第4話
第4話-01 黒い手足
「外彦くん」
鈴を転がすようなかわいらしい声が鼓膜を揺らす。鼻の奥に痛みを感じながら目を開くと、僕の目の前には降姫の顔があった。
「降姫……」
頭の芯に残った痛みはどうやら泣きじゃくっていたせいのようで、僕は眠ってしまう前に起こったことを徐々に思い出していった。
不意打ちでもなく、しかも今回は帯刀していたというのに、情けないことに僕はまた誘拐されてしまった。犬崎さんにも、警察の二人にも迷惑をかけてしまって、穴があったら入りたいぐらいだ。
また泣いてしまいそうな気分になって、掛け布団を口元まで引き上げる。低い天井がぼやけて見えた。
ちらりとベッドのすぐ横に腰掛ける降姫を見る。今回は彼女を巻き込まなかっただけで十分かもしれない。誘拐されたのが僕だけで本当によかった。
じっと降姫の顔を見ていると、彼女はこてんと首をかしげてきた。
「どこかケガしたの? 痛い?」
ちくり、と。
事件の最中、僕を探すこともなく、助けを求めるでもなく、保護されるままに安全圏にいるだけだった彼女を見て、何故だか、胸の奥にささくれが引っかかる。
なんだろう、この痛みは。
違う。純粋に心配されただけだ。それだけなのに。どうして僕は。
「大丈夫だよ、降姫」
笑顔を作って彼女に向ける。彼女は心配そうな顔をしながら、僕から離れていった。
心のモヤモヤを飲み込んで、泣き疲れて寝てしまうまでのことを僕は思い出す。ブローカーの奴らに殺されかけて、犬崎さんたちが助けに来てくれて、危ない僕を庇った犬崎さんの腕が――
「そうだ、犬崎さん……!」
布団を勢いよくめくって、がばっと跳ね起きる。降姫がこちらを驚いた目で見てくるがそれどころではない。僕は支給された寝巻を慌てて脱ぎ去ると、まだ着慣れていない軍服にあわあわと袖を通した。
ベルトをきゅっと締めて、部屋を出てすぐそこの犬崎の部屋の前に立つ。僕はノックをしようと右手を持ち上げたが――その寸前にゆっくりとドアは開いた。僕は少しだけ迷ったあと、ドアノブに手を置いて戸を引き開けた。
「失礼します……」
ぼそぼそと口の中でつぶやきながらドアの隙間から体を滑り込ませる。降姫も音を立てずに僕の後ろをついてきた。
部屋の奥にあるベッドにはとある人物が腰かけていた。流れるような黒髪の少女――沼御前だ。
「しーっ」
沼御前は唇の前に人差し指を立てる。ベッドの上には、軍服のズボンにタンクトップ姿の犬崎が眠っているようだった。
僕のせいで、僕なんかのために腕を落とされてしまって、僕はどう謝ればいいんだろう。ぐるぐると回る思考のままにベッドに近づいて彼の体を見たとき、僕は思わず疑問の声を上げてしまっていた。
「え?」
犬崎の体には、しっかりと右腕がついていた。もしかして左右を間違えてしまったのかと左腕を見るも、そちらもしっかりとついている。ただし、その両腕はただの人間のそれではなかった。彼の腕は、黒く濁ったような色に染まっていたのだ。
犬崎の眉根がぴくりと動き、ゆっくりと瞼が持ち上がる。不機嫌そうな視線を向けられ、僕は小さく飛び上がった。
「ひゃっ」
「……外彦くん?」
「ご、ごめんなさっ、起こしちゃって……」
犬崎は何度か瞬きをした後、現状を把握したらしく、頭をがりがりと掻きながら上半身を起こした。
「いや、いい。俺も君に尋ねたいことがあったところだ」
寝起きだというのにそれを感じさせないキビキビとした動作で、犬崎はクローゼットを開ける。そこには数着の軍服とコート、少しの私服が入っていた。
「着替えるからちょっと待っててくれるか」
「あ、はい!」
言うが早いか、犬崎はタンクトップを脱いで新しい衣服を持ち上げる。僕はそんな犬崎の体をじろじろと覗き込んでいた。
この黒い腕は何なのだろう。緑色がかった黒色の両腕。聞いてみたら教えてくれるだろうか。首をかしげながら視線を体に戻し、僕は彼の肉体に目が吸い寄せられてしまっていた。
