第4話-02 襲名の儀

 本部から出た僕たちの前に広がっていたのは、真っ白に煙る街の光景だった。手を伸ばしたすぐそこまでしか霧の中を見通すことはできず、その濃い白色は喉の奥へとしみ込んでくるようでもあった。


「霧、すごく深いですね」


 こんなに霧が濃くなったのは僕がこの街にやってきて以来初めてだ。普段は点灯していない時間だというのに、様々な店の前の電灯がぼんやりと光っているのが見える。


「こういう日は認識がズレるからな。離れるなよ」


 大股で歩き始めながら犬崎は言う。僕はその背中を駆け足で追いかけて隣に並んだ。


「認識がズレる?」


 首をかしげて尋ねる。自室から引っ掴んできたぶかぶかの帽子が落ちそうになった。


「聞こえるはずのないことが聞こえて、見えるはずのないことが見えるようになる。何が起こっても自分を保ち続けろ」


 ずれてしまった帽子を両手で戻して、犬崎に向けていた目を前方に戻す。

 ――しかし、そこに見えたのは霧煙る街ではなかった。




 畳敷きの広間の両端に、物々しい雰囲気を醸し出した十数人の大人たちが並んでいる。大人たちの目はどこか忌みを含んだ色で、広間の中央にひれ伏す少年を睨みつけていた。

 ――今日からお前が外彦だ。

 要約すればそんな内容のことを最奥の男が言う。

 ――確かに、拝命いたします。

 そんなことを回りくどく、顔を上げないまま、「外彦」になった彼は言う。

 自分はそれを襖の隙間から覗き見ていた。

 ああ、なってしまった。これで彼は「降姫」を守る存在になってしまった。

 だけど自分は、彼が「外彦」でよかった、とも思ってしまうのだ。

 だって彼でなければ自分――




「うっ……」


 鋭い痛みが走り、僕は頭を押さえてよろめく。

 今見たものが何だったのか分からず、僕はもう一度顔を上げて前を見た。しかしそこには先ほどまで見えていたものとは全く違う光景が広がっていた。





 沼のほとりに少年が立っていた。

 その沼は緑がかった黒色によどんでおり、どこまでの深さがあるのか一目見ただけでは分からなかった。だけど村に伝わる伝承によれば、この沼は文字通り底なし沼なのだそうだ。

 少年はこの沼の主を祀る一族の、最後の一人だった。彼の親族は全員、ほんの一週間前の火事で死んでしまった。

 一人残された少年を見て、村の人々は考えた。あんな沼の主に脅かされるのはもう御免だ。今までは少年の一族が納めてきたため手が出せなかったが、今はもう違う。少年を囮にして、沼の主を殺してしまおう。少年は沼の主を恐れていたが、村民たちも大切に思っていたので、囮になるのを承諾した。

 沼を前にして、少年は声を張り上げた。


「……沼御前様!」


 少年はまだ沼の主に対する儀礼を覚えてはいなかった。だから、彼にできるのは沼の主の名前を呼ぶことだけだった。

 村民たちは沼御前が出てきたらすぐに殺してしまおうと、武器を手に隠れている。

 十数秒、返事はなかった。少年はちらりと村民たちをうかがい、もう一度声を張り上げようとした時、沼はまるで生きているかのようにその水位を上げ、隠れていた村民はその泥に足を取られてしまった。

 泥の一部はさらに盛り上がり、まるで皮が剥けるかのように少女の姿を取っていった。


「ぼうや、なんのごよう?」


 黒い着物を纏った彼女は、沼の上を裸足で歩いてきて、少年の顔を上から覗き込んだ。その目は緑色に爛々と輝き、少年はそれを見た瞬間体中から冷や汗が噴き出すのを感じた。


「あなたを殺すために来たんです」


 震える声で言ってしまう。少女はそんな少年を目を細めて見ると、ふいっと村民のほうに向きなおり、細い右腕を緩やかに上げていった。

 それに呼応して沼は持ち上がり、まるで鎌首をもたげる蛇のように村民の目の前に姿を現した。それを見た少年は持ち上がった彼女の腕に縋りついた。


「村の人を食べないで!」


 沼の主は不思議なものを見るような目を少年に向けた。少年は顔をゆがめて、必死に言葉を発した。


「食べるなら、僕を食べてください」


 少年のその申し出に、少女は笑顔は崩さないまま目を細めてみせた。少年は重ねて言った。


「それで満足してくれるのなら、僕はそれでいい」


 少年にとって村民は家族のようなものだった。誰かが殺されてしまうのなら、いっそ自分が死んでもいいと思うほどには。

 そんな少年の頬に沼の主は手を当ててほほ笑んだ。


「欲がないのね、ぼうや」


 少年は自分の心臓が跳ね上がるのを感じた。なんてきれいな人なんだろう。だけどその浮かべている表情は、一瞬でとろけるような妖艶なものへと変わってしまった。


「欲がでるまですこしずつたべてあげる」


 持ち上げられた泥が少年の右手を包み込み、ばきり、と何かがかみ砕かれる音が響いた。




 ――呪われた! こいつはそのうち鬼になるぞ!

