プロローグ02 鬼切
外彦はにっこりと笑いながら、漆原に手を差し伸べてくる。漆原は自分よりもずっと小さいその手を握り返した。
「ささ、中に入ってください! 外は色々と危ないですよ!」
「あ、ああ」
招き入れられた漆原は、その薄気味悪い廃病院へと足を踏み入れる。しかしその中に広がっていたのは、思っていたよりもずっときちんと整頓された空間だった。
霧煙る外よりも、部屋の中はずっと息がしやすい。照明も外とは打って変わって室内をはっきりと照らしている。廃院になった後に運び入れられたであろう木製の家具は、真新しいというわけではないが埃を被っているというわけでもなさそうだ。
「この近辺の鬼たちの間では、ここが『鬼切』の拠点の一つだって知られてますからね。ここにいれば一応は安心です!」
そう言うと外彦は誇らしげに胸を張った。それを聞いて漆原はほっと息を吐いた。だが、その後にぼそりと続けられた言葉を漆原は聞き逃すことができなかった。
「まあ鬼切に恨みを持つ連中が来ないとも限りませんがそれはそれとして」
びくりと肩を震わせ、恐る恐る外彦を見やる。外彦は自分がまずいことを口走ったということに気づいたらしく、ぱたぱたと腕を動かして、言い訳をし始めた。
「ああっ、ごめんなさい! おどかすつもりはなかったんです!」
見た目よりもさらに幼いその様子が、まるで小動物のように見えて、少しだけ漆原の怯えは和らいだ。例えるならば、ふさふさの毛並みを持つ子リスのようだ。
「ええもう大丈夫です! 僕が全力で漆原さんを助けますから!」
外彦は堂々と宣言する。
確かにさっき見た通り、この子は見た目の割に腕っ節は強いらしい。少なくともこの子のそばにいれば、人間の悪漢からは身を守ることができるだろう。
「ほらほら、どうぞ座ってください!」
外彦は一人がけ用のソファを指し、漆原はそこに腰を下ろした。上等ではないが硬くもないスプリングが沈み込み、漆原の体重を受け止める。外彦は小走りで奥の方へと入っていってしまった。
「漆原さんって、外から来たばかりの方なんですか?」
部屋の奥で飲み物を注ぎながら、外彦は漆原に尋ねる。質問の意味が理解しかねて、漆原がそれに答えられないでいると、彼は飲み物を持って漆原の方へと戻ってきた。
「ここに来た方って、良くも悪くもこの街に適応していくものなんです。なのに漆原さんはあまりここに慣れていないようだったので……」
漆原の目の前にマグカップが置かれる。その中には、おそらくは何度も使われたティーバッグだと推測できる、薄い麦茶が注がれていた。彼はマグカップを持ち上げて、常温の液体を一口飲み込んだ。走り疲れて渇ききった喉に、その水分は染み渡っていく。
「私はつい二ヶ月前にここにやってきたばかりでね。研究のために雇われて、第一研究所で暮らしていたようなものだから建物の外に出ることはほとんどなかったんだよ」
「へぇ、研究所では何の研究をされていたんです?」
向かいのソファに座った外彦は自分の分のマグカップを両手で持ちながら、首を傾げる。サイズの合っていない帽子がそれに合わせて落ちそうになっていた。
「鬼欠片だよ。人が取り込めば鬼と化し、鬼が取り込めば力を増幅させる。呪われた物質さ」
忌々しく漆原は吐き捨てる。外彦は表情を変えずにじっと彼を見つめていた。その視線に耐えかねて、漆原は話題を別の方向に持っていこうとした。
「ところで……君はどうしてこんな街に?」
「僕ですか? 僕はこの街に来てようやく三ヶ月経ったところですね。理由はまあ、誰でも考え付くようなありきたりなものですよ」
漆原さんはどうして? と不意をついて尋ねられ、漆原は一瞬うっと言葉に詰まった後、すぐに観念して懐から財布を取り出した。財布のカードポケットには、一枚の写真が挟まれている。
「私には娘がいてね。あの子のためならどんな危険な橋だって渡ってみせるって決めているんだ」
それに写っていたのは、十歳を超えたぐらいの可愛らしい少女だった。栗色の髪に赤い唇。目から鼻あたりが漆原の面影を残している、そんな写真だ。
「娘さん、ご病気か何かなんですか?」
「ああ。この街の病院に入院してるんだよ。『鬼欠片』に触れてしまった副作用でね」
漆原は彼女の姿を思い出す。触れれば徐々に鬼と化してしまい、鬼の力に飲まれてしまえばそのまま死に至る。そんなことをさせないために、漆原は危険を侵してこの街へとやって来たのだ。
「最近は病状が悪化して面会謝絶になっているんだけど、ひと段落つけばきっと会いに行けるはずだから……」
写真の入った財布をぎゅっと握りしめながら、漆原は言葉を絞り出す。
「もう一ヶ月も会っていないんだ。娘がどうしているかについて医者も何も話してくれないし……」
