第4話-03 ジョロウグモの目的

 犬崎と別れ、警戒しながら霧煙る路地を進んで行く。相手は音ひとつ立てずに狼藉を働く犯罪者だ。それを追うのならどんな些細な手がかりでも見逃すわけにはいけない。

 些細な物音にも気を配って慎重に歩く。霧がいつもよりも濃いからなのか、不思議と誰ともすれ違うことはない。僕は一度振り返り、ゆっくり前に向き直ると見覚えのある光景の中に放り出されていた。



 月のない夜に、目玉だけがぎらぎらと輝いていた。

 闇の中から浮かび上がってくるのは、無数の目玉を持った黒の瘴気だ。討伐部隊がそれに応戦し、それを引き寄せた降姫は外彦に守られる形で後方へと下がっている。


「降姫、僕から離れないで」


 少女はこくりと頷く。外彦は退魔の刀を構えて、その鬼――百目鬼どめきを睨みつけていた。

 討伐部隊は押し寄せる目玉どもを次々に切り払い、百目鬼は悲鳴を上げてその姿を縮めていく。無限かとも思われた目玉の奔流は、今や数えるほどしかない。

 このまま押し切れる。確信してしまったのが一瞬の隙を作ったのだろう。百目鬼は討伐部隊の間を抜け、外彦の横を通り過ぎて、背後に守られていた降姫へと襲い掛かった。


「うっ……」

「降姫!」


 霧は一瞬で降姫の全身を覆い、外彦は刀を放り出して降姫へと駆け寄った。徐々に黒い霧は晴れ、降姫の体は外彦の腕の中に崩れ落ちる。


「ふ、降姫……」


 外彦の震え声が響き、降姫は自分の顔に手をやる。そこには、顔面に浮かび上がった鬼欠片と――あり得ない場所に増えてしまった二対の目があった。






 一度、瞬きをする間にその光景は消え去り、僕の前には白く煙る暗都の風景が戻ってくる。僕は目元に手をやってうつむいた。

 そうだ、降姫はこうやって呪われたんだった。こんなに大切なことどうして忘れていたんだろう。覚えていなければ再び降姫の呪いを肩代わりすることもできないのに。

 思案に暮れながらぎゅっと閉じた瞼を再び開く。その時、しわがれた声が脳裏に響いた。


「こっちだ、だ」


 声のしたほうを振り向く。そこには何もなかったが、その声には聞き覚えがあった。


「蛤様?」


 ぽつりと名前を呼ぶ。すると地面が揺れたかのような音が響き、僕の体は自然とそちらへと歩き始めてしまった。

 最初の数秒は抵抗しようとした。しかしすぐにその意志はねじ伏せられ、僕はふらふらと蛤様に呼ばれるままに白く煙った道を進んでいってしまった。

 やがてたどり着いたのは、つい昨日訪れたばかりの巨大な薬屋の前だった。霧が立ちこめているというのに、吊された提灯によってぼんやりと店中が照らされ、店内にいる鬼たちも忙しなく動き回っているのが見えた。

