第1話

第1話-01 暗都への片道列車

 僕が、闇と霧の中で自在に生きるようになる三ヶ月前。

 倭国の首都近くに存在する『暗都』行きの片道列車に、僕は乗り込もうとしていた。

 辺りは僕と同じく『暗都』に向かおうとしている人々であふれている。いや、正確には人々ではない。僕の周りにいるのは、人とはどこかしら異なる形を持った異形――俗に言うところのばかりだったからだ。

 そんな鬼々は一様に興奮した面持ちで、列車の到着を待ちわびている。それもそのはず。彼らが今から向かう『暗都』は、人の世では生きられない鬼のために作られた居住特区なのだ。


外彦とつひこくん」


 背後から僕を呼ぶ声が聞こえ、振り返る。そこに立っていたのはよく見知った女の子だった。


降姫ふるひめ


 真っ赤な着物に、黒くて長い髪を後ろに流している彼女の名前は、降姫ふるひめ。僕がこの場所にやってくることになったきっかけであり、僕が命に代えても守りたいと思っている存在でもある。

 伏し目がちな彼女がちらりと僕を見る。しかしその目じりには、ありえないはずの場所に二つの目がついていた。ぎょろぎょろと動く余分な目が辺りを見回す。だが周囲の鬼たちはそんなことを気にしている様子はない。ここが彼女を迫害するようなところではないということに、改めて僕はホッと胸をなでおろした。


 この倭国では、古くから鬼というモノの存在が確認されてきた。だがそれはごく少数のこと。鬼は人里離れた場所で暮らしていたし、人間も必要以上に鬼には関わらずに生きてきた。

 だが人の欲望というのは恐ろしいもの。人間は鬼の住処をあばき、鬼もまた人間に呪いを振りまいた。その結果がこれだ。


「大丈夫だよ、降姫」


 僕は彼女を安心させようと手を伸ばす。しかし彼女は僕の手を取ろうとはしなかった。


「降姫、大丈夫。触ってもこれ以上鬼が伝染るなんてことはないよ」


 そうやって告げても、降姫はかたくなに僕の手を取ろうとはしなかった。僕たちの間に沈黙が満ちる。思い思いにざわめく周囲の雑踏に、二人だけが取り残されているかのようにも感じた。

 呪いを受け、鬼の欠片に取り込まれつつある彼女をどうしても救いたい。僕はその一心でこの場所へとやってきたのだ。それなのに。

 僕と彼女は見つめ合い――やがて僕はぶらりと手を下ろした。


 降姫は決して僕に触れることはない。それは彼女が呪いに侵されて伏せっていたあの時からずっとそうだ。術式で呪いの一部を僕に移し替えている状態だというのに、彼女はどうしても僕に触れてこようとはしなかった。

 それはきっと、これ以上僕が鬼になるのを防ぎたいからで。

 悲しい顔をしてしまいそうになるのをぐっとこらえ、僕は列車のホームへと向きなおる。ちょうど人工島である『暗都』への列車が滑り込んできたところだった。


 しかしその列車から降りてくる鬼はいない。倭国から『暗都』に向かうことは簡単だが、その逆はほとんどの場合、認められないのだ。だけどそれでも『暗都』を目指す鬼は多い。それほどまでに、あの人工島は僕たちにとって理想郷だった。

 荷物を先に乗せた後、赤黒い列車の入り口に足をかけ、ゆっくりと体を持ち上げる。後ろについてきた降姫もこちらに乗り込んできた。


 人々は続々と列車に乗り込み、大きな警報音が鳴り響いた後に音を立てて列車のドアが閉まる。

 僕たちはこれでもう倭国に戻ることはできない。だけどこの先にはきっと、彼女にとって安全な場所が広がっているはずだ。

 橋の向こう側で子供二人で生活するのは大変かもしれない。だけどそんなことは承知の上だ。あちら側が彼女が迫害されることなく、穏やかに暮らすことができる場所であるのなら、僕はそれでいい。



