Creep

里吉 芙蓉

prologue

内気で、不気味で、つまらない。私という人間を説明するなら、その三つの単語で十分だろう。

 私はいつだって兄の後ろに隠れているような子供だった。人と関わるのが好きではなかった。好きではない、というよりただ恐ろしかった。思っていることをうまく言葉できなかった。私の心の中を例えるなら、筆を洗うコップがちょうどいい。コップの中で何色もの絵の具が渦を巻いて混ざり合っていているその水を何色と形容すればいいかわからないように、心にあふれる感情の境界線はあいまいで、それを的確に表現することができなかった。どうして、ほかの人間たちはそれをたやすくやってのけるのか不思議でならなかった。精一杯感じている事をを表現しようとしても、人々は私が適切な言葉を見つけるのを待ってはくれず、すぐにかわいげの無い子だと私を非難した。

 幼稚園や小学校に行っても、子供たちは私に寄り付こうとしなかった。それくらいの年頃になれば、彼らの中にもある程度の「普通」という基準が作られている。幼いなりに私が「普通」ではないことを感じ取ることができたのだろう。自分たちと違う私がまるで違う生き物のか何かのようで、怖かったのかもしれない。初めは傷ついていた。不器用でも、私なりに精一杯にやっているつもりだったから。だけどいくら傷ついたところで、それを彼らに伝えることすら出来ないのだと気づいた私は、いっそもうこのまま「不気味な子」のまま生きていこうと思った。人と関わることをあきらめてしまえば、私はこの曖昧な心の中身を表現する必要もなくなる。私はもう傷つくことに疲れてしまったのだ。

 そんな私にも、唯一心を開ける人がいた。それは兄だった。彼だけが私の友達だった。兄は私と正反対の、明るく人気者の少年だった。彼の周りにはいつだって人が絶えない。彼は賢く、人を笑わせるのが得意で、誰でも彼のことが好きになった。同じ親からこうも違う兄妹が生まれるものか、と大人たちはよく言っていた。私だってそう思う。もしかすると彼は私の分までエネルギーを吸い取って生まれてしまったのかもしれない。両親の愛情も兄に偏っていた。彼らが兄を可愛がれば可愛がっただけの、あるいはそれ以上の愛情を兄は彼らに示し返すことができる。私にはそれができなかった。両親は私に愛想をつかしていたのだと思う。

 とはいえ私は決して彼を妬むことはなかった。それは兄が誰よりも私に優しくしてくれたから。両親の代わりに私を愛してくれたから。彼は、彼を囲むどんな友人たちよりも私を優先してくれた。大人たちの代わりに私を可愛いと言い、頭をなでてくれる。彼はどんなに私が不器用でうまくものが言えなかったとしても、決して嫌な顔をせずに私を待ってくれた。私が話すことを喜んでくれた。彼の前でだけ、私は自然に笑うことができる。彼のそばにいる間だけ、私は確かにこの世界に存在することを許されているような気がした。

 私たちはよく手をつないで色々な場所を散歩した。私よりもふた回り大きい彼の手は、未熟で柔らかい私の手を守るようにすっぽりと包み込む。両親は私をどこかへ連れて行こうとしなかった。せっかく連れて行ったところで、表情の変わらない私はつまらなそうに見えたのだろう。「連れてきた甲斐がない」とよく言っていた。もちろん私は楽しんでいたつもりだったが、それを彼らにうまく伝えることができなかったのだ。その代わり兄はいろいろなところへ連れて行ってくれた。映画館、公園、ゲームセンター、どこへ行っても彼と一緒なら楽しかった。たとえ楽しい、ということを表現できなくても、「言わなくたって、君が感じていることはわかる」と言ってくれた。その言葉は嘘ではないのだと思う。私たちは、言葉を介さずともお互いの気持ちがわかるような気がした。お互いの眼を見ると、まるで心の中の様子が自ずと浮かんでくるようだった。

 中でも、私たちの一番のお気に入りは、近所の大きな公園の湖だった。その公園はまるで森のように木々が鬱蒼としているが、ずっと奥まで歩くとその森は途端に開け、大きな湖が現れる。その湖のあたりでは私たち以外の人間を見かけたことはなく、周りの世界と切り離されたように静かな場所だった。夏は青空を、冬には枯れた木々を、波一つ立つことのない穏やかなその湖は、鏡のように季節の表情を映し出した。それを覗き込むと、私と兄の姿だけがぽっかりと浮かび、まるで額縁に囲われた二人きりの世界のようだった。

「ケイト。人の心の中には湖があるんだ。僕の心の中にも、君の心の中にも。喜びや、悲しみ、怒りや愛情、いろいろなものが混ざって満たしている。ケイト、君は決してその湖を枯らしてはいけないよ」

彼はこの湖に私を連れていく度にその話をした。私はあまりにも幼く、彼の言うことはよく理解できなかった。それでも彼は優しく私に語りかけた。それはまるで私に大切な宝石を授けるかのように穏やかで丁寧で、だから私は彼の話を聞くのが好きだった。その瞬間はいつだって私は特別な存在であるかのように感じられた。私の湖や彼の湖はどんな形をしているのだろう。何色の水がそれを満たしているのだろうかと想像した。

 だけど、今となって思えば私はきっと彼の心など少しも理解できていなかったのだろう。

2人で過ごしたあの瞬間が、湖の額縁に切り取られた世界のように永遠に続いていたならよかった。その世界は静かで、私たちを傷つけるものは何もなかったはずなのに。


その湖の名前はもう忘れてしまった。

公園がどこにあったのかも思い出せない。

私は数年後、その街を去った。

兄は私の前からいなくなった。


あれから、私の頭の中はいつも霞がかっている。

陰気で、不気味で、つまらないまま大きくなった私の心の中の湖は枯れかかっている。

ねえ、おにいちゃん。

どうしたら湖は満ちるの。

あなたがいなくなって、私はどうやって生きていけばいい。

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