いつも空回りしている。教師の冗談に苦笑いをする生徒や、授業に耳を貸すこともなく机の下でゲームに夢中になる生徒、小声でクラスメートの悪口をささやきあう生徒達。いつもと同じ授業風景。教室の中は色とりどりのエネルギーに満ちていて騒々しい。私にとっては授業など、受けようが受けまいがどうだっていいものだった。教師にも存在を無視されている以上、まともに授業など受けられる筈もない。課題を提出しなかったとしても、教師は適当な点数をつけてくれるのは知っていた。彼らは私との間に問題を抱えたくないから。彼らが私を見えないふりをするのも、結局は私と関わって「何か」が起こることを恐れているせいなのだから。それに、たとえこのような境遇にめげずに授業を受け、成績を上げたところで、私にはまともな将来などないことはわかりきっている。
私は教室を見回す。彼らはサナギのようだと思う。この学校という殻をエネルギーで満たし、いつか蝶になる日を夢見ている。私には彼らのように、希望に満ちた将来を夢見ることはできなかった。私の人生は、この刺激のない灰色の世界がまるで永久回廊のように続いているだけ。私はもうこの生活に飽き飽きしていた。
私は唐突に席を立った。椅子を引く音が響いたが、誰も私に目を留めることはなかった。生徒達の間を縫うように出口へ向かい、教師の前を横切って教室を出る。授業の最中であろうが、誰も私を引き止めない。 教師ですらそれを注意しない。目さえも留めない。 これが私の学校生活。まるで幽霊になったようだ。 私はこの感覚にすっかり慣れ切っていたし、もう何も感じない。結局この人生は永久回廊のように続くのなら、感情など持つだけ無駄だと思っていた。傷ついてもこの世界を変えることはできない。だから私は、目的も感情もなく、この世界をただ漂っているだけの存在になったのだ。私の中の泉は、彼らのように満ちてはいない。枯れかかって、濁ってひどい匂いがする汚い水がかろうじて残っているだけ。もういっそ、枯れてしまえばいいのに。
休み時間は騒々しい声ににあふれかえるこの廊下も、この時間は静まり返っている。 窓の外から夏の激しい日差しが差し込んで、ピカピカに磨かれた廊下に反射している。どこかで読みかけの本の続きでも読もう。私には趣味といえる程のものはなかった。何かを楽しめるような感情の豊かさも、気力もすっかりなくなってしまった。読書は習慣となっているが、これも決して好きでやっているわけではない。 話し相手もおらず、することもなく、幽霊としての毎日はあまりにも単調で、何かしないと、本当にこのまま体が消えてしまいそうな気がする。私の体をこの世界にを引き留めるために身に着けたのがこの読書という習慣だった。けれど、今となっては、もう消えてしまっても良いと思い始めている。 天国にも地獄にも行けないのであれば、パソコンをシャットダウンするように消えてしまえれば良い。しかし、いくら望んだところで、私の体は消えてはくれない。いっそこの人生を終わらせてしまおうかと思った事もある。しかし、死んだところで私は天国にも地獄にも行けないだろう。きっと私の魂は、何もない空間に、永遠に漂い続けるのだ。それが恐ろしく、私は半ば惰性のように身体をこの世界に引き留めている。
錆びたロッカーを開け、鞄と本を取り出すと、一枚の紙切れがひらひらと落ちた。ため息をつき、私はそれを拾い上げる。
「人殺し」
足元に落ちたその紙には油性ペンでその言葉が殴り書かれていた。その紙は新聞記事の切り抜きだった。読むまでもなく、その記事が兄について書かれたものだと私は知っていた。マーカーで書かれたその乱暴な文字から、怒りと憎しみを感じる。生徒の誰かが私の眼を盗んでこっそりロッカーに差し込んだのだろう。私は幽霊ではない。 彼らには私の姿が見えている。無視をしていたって、ちゃんと見えている。それどころか、本当は誰よりも私を意識している。それでもまるで見えていないようなふりをするのは、私を恐れているから。
私の兄は彼が14歳の時に3人の人間を殺した。それは当時大きなニュースになった。彼の手口は残虐で血なまぐさく、人々の注目を集めた。彼の人柄や生い立ち、彼の育った環境、家族や友達、その何が「怪物」を生み出したのか。瞬く間に世間はありもしない噂話でもちきりになった。兄が刑務所へ連れていかれてからしばらくの間、私の家族は困難な生活を送った。人々は私たちを追いかけまわし、取り囲み、汚い言葉で罵った。手を上げようとする人もいた。何度引っ越してもすぐに見つかり、家には何度も石を投げ込まれた。学校に通えば教科書を破かれたり、机に「人殺し」と刻まれたり……鞄を燃やされたこともあった。だけど今となってはせいぜい、匿名の誰かがこっそりこういうことを仕掛けるだけ。それは事件から月日が経つにつれて、人々の関心がほかの事件に移っていったせいなのだろうか。いや、違う。この匿名の手紙からはまだ、あの頃と変わらない切実な憎しみが伝わってくる。彼らはあの頃私を取り囲んで罵った人々と同じように、ただ彼らが私をどれほど憎んでいるか訴えたくてしかたない。まるで、あふれだし決壊した憎しみの行き場を探すように。今、あの頃違うのは彼らは決して直接的な手段を用いないということだ。どんなに血気が盛んな人達でさえ、私の周りに近づこうとしない。彼らがその憎しみの赴くまま、私を壊してしまうのは簡単なことだ。ただ暴力をふるってしまえばいい。私の肉体は平均より脆弱だ。彼らに殴られたら、私は簡単に粉々になるだろう。けど彼らはそうしない。
