第3話-02 蛤様
鬼切の本部を出て十数分。一切こちらを振り返ることなく、犬崎は僕の前を歩いていった。わずかに覗いた耳はまだ赤くなっているようで、僕は彼に駆け寄ってそっとその顔を見上げた。
「あの、犬崎さん……」
彼の顔はまだ真っ赤に染まっていたが、それでも隊長としての顔は続けたいらしく、僕たちに鋭い視線を向けてきた。
「何も聞いてくれるな」
「あ、はい……」
僕は首をきゅっと引っ込めて、それ以上何も聞くことはできなかった。
だけどせめてどこに向かっているかだけは聞いておきたい。そんな視線を背中に向けていると、唐突に犬崎は振り返らないままに僕たちに声をかけてきた。
「今から行く場所にいるのは蛤様。霧を操る鬼だ」
霧。そう言われて僕は辺りを見回す。辺りにはいつも通り霧が立ち込めている。日によって濃度は違うが、屋外でそれが晴れることはめったにない。
「この街の霧ってもしかして――」
「ああ。その蛤様が操っているものだ」
真面目な話をしているうちに、犬崎の赤い耳は徐々に肌色へと戻っていく。僕はそろそろ視界に入っても怒られないだろうと判断し、再び彼の顔を下から覗き込んだ。
「街の霧はその内にいる者を掌握するものだ。ありていに言ってしまえば、蛤様はそうして得た情報を売ってくれているということだ」
今回はブローカーと笑鬼について尋ねにいくのだと、犬崎は淡々とした足取りで歩きながら言う。僕はふと不思議になって、隣を早足で駆けていく降姫と顔を見合わせた。
「犬崎さん。あの、僕たちがついていく意味って……」
「この先、君と関わり合いになるかもしれない相手だからな。顔合わせをしておくのも悪くないだろう」
急に立ち止まった犬崎にぶつかり、僕は鼻を押さえる。彼が立ち止まっていたのは、巨大な薬屋の前だった。夜に近づきつつある暗い道を、宙に揺れるいくつもの提灯が照らしている。
「すごい……」
口を開けてぼんやりと見上げ、ふと振り向くと、犬崎は渋い顔をして目の前の薬屋を睨みつけていた。
「誰にでも、というわけにはいかないが、今のところは鬼切にも協力してくれている」
「……今のところ?」
首を傾げて尋ね返すと、犬崎は嫌そうにさらに顔を歪めた。
「ここは暗都警察の管轄だからな……」
薬屋の中は三階までの吹き抜けになっており、縦横無尽に張り巡らされた梯子を身軽な鬼たちが忙しなく這いずり回っていた。
鬼たちのほとんどは水中生物のような形をしており、僕の近くの鬼にいたっては蟹のように首と手を伸ばして、高々と積み上げられた薬棚を丁寧に整理していた。
「――鬼切の犬崎だ。蛤様に会わせてもらえないだろうか」
手帳をかざして受付の鬼に言う。蛙のような顔をした彼は、犬崎をじろじろと見回すと、無言のまま乱暴に木札を投げ出してきた。
「感謝する」
それを気にした様子もなく、犬崎は木札を拾った。
「通行証だ。失くさないようにな」
僕はこくこくと首を縦に振る。それを確認すると、彼は同じ歩幅で薬屋の奥へと入っていってしまった。
奥に進むほど、廊下は薄暗くなっていく。若干の恐怖を覚えて降姫に寄ると、彼女も僕を不安そうに見上げていた。駄目だ。彼女の前では強くいるって決めたんだ。ぐっと感情を飲み込んで前方に視線を戻すと、僕たちの行く道に一つの人影が立っているのに気がついた。
「やあ犬崎くん、元気?」
へらへらと笑っているかのような声色で、彼はこちらに声をかけてきた。笑っているような、というのは、彼の顔が見えないからだ。
「雲上、さん」
犬崎が震える声で彼の名前を呼ぶ。
顔を霧状にした彼、雲上は唯一確認できる目を細めて、犬崎を見つめていた。僕はぼんやりと犬崎を見上げ――彼が緊張しきった表情をしていることに気がついて、とっさに彼の陰に隠れてしまった。
「何の用だ」
「やだな、今日はお仕事だよお仕事。ね、十賀淵」
彼と一緒に立っていたのは、見覚えのある男――暗都警察の十賀淵だった。
「来たな鬼切」
苦々しい声と顔で、彼は犬崎に歩み寄ってくる。しかし犬崎は一歩も退かなかった。
「ブローカー事件について調べているそうだな」
「ああ、それが何だ」
「……あれは本来、警察の管轄だ。お前たち鬼切の関与すべき事じゃない」
一触即発の雰囲気に、僕は最初身を縮こまらせていたが、隣に立つ降姫が不安そうに震えているのを見て、慌てて二人の間に割って入った。
「あの、あの、喧嘩はよくないと――」
「……外彦くん?」
さらに低くなって氷点下になったその声を受けて、僕は心臓がぎゅっと締め付けられるような思いになった。しかし、彼が犬崎に非難するような目を向けているのに気づいて慌てて腕をぱたぱた動かしながら弁明した。
「僕、自分から鬼切に入ったんです! 強制されたとかそういうのは全くなくて……」
そう主張しても十賀淵の目つきは変わってくれそうになかった。僕はそれ以上食いかかろうとして――直前に雲上に遮られた。
「大人同士の話をするんだ。二人とも、ちょっとあっちに行っててもらえるかな」