それにしてもすごい筋肉だ。比較的細身だというのに、こんなに筋肉が詰まっているだなんて。それに比べて僕は――
「その……外彦くん」
じっと犬崎の体を見ていると、頭上から戸惑ったような声が聞こえてきた。見上げるとそこには普段の凛とした表情を崩して、顔色を真っ赤にした犬崎がいた。
「あっち、向いていてくれないか」
ぼそぼそと言われ、混乱しながらも頷く。犬崎から距離を取り、僕と降姫は首を傾げあった。
変なの。男同士なんだから別にいいのに。そんな僕たちに、足音一つ立てず沼御前は歩み寄ってきた。
「あの子はうぶなの」
下から覗き込むような姿勢で沼御前は言う。そのたった一言で背筋を撫でられたかのような感覚が走った。
彼女の髪は艶やかで、澄んだ水底の苔生した泥のような色合いをしていた。水面に浮かぶ蓮の葉のように濃い緑の目に見つめられ、僕はふと気が付く。
――あ。御前様の髪、犬崎さんの腕と同じ色だ。
「もういいぞ」
思考を遮るように犬崎の声が背後から響き、僕は彼に向き直った。そこにはいつも通り皺一つない制服を身につけた犬崎の姿があった。
「そうだな、どこから話すべきか……」
勧められた椅子に腰掛け、僕は犬崎と向かい合う。椅子が足りなかったので、降姫と沼御前は立ったままだ。心なしか降姫は沼御前を睨みつけているようだ。
「君と降姫の関係だが――いや、そもそもの話からしよう」
今後どういった形で君を戦力に数えるかに関わるからな、と犬崎は付け加える。僕は背筋をピンと伸ばした。
「君は半鬼と鬼の違いを知っているか?」
僕は少し考え込んで、自分の知っていることを素直に言うことにした。
「ええと、鬼欠片に触れた人間は、呪われて徐々に半鬼になって、いつか完全な鬼になってしまうんだって……」
ちらりと傍らに立つ彼女へと視線をやる。
「……降姫みたいに」
ボソリと付け加えた言葉を受けて、犬崎は目を細めた。
「では完全な鬼とは何だ?」
睨みつけられているようにも感じるその視線に、僕は叱られている気分になって俯いて震えだす。犬崎はそんな僕に気づいているのかいないのか、そのまま硬い口調で僕に問いかけてきた。
「たとえばそう――暗都警察の奴らは、生まれつきの鬼が多い。鬼だというのに人型を保っている彼らと、半鬼の違いはどこにあると思っている」
気づいていなかった矛盾を指摘され、僕は動揺で震えてしまいながらなんとか言葉を発した。
「わ、分かりません。僕が外で出会ってきたのは、理性のない鬼たちがほとんどだったので」
視線を少しだけ上げ、そっと犬崎を見る。彼は難しい顔をして僕を見下ろしていた。
「この街に来る人たちも、住んでいる鬼たちもみんな、鬼欠片の呪いを受けてしまったまだ理性がある元人間ばかりだと思ってて……」
素直に答えて、数秒。犬崎は考え込んだ後、僕に言葉を返した。
「ここにやってくる連中の中には、迫害されて逃げ延びてきた生まれつきの鬼も存在する」
思いもしなかった事実に、僕は今更になって震え上がる。僕の中での純粋な「鬼」はどうしても、かつて相対した凶暴な存在としか思えなかったのだ。
「純血の鬼は元人間の鬼に対する蔑称として「半鬼」という呼び方を使う。逆に純粋な人間はそれを「欠片持ち」と恐れ蔑むこともある」
半鬼、欠片持ち。
半分だけ鬼で、欠片に呪われた人間。
「人であって人ではなく、鬼であって鬼でもない。半鬼はそんな半端者のことを言うんだよ」
不機嫌そうに犬崎は吐き捨てる。だが、僕が怯えた視線を向けているのにすぐに気づいたらしく、その悪感情はすぐに犬崎の内側へと消えていった。
「君は降姫のためにこの街にやってきたんだったな」
コクリと一度頷く。犬崎は姿勢はそのままに首を傾げてみせた。
「降姫の呪いを一部肩代わりしているというのはどういうことだ?」
改めて尋ねられて僕はきょとんと目を丸くする。
