第5話-04 追いついてくる過去

 心音が鳴り響く。喉がからからになる。何が起きたのか理解したくなくて、僕は変わり果てていく彼の顔を見つめていた。


「従矢、くん……」


 やっとのことで名前を口にすると、彼は肥大化してしまった眼球をぐるりと動かして僕を睨みつけてきた。

 咄嗟に腰の刀に手をやった。だけど指が震えてしまっていてそれを抜き払うことはできない。そのまま従矢だった鬼は腕を振り上げ、僕の頭にたたきつけようと――


「ぐっ……」


 ガギン、と鈍い音が響き、訪れるはずだった痛みは刃によって受け止められていた。その刃を頭上に構えた犬崎は、そのまま踏み込んで鬼を大きく切りつけた。


「せぁあああ!」


 右腕がほとんど使い物にならなくなった鬼はバランスを崩して倒れ込みそうになる。犬崎はそんな鬼の胴体に足をかけ、無防備になった首へと刀の切っ先を押し込んだ。

 鬼の口から血のあぶくがあふれ出す。地面に倒れて痙攣する鬼の首を、犬崎は一刀の内に切り捨てた。


「無事か、外彦くん」


 顔に付着した返り血をそのままに、犬崎はこちらに歩み寄ってくる。魔食刀は従矢の血で真っ赤に濡れて、ぽたぽたと滴を地面に垂らしている。


「う、あ……」


 なんで、なんでこんなことに。ついさっきまで普通に僕と喋っていたっていうのに。

 彼の血だまりは広がっていき、僕は腰を抜かしてそれから後ずさろうとした。


「しっかりしろ」


 頭上から冷たい声が降ってくる。僕は従矢を見つめていた目を、犬崎へと向けた。


「職務を果たせ! 君は鬼切だろう!」


 大声での叱咤に正気に戻れないまま、ただ流されるように僕は震える腕を持ち上げ、道の奥を指さした。


「三ブロック先を右に曲がった病院で貰った薬を飲んだら――」

「そうか。よくやった」


 僕の言葉を聞き終わらないまま、犬崎と彼についてきていた班員は僕の指さした方向へと駆けだした。


「まっ……!」


 慌てて追いすがろうとしたが、へたりこんでしまった体は簡単に動かすことはできなかった。

 数分かけてようやく立ち上がった僕は、ふらつきながら病院へと向かっていった。すでに病院の周囲は鬼切に囲まれており、野次馬を押し退けてなんとか中に入ると、一人の女性が床に倒れているのが目に入った。


「従矢くんのお母さん……?」


 彼女の胴体からはおびただしい血が流れ、腹は裂かれて内側にいたであろう赤子が肥大化した姿でその隣に落ちていた。


「なんで……」


 震える声で呟きながら一歩後ずさる。背後で犬崎班の副官、桂坂の声が淡々と響いた。


「危険な服用者だったので処分しました」


 振り返ると桂坂は何を考えているのか分からない冷たい視線を犬崎に向けていた。


「これ以上の被害を広げるわけにはいきませんから」


 犬崎はその視線を受け止め、ほんの一瞬言葉を切った後、事務的な言葉を返した。


「そうか。報告ご苦労」


 僕はそんな彼らに怯えの目を向けてしまっていた。

 何を言っているんだ、この人たちは。だって彼らは何の非もない一般人だっていうのに。それを切り捨てて何も思わないだなんて。


「たいちょー」


 病院の奥から現れた向井堂は、へらへらと笑いながらとある人物を拘束しながら歩み寄ってきた。


「こいつはどうしましょう?」


 従矢に薬を渡した医者だ。犬崎は羽交い締めにされている彼に、律儀にも手帳を掲げてみせた。


「遠羽一樹。あなたには重大な嫌疑がかけられています。ご同行を」


 遠羽は口の端をひきつらせた後、顔を俯かせて声を上げて笑い出した。


「ハッ、ハハッ!」


 何がおかしいのか。従矢くんたちを間接的に殺しておいて、どうして笑っていられるんだ。

 憎しみを込めて彼を睨みつけていると、遠羽は急に顔を上げ、僕たちをあざ笑いはじめた。 


「馬鹿め、私を拘束するだと!? 私はただの人間だぞ! この街の上層部にも私は見逃されている! 鬼切や警察ごときでこの私が裁けるものか!」


 じわじわとその主張の意味するところを理解し、僕はぎゅっと両手の拳を握りしめる。

 こいつが、こんなやつのせいで二人は!