 彼女を守るためならば、僕は何だってできる。

 少なくともこの時は、そう思っていた。




 『暗都』行きの列車が、長い長い橋を滑るように進んでいく。迫害され、居場所を失った鬼たちを乗せて走っていく。

 列車に揺られて十数分経った頃、急に外の景色が薄暗くなった。別に夜になったのでも、曇り空になったわけでもない。広い窓から外を見上げ、空を覆う天蓋を見る。あれこそが『暗都』が『暗都』と呼ばれるが所以。まるで色硝子のようにぼんやりと日光を遮る、『灰天』と呼ばれる天蓋だ。


 『暗都』を覆い尽くす『灰天』の中をさらに進んでいくと、徐々に霧が濃くなっていく。これは光の中では生きにくい類の鬼たちのためのものだ。

 また五分ほど経つと、霧の向こう側からは、ぐっと上から無理やり建物を押し込めたかのような『暗都』が見えてくる。街には鬼たちによる騒がしい光が瞬いており、天蓋の向こう側の日光はそれを引き立たせるかのようにぼんやりと降り注いでいた。


「すごい……」


 遠くから見るだけでも心が躍るその光景に、僕はぼんやりとそう呟いてしまっていた。すると背後からくすくすと小さく笑い声が聞こえてきた。


「降姫?」


 振り向くとそこには、珍しく笑顔を見せる降姫の姿があった。何故彼女が笑っているのか分からず、僕は首をひねる。彼女は僕を見ると、穏やかに目を細めた。


「よかった。外彦くん楽しそう」

「え!? ええっと、それは……」


 内心を見透かされたかのようなその言葉に、僕は慌てて言い訳を考えようとする。だけど緩んでしまっている口元を今更隠すこともできず、僕は照れ臭くなりながらぼそぼそと答えた。