「通常、魔食刀は鬼欠片を食わせることによってその威力を発揮する。これは基本的には鬼に対する切れ味がよくなるものだ」
壁に立てかけられた犬崎の魔食刀に視線を向ける。確かにあれを振るった時、あまりにも簡単に鬼の腕を切り落とすことができた。
犬崎は緑がかった黒色の手を差し出した。よく見ると爪の部分も黒で、決して腕を黒色に塗っているわけではないと分かった。
「俺はこの腕を刀に食わせる形で刃を振るっている。恐らく君もそうのはずだ」
犬崎は僕へと身を乗り出して尋ねてきた。
「君と降姫はどういう在り方なんだ?」
その問いかけに、僕は頭の中がぐちゃぐちゃになっていくのを感じていた。
どういう? 僕と降姫は、どんな関係なんだっけ。そう、僕は――外彦は、降姫を守るべき存在で。だから。
鉄錆の匂いが鼻の奥にこびりつく。足元に赤黒い染みが広がっている。刀が、布団が、血が。
不意に見えたその光景を手繰り寄せようと考え込んだが、どうしてもそれの糸口は見つからない。僕は俯いて答えた。
「ごめんなさい、この街に来てから記憶がなんだかぼんやりしていて……」
「……そうか」
嘘を言っているわけではないと悟ったのだろう。犬崎はそれ以上問いかけてこなかった。
あの光景はなんだったのか。知りたいという思いと、それ以上に知りたくないという思いが共存している。
拳を太ももの上でぎゅっと握り込む。犬崎は壁にかけられた時計を見やった。朝の八時前だ。
「そろそろ犬崎班の会議の時間だ。……君も同席するか?」
立ち上がりながらの言葉に、僕は慌てて答えた。
「行きます!!」
犬崎班の会議は、鬼切本部の中のこじんまりとした会議室で行われていた。会議室の前方には犬崎が座り、そのすぐそばには向井堂が座っている。僕はそこに向かおうとしたが、そんな僕を呼び止める人物がいた。
「外彦くん、こっちこっち」
「歌歌さん」
手首を掴まれてしまい、引きずり込まれるように後方の席へと座らされる。
「ここに座りましょ。どうせ私たちにはあまり関係のない会議なんですから」
暗に戦力外だと告げられ、僕はむすっと頰を膨らませる。歌歌はそんな僕をがっしりと拘束しながら、小さくため息をついた。
「本当は私みたいなのこそ前線に出るのが道理なんでしょうけど、上がいい顔しないんですよね。だから私には関係ないんです」
言われた意味が分からず、僕は彼女を見上げる。彼女はどこか遠くを見る目をしていた。
「鬼切は鬼が作った暗都警察と違って、人間の組織ですから」
鬼が作った警察。人間が作った鬼切。彼女の口ぶりから考えた僕の認識が間違っていなければ、二つの組織の関係はそういうものなのだろう。僕は彼女の言葉を反芻し、恐る恐る彼女に問いかけた。
「もしかして歌歌さんは……半鬼なんですか?」
彼女は一度瞠目した後、優しく微笑んできた。
「ええ、そうですよ。この街風に言うなら『欠片持ち』ってとこかしら」
やっぱりそうなのか。でも彼女は見た目では人間のようにしか見えない。一体どんな鬼なのだろう、と尋ねたい思いを押し殺していると、それに気が付いたようで、歌歌は苦笑いしながら答えてくれた。
「歌を歌うの。名前の通りね」
困惑を込めたまなざしを向けると、歌歌は悪戯っぽく笑んできた。
「たったそれだけのつまらない能力ですよ」
はぐらかされたのは分かったがそのままにするのも悔しくて、僕は肩をしっかりと拘束されながら重ねて歌歌に尋ねた。
「音を操るってことですか?」
優しく細められた緑色の目が僕を見た。これ以上聞いてもきっと答えてくれないだろう。この人はきっと、僕が鬼切にいることにも反対なのだから。
彼女の腕で体を押さえつけられて立てないようにされながら、僕は悔しくて俯いた。
「揃ったな。では会議を始める」
朗々と響き渡った犬崎の声に、僕は背筋をピンと正した。注目した班員たちを見回し、彼はすぐ隣に座っていた女性へと声をかけた。