 ただ一つ違うのは、店の外に暗都警察が陣取っているということだけだ。警察官たちは僕に胡乱な目を向けてきた。

 警察と鬼切は仲が悪いのだ。自分たちがいる場所に一人だけ鬼切が紛れ込んでいるのだからその反応も当然のことだろう。

 そんな僕を救ったのは、軽い声色の男性だった。


「やあ、外彦くん! こんなところでどうしたの?」

「ひぇっ」


 突然顔をのぞき込んできた雲上に、小さく悲鳴を上げてしまう。雲上はくっくっと楽しそうに笑った。


「そんなに緊張しないでいいって。確かに警察は鬼切が嫌いだけど、君のような子供をいじめるような連中じゃないからさ」


 子供、という言葉にカチンときて、僕は雲上を睨みつける。彼はその視線の意味にすぐに気づいたのか、ごめんごめん、とへらへら笑いながら僕の後ろへと目をやった。


「今日は降姫は――」


 雲上は視線を泳がせて降姫を探しているようだった。僕はまだむすっとしながら、雲上に答えた。


「本部で留守番してもらってます。いくらなんでも危ないお仕事についてきてもらうわけにはいかないので」

「……そっか。それもそうだね!」


 黒い靄に浮かぶ目を細め、雲上は笑う。僕はそれ以上からかわれたくなくて、彼の言葉を遮って尋ねた。


「雲上さんたちはどうしてここに?」


 しゅるりと音を立てて、雲上は顔を実体化させる。そして顎に指を置いて、首を傾げてみせた。


「んーそうだね」


 わざとらしいその仕草につられて、僕も首を傾げる。相変わらずサイズが合っていない帽子がずれた。


「警察の大規模作戦だよ。鬼切が放り出したブローカー残党の後始末を警察がしようとしてるんだ」


 意外とあっさり、雲上は自分たちの目的を話した。そんなに普通に喋ってしまってもいいのかとこちらが心配になってしまい、僕は困惑の表情を浮かべてしまう。


「君はどうしてここに?」


 そんな僕の困惑を無視して、雲上は改めて僕に尋ねかえしてくる。僕は釈然としないものを感じながらもそれに答えた。


「ええと、笑鬼の捜索をしてたんですけど……蛤様に呼ばれた気がして」


 曖昧な表現だったが雲上にはできたらしい。彼は僕の肩の上に肘を乗せると、ふぅんとか言いながら体重をかけてきた。


「なるほど。蛤様、君のことが気に入っちゃったのかもね」


 ちょっと体勢を崩しかけて、僕は彼を睨みつける。雲上はごめんごめんと言いながら僕から離れていった。


「ほら、案内してあげるよ。中に入るんだろう?」


 僕の手を取って店内に連れていこうとする雲上に、僕は何度も後ろを振り向きながら抵抗した。


「で、でも僕、任務に戻らないと……」

「闇雲に探すより有力な情報が得られるかもよ?」


 それもそうかもしれない。

 僕は丸め込まれたような気がしながらも納得し、手を引かれるままに店の奥へと連れていかれた。

 機嫌がよさそうに歩いていく雲上の後ろ姿は、やはり若者のように見え、僕はつい浮かんだ疑問を彼にぶつけてしまっていた。


「あの、雲上さん」

「何かな、外彦くん」

「犬崎さんを拾ったのって、雲上さんなんですよね?」


 雲上は足を止めることはなく、しばしの沈黙が僕たちの間に落ちる。雲上は「うーん」と考えこみ、振り向かないまま答えた。


「単純に面白そうな子だと思ってね」

「面白そう?」


 何がそう思わせているのか分からず、僕はつんのめりそうになりながら眉根を寄せる。


「あれだけ強い鬼に魅入られているっていうのに、まだ人間の価値観に縛られてるのって面白くてさ」


 それは、鬼としての意見のように思えた。とても他人事で傲慢な意見だ。犬崎に対して失礼なのではと苦言を呈そうとしたその時、急に雲上は振り返り、僕の額をとんっと突いてきた。


「まあでも、今は君に興味津々だよ」


 おでこを押さえて彼を見る。彼はにまにまと何を考えているのか分からない笑みを浮かべて僕を観察しているようだった。その眼差しを向けられるとどうにも居心地が悪くなってしまい、僕は視線を斜め下へと逸らした。


「ほら、この先が蛤様の部屋だよ」


 雲上は僕の手を引き寄せてベールのかかった部屋の前へと押し出した。僕はそのまま進もうとし――ふと気づいて彼に向き直った。


「あの、雲上さん!」

「なぁに、外彦くん?」

「案内してくれて、ありがとうございました」


 ぺこりと頭を下げる。すると雲上は虚を突かれた顔をした後、いつもの飄々とした笑顔ではなく照れくさそうな笑みを浮かべて僕の頭の上に手を置いた。


「いい子だねえ君は」


 帽子の上から髪の毛をかき乱され、僕はそれを振り払って思い切り敵意を込めて雲上を睨みつけた。雲上はそれを笑顔で受け止め、そのまま手をひらひら振りながら僕に背を向けて去っていった。

 行き場をなくした怒りをなんとか飲み込み、僕はベールの部屋へと向き直った。

 一歩、踏み出す。再び過去の光景に飲まれるのではないかと緊張しながら、また一歩踏み出す。しかし今回はベールに幻覚を見せられることなく、僕は蛤様の部屋へとたどり着くことができた。