子供扱いされたことに憤慨しながら、それでも降姫をあのまま置いておきたくはなくて、僕は薬屋の中をふらふらと歩き始めた。
最初は元来た道を歩いていったのだが、どこかで道を間違ってしまったらしい。さらに薄暗くなっていく廊下を、僕は早足で歩いていった。
すると目の前に天幕の張られた部屋が現れた。いつの間にか目の前にあったそれに引き寄せられるように僕は吸い込まれ――その情景は脳裏に直接映し出された。
竹林の片隅で、二人の子供がシャボン玉を飛ばして遊んでいた。一人は可愛らしい少年、もう一人は黒髪の少女だ。
少年がふぅっと息を吹き込むと、筒の先からは細かいあぶくが飛んでいく。少女はそれを追いかけ、手を伸ばし、ついに一等に大きなシャボン玉を手の中に収めた。
「外彦くん!」
満面の笑みで、少女が少年の名前を呼ぶ。彼はそれに柔らかな笑みで応えた。
ふと気づくと僕は、幾重にも重ねられた天幕の中に立っていた。周囲を見回してみても、降姫の姿はない。それどころかほんの数歩先も見通せないほど、天幕は僕の視界を遮っていた。
「降姫? 降姫!?」
低い天井から垂れているであろう柔らかな布をかき分けながら、僕は前へと進んでいく。正確にはそちらが前であるかは分からない。もしかしたら奥に進んでしまっているのかもしれない。
そんな予感は正しかったらしく、十歩ほど歩いていった先に広がっていたのは、ごてごてとした家具が立ち並ぶ豪勢な部屋だった。その部屋を進んでいくと、奥に奇妙な玉座が置かれていることに気がついた。
玉座の上には真っ赤なクッションが敷いてあり、その上には大きな貝が一つ載せられていた。
「もしかしてこれが、蛤様……?」
「そう、そうだとも、も」
老人のようにかすれた声が鼓膜を揺らした。正確にはそれが声だったのかは分からない。だけど妙にくぐもったその声は、目の前の貝から聞こえてきているような気がした。
「お前、お前」
目の前の貝は、ゆっくりと開くと、僕のことを見つめ始めた。正確にはその貝――蛤様に目はない。だが、確かに見据えられていることを感じることができた。
「かわ、可哀想に」
突然そんなことを言われ、僕は棒立ちになることしかできなかった。
可哀想。一体何のことだろう。もしかして身よりもない二人きりでこの街に来てしまったことだろうか。だけどそれを憐れまれるほど僕は弱くないつもりだ。
蛤様をにらみつけると、彼は僕に意味不明なことを告げた。
「おの、己が嘘にも気づいていないのだな、だな」
――嘘?
ますます意味が分からない。僕が何の嘘をついているっていうんだ。不快な感情が胸に満ち、僕はそのまま踵を返して立ち去ろうとした。しかし。
「し、知りたいことは、もう分かっている、る」
蛤様の一言に、僕は振り返らざるを得なかった。今、僕が知りたいこと。もしかしてそれは、僕と降姫の力についてのことで。
「お前、お前の能力は見る力だ」
予想通り、蛤様は僕の疑問に答えてくれた。僕は蛤様に向きなおった。
「鬼の目が、目が見たものは、お前が見たものであり、時に相手を怯ませる、る」
蛤様の答えは端的であって、それでいて飲み込むのに時間がかかるものだった。僕は十数秒かけて考え込み、その結論を首を傾げながら蛤様に尋ねた。
「ええとそれは、降姫の――百目鬼の力を借りているってことですか?」
数秒の沈黙。その後に蛤様は口を開いた。
「そうとも言える、るな」
曖昧な答えだ。蛤様は何でも知っているというのは嘘なのだろうか。僕は重ねて尋ねようとしたが、それに先んじて蛤様は今までよりも早口で僕に語り掛けてきた。
「この先、き、お前は霧によって、いく、幾度もそれを見ることにな、なるだろう、う。たち、立ちふさがるものも、も、あるだろう、ろう」
蛤様は存在しない目を光らせた、気がした。
「お前にその、かく、覚悟は、あるか、か?」
覚悟と言われても何のことか全く分からない。僕は蛤様を無視すると、天幕のほうへと振り返った。
「それより降姫はどこに……うわっ!」
天幕からいきなり現れた男たちに、僕は驚いて一歩後ずさる。集団も僕がいるのは予想外だったようで、僕を冷たい目で睨みつけてきた。
「何だてめぇ、客か?」
明らかに客ではない風体の男たちにそう問われ、僕は刀に手をやろうとした。しかしそれよりも早く、男のつま先は僕の腹に沈み込んだ。
「うぐぅ……!」
膝の力が抜け、へたりこんでしまう。目の前の男は、そんな僕の頭を蹴りつけてきた。脳が揺らされ、座ってさえいられなくなる。霞む視界の中、僕はぴくぴくと動く自分の指を見ることしかできなかった。
「見られちまったなら仕方ねえ」
「ここで殺すか?」
「いや、いざというときの人質に持っていこう」
「いざというときがなかったら?」
「だったら装置に投げ入れちまえばいいだけさ」
男たちの下卑た笑い声が、頭上から響いてくる。僕は、それを最後まで聞くことができないまま、意識を失った。
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