「
立ち上がったのは知らない女性だった。いや、正確には何度か廊下ですれ違った気もするが、まだ会話したことのない班員だった。
「副班長の桂坂さんですよ。ああ見えて、純粋な剣の腕だけなら犬崎さんより上なの」
僕のしぐさから初対面だと察したのだろう。歌歌は僕の耳元に顔を寄せ、小声で教えてくれた。
「
桂坂はちらりと犬崎に視線を送る。犬崎はすぐにうなずいた。
「笑鬼の件だな」
「はい。交戦時の彼の言葉を信じるのであれば、笑鬼はブローカーともジョロウグモとも関係はない、ということになります」
首を傾げる。ジョロウグモとは何だろう。僕は再び歌歌に尋ねようとしたが――その寸前に偶然犬崎はその疑問に答えてくれた。
「ジョロウグモはブローカーの元締めと目されていた集団だったな?」
「はい。よって現時点で調べるべきは笑鬼の目的になると判断できます。報告は以上です」
葛坂は着席し、入れ違いに犬崎は立ち上がった。
「笑鬼の手口は様々だ。体中をバラバラにされた者もいれば、一撃で殺され心臓のみを食べられた者もいる。共通しているのは被害者を食らうことと、目撃者によれば音一つ立てずに犯行に及んでいたということのみ」
犬崎は会議室をぐるりと見回した。
「次に狙われるのは何か、些細なものでもいい。情報を掴んでいる奴はいないか?」
答える者はいなかった。別に犬崎に人望がないというわけでは決してない。むしろ班員たちは苦虫をかみつぶしたかのような悔しそうな顔で目をそらしている。
刺さるような沈黙を破ったのは、犬崎の近くに座る向井堂だった。
「そんなの掴んでたら真っ先に隊長に報告がいきますってー」
へらへら笑いながら軽い調子で言う彼に、桂坂は鋭い視線を向けた。
「黙りなさい、向井堂」
「ハハ、うちの班に回ってくるのは、んな案件ばっかりじゃないっすか」
桂坂の苛立ちの目も気にせず、向井堂はぶらぶらと手を振ってみせた。
「お偉方は犬崎班のことが大っ嫌いですから」
やれやれとでも言うかのようなそのしぐさに、犬崎は眉間のしわを深くしたようだった。
「口を慎め、向井堂。また謹慎を食らいたいのか」
はいはい、と適当な返事をして、向井堂はそっぽを向く。だが、彼の軽いしぐさによって、班員たちの雰囲気は少し好転しているように見えた。
犬崎は向井堂をじとっと見た後、大きくため息をついた。
「仕方ない。哨戒がてら蛤様の近辺を漁るか。会議は以上とする。……解散!」
彼の号令に班員たちは続々と立ち上がって去っていく。同様に退室しようとした歌歌の拘束をようやく抜け出し、僕は歩き去っていく犬崎の背中に声をかけた。
「……あの、犬崎さん!」
犬崎は振り返り、はるか頭上から僕を見下ろした。一瞬ひるみそうになったが、ぎゅっと足を踏みしめて声を張り上げる。
「僕、犬崎さんの捜査についていきたいです!」
彼の表情は変わらなかった。驚くでもなく、動揺するでもなく、ただ真っ直ぐに僕を見下ろしている。僕は勢いよく頭を下げた。
「今度は失敗しません! お願いします!」
数秒間、頭を上げることはできなかった。そのほんの僅かな時間はまるで数十秒も、数分も経っているかのように感じ、僕は目をぎゅっと閉じた。
「桂坂、お前はいつもどおり別働だ」
「はい」
僕の頭の上で、犬崎は桂坂に指示を飛ばす。かつかつと音を立てて桂坂が去っていく音がした後、やっと犬崎は僕に声をかけた。
「外彦くん」
「はい!」
顔を上げ、ぴんと背筋を正す。そこには冷静な面持ちの犬崎の姿があった。犬崎は踵を返して歩き出し、振り返らないまま僕に言った。
「ついてこい」
そのぶっきらぼうな態度に、同情や諦めで連れていくのを決めたわけではないと悟り、僕は誇らしくなって大きく返事をした。
「はい!!」
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