 怒りに震える僕の隣で、犬崎は冷静な目で彼を見下ろしながら問う。


「証拠と情報は押さえたな」

「はい、隊長」


 犬崎の背後に控えていた桂坂が軽く頭を下げて答える。その答えだけで犬崎は十分だった。


「……沼御前」


 ぽつりと呟かれた名前。その単語は室内にやけに大きく響き、僕は足下が水面のように波うつのを感じた。


「食っていいぞ」


 遠羽をまっすぐに見据えたまま、犬崎は言う。向井堂は遠羽を解放して突き飛ばした。しかし自由の身となった彼の足下はまるで泥に足を取られたかのように沈みはじめていた。

 いくら暴れても、遠羽の体はずぶずぶと泥の中へと沈んでいく。太股まで沈んだあたりで危機感に襲われたのか、遠羽は声を張り上げた。


「な、何をする! こんなことをして許されるとでも……」

「沼御前は正式には鬼切の支配下にはない」


 どぷん、と。一気に彼は腰まで沼に沈む。彼は手をばたばたと動かしてなんとかそこから逃れようとした。


「沼御前は鬼切ですら切れない貴様のような輩を食う「ただの都市伝説」だ」


 沼は彼の胸まで達し、遠羽の顔に恐怖が張り付く。


「貴様が誰であろうとそれは変わらない」


 あっという間に肩まで沈んでしまい、遠羽は酷い声で命乞いをはじめた。助けて、悪かった、助けてくれ。耳障りなその声に顔をしかめる。

 犬崎は冷え冷えとした声で言った。


「故に死ね。生ける都市伝説の餌となるがいい」


 その宣告が聞こえていたのかは分からない。遠羽の頭は波打った沼の中へと消えていった。


「ごちそうさま」


 いつの間にか部屋の隅に立っていた沼御前がうれしそうに呟いた。






 薄暗い空の下、ブルーシートがかけられた担架が病院から運び出されていく。その上に乗せられたのは、変わり果てた一般市民の遺体だ。

 僕はそれを手伝うこともできず、呆然と立ち尽くしていた。

 どうすればよかったのか。助けることもできたんじゃないか。僕がもっとうまく立ち回っていれば。

 ぐるぐると回る思考を途切れさせたのは、聞き覚えのある女性の声だった。


「あなたたちはそれでいいんですか」


 担架を運んでいた班員たちが揃ってそちらを向き、刀に手を置く。


「なぜこんなに惨いことを許せるんですか」


 向かいのビルの屋上に立っていたのは、コートをまとった笑鬼――歌歌だった。


「もっといい方法があったはずです! もっと幸せに終わる方法があったはずです! なぜそれを選ばなかったんですか! なぜ!」


 笑鬼としてのしゃべり方に取り繕うことをせず、歌歌は叫ぶ。きっとそれは、間違いなく本音から来る言葉で。

 泣きそうになってしまうのを必死でこらえていると、そんな僕の前に犬崎は歩み出てきた。


「なるほど、お前の言い分は分かった」


 腰に吊った刀へと手をやり、あっさりと引き抜く。それが、かつての仲間相手であったとしても。


「だがそれでお前が秩序を乱してもいいという理由にはならない」


 犬崎は刀を体の前に斜めに構え、屋根の上の彼女に宣告した。


「討ち取らせてもらうぞ、笑鬼」





 笑鬼と犬崎が交戦で去り、僕はその後ろ姿を呆然と見つめることしかできなかった。

 笑鬼に図星をつかれた衝撃と、見知った人物を救うことができなかった罪悪感で押しつぶされてしまいそうだ。

 しゃがみ込んで泣きじゃくってしまいそうになるのを意地だけでなんとかこらえて、唇を噛む。そんな僕に、追いついてきた降姫は寄り添おうとした。


「外彦くん、大丈夫……?」


 いつも通り心配そうにのぞき込んでくる彼女の顔が、今では無責任のもののように見え、僕は彼女を振り払ってしまった。


「降姫には分からないよっ……!」


 言ってしまってから、自分がしたのがただの八つ当たりだと気づき、僕は振り向いて彼女に謝ろうとした。

 しかしその時、彼女の後ろからねっとりと絡みつくかのような男の声が響いた。





「ああ、やっと見つけました」





 声の主は、道の奥からかつかつと踵を鳴らしながら近づいてきた。スーツ姿に、黒髪を後ろに撫でつけた、長身の彼は。






「りんとう、まさたか――」





 震える声で彼の名を呼ぶ。彼は心底嬉しそうに僕たちに微笑んだ。


「ええ、その通りです。さあ帰りましょう、降姫様」

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