「ええと、昨日ぶりです」


 玉座の上に置かれた蛤様に、僕はどう接したらいいのか分からずに一礼する。すると、蛤様からしゃがれた声が聞こえてきた。


「そう、構えなくても、いい、い」


 言葉に従って顔を上げる。そこにはやはり、微動だにしない大ぶりの貝の姿しかなかった。


「ジョロウグモ」


 突然、蛤様は切り出した。ジョロウグモ。たしかそれは、ブローカーの元締めとして会議で挙げられていた名前だったはずだ。


「知りたくない、か、か?」


 何を教えてくれるのか、うまく理解はできていない。だけど、きっとこれは鬼切にとって有力な情報になるはずだ。僕は大きく頷いた。


「ここは、鬼の、ための街だ、だ」


 暗都は鬼のための街。今まで僕は鬼になりかけている人間の街だと思っていたけれど、それは違うらしい。真剣な目で見つめていると、蛤様はわずかに殻をふるわせたようだった。


「だが、ここに閉じこめられていると、と、考えている、連中も、いる、る。ジ、ジョロウグモの目的は、は、それだ」


 ゆっくりとその言葉を飲み込み、僕は蛤様に尋ねかえした。


「ジョロウグモの目的は、街を脱出すること……?」


 沈黙は肯定だったように思えた。蛤様は殻を閉じて開き、言葉を続けた。


「彼らの、首魁は、蜘蛛乃神くものかみと呼ばれて、いる、る」

「くものかみ……」


 文字通り、ジョロウグモの神様という意味だろう。蛤様は一度そこで言葉を切り、三十秒ほど経った後再び口を開いた。


「気をつけ、ろ、ろ。お前を追う、もの、も、近いうちに、現れる」


 急に話題を変えた蛤様に、僕は半ば呆然としながらそれを聞く。蛤様はやけにはっきりした口調で、僕に向かって宣告した。


「ふるひめ、を、を、取り戻しに、くるぞ」


 そう言ったっきり、蛤様は沈黙した。

 降姫を、取り戻しにくる。一体誰が。僕はなんとか自分の記憶をたぐろうとし――相変わらずうまく思い出せないことを再確認してしまった。


「……どうして僕に教えてくれたんですか?」


 素直な疑問を口にする。蛤様は心なしか優しい声で僕に語りかけてきた。


「まき、巻き込んで、しまった、から、な。可哀想な、子よ、よ」


 きっと昨日の誘拐事件のことだ。あの暴漢たちの目的は蛤様だったのだから、それを責任に思ってくれたのかもしれない。

 僕は情けない気持ちを押し隠しながら、同時に打算的な思考を巡らせはじめた。


「あの、蛤様!」


 ふたを閉じようとしていた蛤様を呼び止める。蛤様はぴたりと動きを止めた。


「僕たち今、笑鬼を追ってるんです。何か知ってることってないですか?」


 どうせ責任に思ってくれているのなら、聞き出せるだけ聞き出しておきたい。そうすれば、少しぐらい一人前に見てくれる人が増えるかもしれないから。


「知っている、いる」


 そんな僕の思惑など知らぬ風に、蛤様は答える。


「わら、笑鬼は、家族を、鬼に、殺されている、る」


 その情報は、さっき見た霧の中の記憶と一致していた。だがあれだけでは犯人は絞り込めない。もっと情報はないかと蛤様を見つめ続けると、彼は続けて情報を開示してくれた。


「奴は、は、善人は、狙わない」


 意外な言葉に、僕は何度か目をぱちぱちとさせる。


「奴、は、鬼切は、狙わない、い」


 次いでの情報に、僕は顎に指を置いて考えはじめる。


 善人は狙わない。

 鬼切は狙わない。

 小柄ではない体格。

 哀れみをもって僕を見つめていたあの緑の瞳。

 つまりそれは――


「もしかして笑鬼って……」


 尋ねかけたその言葉は、けたたましく鳴り響く無線の声にかき消された。


「笑鬼発見! 至急、急行せよ!」

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