ぼそぼそと言う漆原に、外彦もまた何も言えずに黙り込む。遠く、娼窟のあたりから響いてくる賑わいが、かえって二人の間の沈黙を際立たせていた。
しかし、急にそれを破る音が響き渡る。
ジリリリ、ジリリリ。
振り向くと、壁に備え付けられた電話機が震えているのが見えた。外彦は慌てて立ち上がると、三コール目が消えるか消えないかというタイミングで、なんとかそれを掴み下ろした。
「はい、もしもし。こちら、布施下です!」
電話口だというのにキビキビとした姿勢で外彦は会話を続けていく。内容から察するに、どうやら彼の上司からの電話のようだった。漆原はそれをじっと見ていたが、話がなかなか終わらないと悟ると、マグカップへと向き直って、その中の液体を見下ろした。
「分かりました。漆原さんの身柄はこちらで保護して、荷物は『鬼切』が預かるという形でいくんですね」
数分後に聞こえてきたその言葉に、漆原はマグカップを持つ手に力を込めてしまう。麦茶にゆらりと波紋が広がった。
そのすぐ後に、電話を終えた外彦は戻ってきた。
「漆原さん。もう半刻も経てば、他の『鬼切』が到着します。その際に漆原さんの荷物はこちらで預かることになります」
淡々と宣告される言葉に、漆原は視線を泳がせる。それを不安からのものだと感じた外彦は、腕を胸の前で組みながら主張した。
「大丈夫です! 僕たちが責任を持って第二研究所に運びますから!」
漆原の口の端がヒクッと引きつった。満面の笑みを浮かべてくる外彦はそれに気づいていないようで、ふふんと鼻を鳴らしている。漆原は恐る恐る確認した。
「……君たちはこれを、第二研究所に運ぶのかい?」
「はい。他にどこに運ぶっていうんです?」
キョトンとした顔で外彦は彼を見る。彼は何も答えられず、外彦から目を逸らした。すると外彦は黙りこくった後、腰をかがませて漆原の顔を覗き込んだ。
「漆原さん、僕に隠していることってあります?」
どことなく今までとは違う冷たい声色で問われ、背筋に寒いものが走る。漆原は震える舌をなんとか動かして、「いや、何も」とだけ答えた。
外彦は漆原の目をじっと見つめ続け、何度か瞬きをした後、立ち上がってそれまで通りの明るくて元気な表情に戻った。
「そうですか。もし言いたいことがあったら言ってくださいね。僕たちが最大限にお手伝いしますから!」
震えていた水面が徐々に収まっていく。外彦はマグカップの中身を見続ける漆原を置いて、制服の襟を正した後に玄関のドアに手をかけた。
「あ、僕はやることがあるのでちょっと外に出てきますね!」
ドアノブをひねり、外彦は扉を開く。霧煙る忌々しい街の空気が一気になだれ込んできた。
「分かっているとは思いますが、家からは出ないでくださいね! 危ないので!」
そう念押しすると、まるで踊るかのような軽やかな歩調で、外彦は家の外へと出ていってしまった。ドアが音を立てて閉じ、漆原は浮かしかけた腰をソファに沈みこませ、マグカップを持ったままうなだれた。
そのまま十分ほど待っても、外彦は戻ってこなかった。彼が残していった言葉が、漆原の脳裏にへばりついている。
外に出るな。半刻もすれば鬼切の部隊が到着する。そうすれば彼らがこの荷物を持っていってしまう。そうなったら自分は――
漆原は抱え込んでいた鞄を持って勢いよく立ち上がり、ドアノブをひねった。
「はぁ、はっ、はぁ……」
家を飛び出した漆原は息を切らせて走っていった。時は一刻を争う。守ってくれるはずの護衛がこちらの事情を知らなかったのは誤算だった。早くこれを持って受け渡し場所にたどりつかなければ。
ぴちょん。
水滴が落ちるような音がやけに大きく響いた気がして、漆原は立ち止まる。
人通りのない道の先から一つの人影が歩いてくる。人影は少女の姿をしていた。だが、ただの少女ではないことは漆原にもはっきりと分かった。ローファーを履いた彼女の足元には、彼女のつま先が地面に触れるたびに波紋が広がっていった。
「な、何だ」
人ではない何かに前方をふさがれ、漆原は慌てて踵を返そうとする。だがその瞬間、彼の背後から冷え冷えとした少年の声が響き渡った。
「ああ、見つけた」
バクバクと震える鼓動のまま、漆原はゆっくりと振り返る。そこには表情を消してこちらを睨みつけてくる外彦の姿があった。
「漆原さん、そんなに急いで何をしようとしていたんですか?」
一歩、一歩。
外彦は漆原への距離を詰めてくる。漆原は逃げ出そうとしたが、前方には鬼の少女がいる。彼は追いつめられることしかできず、鞄を必死で抱きしめた。
「な、何を言ってるんだ。私はただ君の帰りが遅いから追いかけてきただけで……」
「うそ」
前方の少女が小さくつぶやく。しかしその声は不思議と響き渡り、漆原の鼓膜をしっかりと揺らした。
「いけない子」
少女の赤い唇が、弧を描く。外彦が腰に吊っていた通信機から男の声が響いた。
