ショートショート
長良 エイト
私には不思議な能力がある。
朝起きるといつも通り妻の入れたコーヒーを飲む。妻との他愛もない会話を少し煩わしく思いながら出勤の支度をする。息子を幼稚園に送る妻よりも先に家を出て、最寄の駅から満員電車に揺られる。限られた空間に限界を超えた人間の数、少しは減らないものだろうか。
電車を降りると会社までもうすぐだ。会社まで近づくにつれ、嫌な上司の顔が浮かび憂鬱な気分になる。しかし私には心を穏やかに保ってくれるある秘密があった。
『私には人を存在ごと殺せる不思議な能力がある。使った事はまだ無い』
使った事はなくとも、確かにそんな能力を持っていると断言できる。
例えばあなたはリズムに合わせて自分のお尻を叩きながらどんぐりころころを歌えるだろうか? 当然できるはずだ。しかし実際にやった事は無いのではないだろうか。それと同じである。私にとってこの能力は試した事がなくとも疑う余地のないものだ。
この能力を使おうと思った事もあったような気はする。しかしいざとなればいつでも使えると思うだけで私の心は平安を取り戻す事ができた。何しろ存在ごと殺せるのだから、殺人の証拠どころか被害者の存在すらない。当然罪に問われる事もない。こんな切り札を持っているのだから日常の大抵の問題は些細な事だと思えてしまう。
それにしても今日の上司は虫の居所が悪かったのか、いつにも増して長い説教だった。理不尽な理由での説教は流石にストレスが溜まる。
業務を終え、家に帰る。そういえば今週末は可愛い息子の誕生日だ。家族三人でどこかに出かけようか。そんな事を考えながら眠りについた。
朝起きるといつも通りコーヒーを入れて飲む。その後出勤の支度をして家を出る。電車に乗り込み、空いている席を見付けて座る。
しばらくして電車を降りると会社までもうすぐだ。会社まで近づくにつれ、今日も一日頑張ろうと思えてくる。
こんな風に前向きな気持ちでいられるのは、きっとあの能力のおかげだろう。
『私には人を存在ごと殺せる不思議な能力がある。使った事はまだ無い』
業務を終えて帰路につく。道中、実家の母親から電話がかかってきた。
母は父——当人から見れば夫——からのDVに悩まされている。大好きな母に手を挙げる父には私ももう我慢の限界だ。この週末には様子を見に実家に帰ろう。
『私には人を存在ごと殺せる不思議な能力がある。使った事はまだ無い』
ショートショート 長良 エイト @sakuto-3910
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