「呪い」のようだと陰で彼らは言う。あの事件から年月が経つにつれて、私の顔はどんどん兄に似ていった。まるで生き写しのように。幼いころはそれほど似ていなかったはずなのに、今はまるで鏡を見ているかのように不気味なほどあの頃の彼に似ている。たしかに、これは何かの呪いのようだと私でも思うほどだ。まるで生霊にとりつかれたかのように。 だから彼らは私を恐れている。私の姿に兄を見ているから。 私の姿を見ているだけで、あの事件の凄惨な光景が浮かぶのだろうか。まるでその想像の痛みが現実になってしまうように思うのだろうか。
私はグシャグシャと乱暴に紙を丸め、ゴミ箱に放り投げてると、何もなかったように歩き出す。もはや、この程度で私を傷つけることはできない。感情を忘れてしまえば、傷つくことはない。だから私は全ての感情を箱に閉じ込めて、地中深くに埋めてしまった。彼らの激しい憎しみですら届くことがないほど深くに。 もう誰もその箱を開けることはできない。
そのはずだった。
すくなくとも、この瞬間までは。
ふと、視線を感じる。
視線など、もう慣れっこのはずだった。 この数年間、いつだって誰かの視線を感じ続けている。いつも誰かが「凶悪殺人犯の妹」である私を監視する視線が針のように私の背中をつついていた。だけど、いざ私と目があえば、彼らは怯えたように目をそらす。 誰も、「幽霊」と目を合わせてはいけない。目があえば呪われるから。自分も残虐に殺されるかもしれないから。彼らの視線から、まるでその痛みを実際に感じているかのような恐怖心が伝わる。しかし、今感じている視線はそれとは全く違う。私は不思議な感覚を覚える。 彼らの視線がまるで針のようなら、今感じるこの視線はまるで焼け付く真夏の日差しのようだ。いつもとは違う、何か特別なもののように感じた。思わず立ち止まり、あたりを見まわす。人影のない廊下にはいくつもの教室が並んでいる。その部屋の一つ。窓越しに少女と視線がぶつかる。その部屋は校長室だった。彼女の両親と思しき大人たちが、校長と何か話していている。熱心な様子の両親をよそに、彼女はこちらを見ている。その表情は、驚いているようにも、不思議がっているようにも見える。きっと私も同じような顔をして彼女を見ていたのかもしれない。彼女は、決して私から目をそらすことはしなかった。まるで磁石に吸い寄せられるかのように、私の眼も彼女から引きはがすことができない。それは実際のほんの一瞬の出来事に過ぎなかったのかもしれない。けど私はその一瞬がまるで止まった時計のように、永遠のように感じた。なぜ彼女は私を見ているのだろう。 なぜ私は彼女から目が離せないのだろう。 胸の中で風船が膨らんでいくかのように、息が詰まっていく感じがする。
唐突に時計が動き始める。 彼女が、私に微笑みかけた。
まるで電が走ったように、全身の毛が一気に立ち上がるような感覚がした。彼女が、私に微笑みかけている。それだけのことなのに、何かが私をひどく混乱させている。まるで何もかも見透かすような瞳が微笑みに歪んでいる。心の奥にざわざわと波が立ち始めるのを感じた。そして私はようやく、彼女の身体欠損に気づく。彼女の左頭、ひじから先がすっかりとなくなっていて、内臓のようなピンク色のケロイドがむき出しになっている。体中の血液が一気に沸騰したように熱くなる。身体が、何か圧倒的な感情に支配されているのを感じる。
動揺し、反射的に目をそらす。なぜかわからないが、これ以上彼女を見ていたら、まるで卒倒してしまいそうな気がした。頭が徐々に思考回路を失っていく。枯れかかった心の中の湖の底から地響きのような音が聞こえる気がした。地中深くから、得体の知れない力が、圧倒的な力で地面を揺さぶっている。枯れかかった水がザワザワと動き始める。彼女はきっとまだ私を見ているのだろう。彼女の視線が熱を帯びているかのように、私の肌をジリジリ焼いているような気さえした。私の中をかき乱すような感覚に耐え切れず、私は逃げるように廊下を走り去った。
その夜は一睡もすることができなかった。私はひどく混乱していた。心がざわついて、落ち着かない。ただ、一人の少女と目があったというだけの出来事なのに、何が私をこれほど混乱させているのだろうか。彼女の片腕がなかったから?腕がない人などいままで何人も見たことがあるが、こんな感覚を覚えたことはなかった。あの少女は、私を憎む人々よりも強い力で私の心を掘り返し、奥深くに埋まった感情に触れようとしている。髪をかきむしり、体を何度も揺さぶる。 彼女の微笑みが、まるで私の眼球に焼き付いたかのように離れなかった。彼女はいったい誰だ。 おそらく、学校では見たことがない顔だと思う。見たら忘れるはずがない。体がずっと熱い。心の湖が渦を巻いているのを感じる。相変わらず、私はこの気持ちをうまく言葉に整理することができない。小さな虫が何匹も体をはい回っているかのような感覚。何かを求めて、体が動き出そうとしていのを、心が必死に止めているかのような感覚。目に見えない何かが私を激しく揺さぶっているような、突き動かされているような感じ。 衝動…衝動だ。この感覚を言葉にするなら、「衝動」が近いかもしれない。けれど、私にはそれが何の衝動なのか、私が何を求めているのかわからない。彼女が同じ高校のの生徒だとしたら、また彼女の姿を見るかもしれない。その時、私はどうなってしまうのだろうか。生まれて初めて感じるような、心をかき乱される圧倒的な混乱に私は恐怖を感じていた。今すぐ叫びだしたいような気がした。腹の底から叫び声が込みあがっていくのを感じ、私は必死にそれを飲み下す。その瞬間、体に力が入り、手をきつく握る。爪が肉を裂き、手のひらから一筋の血が流れ落ちた。
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