 そんな声が少年の頭上から響いていた。少年の右手首は黒く染まり、あの沼と同じ色になっていた。少しずつ食べるというのはこういうことだったのだ。

 だけど少年はそれを受け入れていた。これで村のみんなを守れるのならそれでいい、と。

 しかし村民の少年に向けるまなざしは、感謝のそれではなかった。

 鬼に呪われたのだと村民たちは叫び、少年を殺せと言い合った。そんな少年に、村長は荷物を持たせて村の入り口まで連れていった。


「せめてもの情けだ」


 村長が重々しく告げるのを、少年は困惑した目で見上げていた。


「この村を去れ。そうすれば殺しはしない」


 彼が村長の言葉を飲み込むのには時間がかかった。だが、村長の後ろに立っていた男たちに武器を向けられ、少年は荷物を抱えながら村の外へと駆け出した。





「おなかすいた……」


 霧の濃い街の片隅で、少年は膝を立てて座っていた。ここに来れば自分の生きる場所もあるはず。そう思ってここまでやってきたというのに、彼を待っていたのは残酷な食物連鎖が横行する街だった。

 膝に顔をうずめる少年の横に、今風のワンピースを身にまとっている少女はそっと並び立つ。


「うばえばいいじゃない」


 少年は一度顔を上げた後、すぐに膝を抱えなおして顔を俯かせた。少女はそれの言わんとするところを理解し、慈しむような声色で言った。


「やさしい子」


 一瞬後には、彼女の姿は消え失せていた。ただ、石畳のはずの地面にまるで沼の表面のように波紋が広がっているだけだ。

 少年はそのまま膝を抱え続け、幾人もの鬼たちがその前を通り過ぎていく。

 ――その時、どこか飄々とした声が少年の頭上からかけられた。


「ねぇ君、一緒に来る?」


 少年が見上げると、そこには黒色の靄となった鬼の顔があった。差し出された手と鬼の顔を何度か見比べた後、少年は手を伸ばし――





 誰かに手首を掴まれる感触で、僕は一気に夢のような感覚から引き戻された。


「え、」


 目の前に広がっているのは、濃い霧に包まれた暗都の光景だった。街角に立つ看板がじじっと音を立てる。


「見たか」


 ハッと気づいて見上げると、いつも通り厳めしい顔つきの犬崎の姿が視界に入った。瞬間、自分が何を見ていたのかなんとなく理解して、僕は犬崎の手から逃れて後ずさった。


「す、すいませんっ、そんなつもりじゃなくて」


 慌てて頭を下げる僕に、犬崎は帽子の上からポンと手を置いてきた。


「気にするな。俺も君の記憶を覗いてしまったんだ。おあいこといったところだろう」


 サイズの合っていない帽子が頭に押し付けられ、僕はむすっと唇を尖らせながらつばを持ち上げた。


「やはり君の事情は俺と同じようなものらしいな」


 その時犬崎の目に宿ったのは同情だったのか。いや、同情というよりは、仲間意識に近いのかもしれない。僕は歩き出そうとする犬崎に思わず声をかけてしまった。


「犬崎さんあの、」


 彼の真面目そうな眼差しは、動揺に揺れているように見えた。僕は呼び止めたはいいけれど、何と声をかければいいのか分からず、当たり障りのない疑問を口にしようとした。


「……犬崎さんを拾ったのって、雲上さんなんですか?」


 霧の幻覚の中にいた人物は、確かに雲上のように見えた。

 だが言ってしまってから、もしかしたらこれも聞くべき話題ではなかったのかと気がつく。その証拠に犬崎の眉間には少ししわが寄り、それを隠すように彼は目を街の方へと向けた。


「あの人は最初は鬼切に所属していたんだ。それが突然、警察へと行ってしまった」


 僕はさらなる混乱で目を丸くする。雲上さんが元鬼切? それに犬崎を拾ったということはもしかして見た目よりずっと年上なのか?


「あの人は、面白ければなんでもいいのさ」


 犬崎は目を細め、その鋭い視線にはほんの少しの憎しみが込められたように見えた。


「そしてこの街も、あの人を肯定している」


 その言葉が意味するところは、僕にはまるで理解できなかった。そして犬崎も何を言っていいのか分からないようで、僕たちの間には沈黙が落ちていた。

 僕はちらちらと何度か彼の顔を窺ったあと、ぼそりと小声で尋ねてしまった。


「あの、どうして僕を拾ってくれたんですか?」


 僕の脳裏には警察で聞かされた言葉がよぎっていた。誰か一人を贔屓するわけにはいかない。たとえ僕に刀への適性があったとしても、拾ってもらえたことにはどうしても疑問がある。

 犬崎はそんな僕に背を向けて、歩き出しながら言った。


「誰か一人だけを贔屓するのは不公平だ。だが――それでも助けることができる一人がいるのならそれでいいと俺は思っている」


 僕はぼんやりと立ちながらそれを聞き、数秒遅れて霧の向こうへと消えていきそうになる犬崎の背中を追いかけた。


「……ありがとうございます」


 聞こえるか聞こえないか分からないほどの声で、僕は小さく礼を言う。そのまま犬崎の隣に追いつこうと足を踏み出し――僕は再び霧の中へと飲まれた。





 声を上げて泣いている子供がいる。

 子供の周囲には死体が転がり、その子供の家族であるとすぐに分かった。

 その子の感情が一気になだれ込んでくる。

 悲しみ、怒り、憎しみ、復讐心。

 やがて子供は大人になり、霧の街を見据える。

 大人となったその子が拾い上げたのは一枚の面。

 特徴的な笑顔のそれは――





 現実へと引き戻され、僕は隣に立つ犬崎に視線をやった。彼も今の記憶を見たようで、険しい顔をこちらに向けていた。


「犬崎さん、今の……!」

「……笑鬼か」


 全身に緊張が走る。あの恐ろしい鬼が付近にいるかもしれない。しかし、犬崎はすぐに指示を出さずに考え込んでいた。


「犬崎さん、どうしたんですか?」


 覗き込んで尋ねると、彼は数秒目を閉じた後に自分の腰に下げていた無線へと手をやった。


「外彦くん、無線は所持しているな」

「は、はい!」


 慌てて腰の無線をオンにする。使うのは初めてだが、操作は簡単らしいのでなんとかなるだろう。


「手分けして探すぞ。見つけたら無理に接敵せず、応援を待て」

「はい!」

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