「えへへ、うん、ちょっとワクワクしてる」


 降姫のことを言い訳に使ってしまっているかのような罪悪感がないわけではない。だけどやっぱり僕の中に期待があるのは誤魔化しきれなかった。

 鬼への迫害がない理想郷。そんな場所に彼女と一緒に行けるのだ。

 僕は窓ガラスに手を置いて目を細めた。


「あちら側はきっと、僕たちにとって楽園なんだ」


 ひんやりとしたガラスの向こう側から、街の喧騒が浸み込んでくるような気がする。僕は全身でそれを受け止めていた。





 鬼を乗せた列車は、長い長いプラットホームへと滑り込む。耳障りなブレーキ音が響き、少しの揺れの後、車両のドアが開く。僕は荷物を引きずりながら外へと出た。


「わあ」


 そこに広がっていたのは、高い天井とずらりと並び立つ店。光る電飾、鼻をくすぐる美味しそうな匂い。倭国でもなかなか見られないほど栄えている駅の光景だった。


「何立ち止まってんだ! 邪魔だぞ!」

「あ、わっ、すみません!」


 後ろから押される形で、僕は昇降口から離れる。せき止められていた鬼たちが続々と列車の中から出てきた。


「すごいね外彦くん。お祭りみたい!」


 いつもより数倍も軽やかな歩調で、降姫は歩いていく。僕はその後ろ姿が自分のことのように嬉しくなってしまい、高鳴る鼓動のまま歩みを進めようとした。

 だがそんな僕の前に立ちふさがった影に、僕は正面からぶつかってしまった。


「あたっ、ご、ごめんなさ……」


 額を押さえながら謝ると、目の前に立っていた男たちは、にやりと嫌な笑みを浮かべた。文字通り蛇に睨まれたかのような心地になって、僕は一歩後ずさった。


「よお、坊ちゃん。随分と大荷物じゃねぇか。慰謝料代わりに、ちょっと俺たちにカンパしてくれないか?」


 下卑た表情で男たちはさらに距離を縮めていく。僕は何歩も後ずさったが、運悪く背後には壁があった。


「カ、カンパってなんで……」


 壁で背後を塞がれ、僕は震える声で男たちを見上げる。彼らの顔は、決して身長が高いわけではない僕の遥か頭上にあった。


「いやあ実は俺たち、賭け事で金をすっちまってさあ。次の賭けのための資本金? ってやつが必要なんだよ」


 なんて自分勝手な理屈だ。本当ならこんな理不尽な相手は無視して逃げるべきなのだろう。だけど今の僕には逃げ場がない。男は僕が引きずっていた鞄を軽々と持ち上げた。


「おら、鞄寄こしな!」

「やだ、やめっ……」


 抗議も空しく、男たちは逃げ去っていこうとする。僕は必死でその後ろに追いすがり、鞄を取り返そうとした。


「か、返せっ! 返せよ!!」


 駅の外に向かっていってしまう男たちを、追いかけて何度も飛びかかろうとする。男たちは最初そんな僕を無視していたが、僕がそれでも諦めないのを知ると、僕の腹を思い切り蹴り飛ばしてきた。


「しつこいんだよテメェ!」

「うっ、げっ…………」


 たったの一撃で、僕は地面に転がって動けなくなった。この脚力、人間じゃない。こいつら多分、鬼だ。

 男のうちの一人は歩み寄ってくると、僕の髪をつかみ上げて顔を上向かせた。


「おい、ついでにコイツ攫って食っちまわねぇか?」


 その言葉に、僕は目を見開いた。

 こいつは今何を言った? 食べる? まさか僕を?

 混乱の表情を彼らに向けると、いっそ哀れだとでも言いたそうな顔になった。


「知らねぇのか? ここの街じゃ、鬼が人を食うどころか、なんて日常茶飯事なんだよ」

「大方ここが理想郷だとでも吹き込まれてやってきた口だろうよ。可哀想になぁ」


 口では同情の言葉を吐いているというのに、彼らの顔に張り付いた下卑た笑みは薄れることなくそこにあった。まずい。このままじゃ本当に。


「外彦くん……!」


 慌ててそちらに視線を向けると、こちらに駆け寄ってくる降姫が目に入った。


「ふ、降姫、逃げ……」


 言い終わらないうちに男は、僕の首へと手をやって、ぎりぎりと締め始めた。一気に頭に血が回らなくなり、抵抗しようとしたがそれすらもままならなくなる。

 薄れていく意識の中、ただ一つだけが気にかかる。

 降姫は無事に逃げられただろうか。僕はどうなってもいい。だけど彼女だけは。




 ――刹那、衝撃。何かがぶつかる音。




 ぷつっと意識が一瞬途絶え、直後にのどの圧迫から解放される。地面に崩れ落ちた僕は、げほげほと咳き込みながら、何が起こったのかを把握しようとした。


「う、う、腕がぁ!」


 混乱した男の悲鳴が響いてくる。なんとか目を開いて起き上がると、そこには黒い軍服を身に着けた見知らぬ男が立っていた。


「『鬼切』だ。俺にはお前たちを鎮圧・逮捕する権利が与えられている」


 彼の纏う軍服には皺一つなく、その眼光はどんな魔物でも威圧されるような力を放っている。軍服の男は、抜き放っていた刀をまっすぐに僕を襲っていた男たちへと向けた。

 その切っ先からは、真っ赤な血がぽたぽたと垂れている。彼の視線の先を見ると、そこには手首から先を切り飛ばされた男が腰を抜かしていた。


「自分の身が可愛いのなら、く立ち去ることだな」

「ひっ……」


 男たちは小さく悲鳴を上げると、自分の手首を拾い上げて逃げ去っていった。

 軍服の男は視線だけでこちらを見る。彼の顔には返り血がついている。先ほどの男たちとはまた違った圧力を感じ、僕は震えあがった。


「逃げよう、外彦くん!」


 視界の端で降姫が叫ぶ。僕は慌てて立ち上がると、なんとか鞄を掴み上げて駆け出した。


「し、失礼します!」


 転がるようにして逃げていった僕は、その時、懐からある物を落としてしまったことに気が付いていなかった。

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