『外彦くん』
「……はい、そうですね」
淡々としたその男の言葉に、外彦は顔を歪め、そうしてから腰の軍刀を抜き放った。
「漆原さん。あなたには『暗都』維持法における重大な嫌疑がかけられています」
刀の切っ先が向けられる。漆原は鞄を抱きしめたまま、一歩後ずさった。
「『暗都』外への鬼欠片の持ち出しは禁じられています。警告に従わない場合、その場での処刑も許可されています」
「あ、あ……」
情報が一度に流れこみ、漆原は震える声でうめくことしかできない。追い打ちをかけるように、通信機の向こう側の声が宣告する。
『『鬼切』を密輸の護衛に使おうとするだなんて、大胆なことをよく思いついたものだな』
「ち……ち、違うんだ! 俺が考えたんじゃない! あのジョロウグモの男が……!」
漆原は必死で弁明をする。しかし目の前の外彦は一切引いてくれそうにない。漆原はほとんど泣き叫ぶように言葉を発した。
「頼む、見逃してくれ! ほんの少し、欠片を外に持ち出すだけじゃないか!」
しかしその悲痛な叫びは少年には通じなかった。
「僕は職務を全うするだけです」
一切の感情を切り捨てたかのような声で外彦は言う。漆原は顔を歪めると、震える手で鞄の中から銃を取り出して外彦に向けた。
「行こう降姫」
応えるように少年は呟く。大きな帽子が落ち、彼の髪が風もないのに巻き上がった気がした。
「お、俺には病気の娘がいるんだ! 外の病院にかかればきっとまだ……」
叫ぶ漆原に、外彦は何度か瞠目した後、淡々と告げた。
「彼女ならもう亡くなっています」
「…………え」
銃を取り落とす。何を言われたのか分からない。漆原は目を見開いて外彦を見た。外彦はじっとそれを見つめ返した。
「病院に確認を取りました。意図的にあなたへの情報が制限されていたことも共犯者を確保して確認済みです」
口の中がからからに渇いていく。手先が震える。膝から崩れ落ちそうになってしまう。
「あなたも、薄々気づいていたんじゃないですか」
――その言葉が、全てが決壊するきっかけだった。
漆原は鞄の中に手を入れると、錠剤ほどの大きさの欠片を取り出し、口の中に放り込んだ。
「待って!」
外彦の制止もむなしく、漆原はそれを飲み込んでしまった。途端、彼の顔は一気に歪み、口は裂け、牙も生えていく。手足も一気に太いものへと変わり、今まで纏っていた服も引きちぎられ、体自体が人間ではありえない大きさへと変わっていった。
「うぅぉあああ!!」
悲鳴にも似た咆哮が、外彦の鼓膜をびりびりと揺らす。外彦は刀を両手で構えなおした。
『今向かう。できるだけ殺すな』
「はい、犬崎さん」
通信機の向こう側の男――犬崎にぼそりと答え、外彦は相手の出方をうかがった。
体格差がある以上、正面から組み付かれてはどうしても負けてしまう。なんとか隙をついて、鬼の動きを止めなければ。
鬼と化してしまった漆原は、太くなった手足を踏みしめて、一気にこちらへと飛びかかってきた。
「くっ……」
外彦はそれを間一髪かわすと、彼の右へと回り込み、下からすくいあげる形で左腕を深く切りつけた。
「ぐぎゃあああああ!」
鬼は悲鳴を上げて姿勢を崩す。その隙をついて、今度は胴体へと刃を向ける。退魔の刀身が怪しく光った。
「やぁあああ!」
がら空きになった胸めがけて、刀を振り下ろす。傷口から噴き出た血が、少年の顔を汚す。外彦は鬼に馬乗りになると、その引きつった顔に自分の顔を近づけさせた。
「僕を見ろ」
その瞬間、漆原に見えていたのは、無数の目だった。外彦の顔にはびっしりと目が浮かび上がり、彼を見つめていたのだ。
「ひ、ぁ、が……」
それを直視してしまった漆原は、全身から力が抜けて、痙攣を始めてしまった。外彦はぴょんと鬼の胸の上から飛び降りると、自分の両目を片手の手のひらで隠して呟いた。
「ありがとう降姫、もういいよ」
その言葉を口にした途端、外彦の体に浮かび上がっていた目はすべて閉じて、肌に溶け込むようにして消えていった。
外彦は動きを止めてしまった鬼を振り返り、一度悲しそうに目を伏せた後、抜き放っていた軍刀の血を払い、鞘へと収めた。
直後にやってきたのは、彼よりもずっと背の高い、軍服姿の男性だった。男性――犬崎は、外彦の表情を見ると、気づかわしそうに彼を見下ろした。
「外彦くん」
「うん、僕は大丈夫です。大丈夫」
そうか、とだけ言うと、犬崎はどこかへと歩き去ろうとした。目的地は決まっている。漆原をそそのかした共犯の居場所だ。
外彦もそれを追いかけて、霧の中へと消えていく。
霧の立ち込める常闇の街、『暗都』。
いかにして彼がこの街に溶け込んでしまったのか。
話はそう、三ヶ月前に遡る。
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