夜煙る街のデモンズピース
黄鱗きいろ
プロローグ
プロローグ01 霧煙る街
常闇の街を、男は走っていた。
薄い靴底は忙しなく地面を蹴り続け、腕の中には赤子のように大切に抱えられた鞄がある。彼の首はびっしりとかいた汗で濡れており、歪められた顔には焦燥の色が濃く出ていた。
錆びついた階段、壁にへばりつく朽ちた鉄パイプ、煙る霧と荒い息、極端に天井の低い居住区域を駆け抜け、倉庫街に向かう道を選ぶ。
とても自動車は通れないほどに狭い道を行く男の左右には、まるで彼に覆いかぶさってきているかのように、雑然たる建物がそびえ立っている。
もっともこの街で自動車を使える道など稀有なものだ。それほどにこの『暗都』は狭苦しい牢獄にも似た景色ばかりが広がる街だった。
コンクリートのように重い霧を必死に肺に吸い込みながら走る男は、急に開けた丁字路で立ち止まり、肩で息をしながら腰を折った。
追手の姿は見当たらない。だが安心はできない。この鞄を無事に届けるまでは捕まるわけにはいかないのだ。
男は頭の中に叩き込んだ地図を必死で思い出し、目的の方角へと足を踏み出した。
――その時、ただでさえ薄暗い陽光がさらに翳り、一つの影が音もなく男の目の前に落ちてきた。
すとん、と。まるで猫がするかのような柔軟さで着地したそれは――男の背丈よりもはるかに小さい人間だった。
顔だけで判断するならば、まだ十代前半の少年だ。若干袖が余っている真っ黒な軍服に、何か意匠のついた大きな帽子。軍服の上には腰ほどまであるケープを身につけている。
男はとっさに鞄の中に手を突っ込み、銃を掴み上げて少年にそれを突きつけようとした。
「ま、待ってください待ってください」
腕をバタバタと振りながらなんだか間の抜けた声色で制止され、男は引き金に指をかけた状態で動きを止める。少年は慌てた様子で懐の中から紋章のついた手帳を取り出した。
「僕はこういう者です!」
それは、左右から刀が交差し、中央に鬼の目があるいかめしい身分証だった。男は銃を手にしていることなど忘れまじまじとそれを見て、それが何なのか理解した途端、安堵から膝から崩れ落ちそうになった。
「『
「はい、『鬼切』です!」
にっこりと可愛らしく微笑んだ少年は、男の目にはやはり十四、五歳のように見えた。だが男にとっては地獄に仏だ。
「助かった! もうダメかと思ってたんだ!」
三十を超えた男性が、自分の半分も生きていないような少年にすがっているのは、はたから見れば滑稽な出来事に映るだろう。だが幸いにも男と少年以外にこの通りには人影はなく、それを咎める者はいない。
最初はされるがままでいた少年だったが、数十秒経っても肩から手を離してくれない男に業を煮やしたようで、彼の指を一本ずつ引きはがして少しだけ距離を取った。
「しっかりしてくださいっ。こんなことしてる場合じゃないですよっ」
低い位置から苦言を呈してきた少年に、正気に戻った男は一歩下がった。少年は手帳をしまい込み、代わりに一枚の写真を出してきた。男がこの『暗都』に入った際に撮られた身分証明用の写真だ。
「ええと、数刻前に電話で『鬼切』に助けを求めてきた、
写真と男を何度か見比べる少年に、漆原はこくこくと首を縦に振る。少年はよれないように丁寧に写真を懐にしまいなおすと、彼の手を取って駆けだした。
「こっちです!」
つんのめりそうになる漆原を気にすることもなく、少年は地面を蹴っていく。だがもしかしたらこれでも加減して走っているのかもしれない。なんとか窺うことができた彼の可愛らしい横顔は汗一つかかずに涼やかなものだった。
濁った空気を必死で吸い込んで吐く。少年の腰に吊られた日本刀がカチャカチャと音を立てる。おそらくは退魔の力を持つ刀だ。『鬼切』の戦闘員には必ず支給されるものだと記憶している。
「事情は知っています。あなたはその荷物を倉庫街に近い第二研究所に届けなければならない。僕たちはその護衛だと」
振り向かずに、少年は言う。漆原は彼に引きずられるような形で走りながら、彼へと視線を向ける。少々大きな帽子がひょこひょこと跳ねるのを、彼は何度か直していた。
「第一研究所の事故は把握しています。あなたがそこから命からがら逃げだしてきたことも了承済みです!」
急に掴まれていた左腕を右に引っ張られ、ほとんどつまずくような姿勢でわき道に逸れる。漆原の前で立ち止まっていた少年は、息一つ乱さずに彼を見上げていた。
「確認ですが、その荷物は僕たちが運ぶわけにはいかないものなんですよね?」
漆原は重々しく頷きながら、腕の中の鞄をぐっと抱きしめた。少年は「分かりました!」とだけ言うと、今度は走ることなく、漆原を先導し始めた。だが足を進め始めたのは目的地とは全く違う方向だった。
「な、なあ、第二研究所には向かわないのか?」
いつ追手が目の前に現れるか分からない恐怖から、漆原はおどおどとあたりを見回しながら少年の後をついていく。
「本隊に合流するのはまだ先です! それまでは漆原さんには僕と行動を共にしてもらいます! いいですね?」
「あ、ああ」
半ば強制的なその決定に、少しだけ不自由を覚えながら漆原は頷く。少年は振り向くこともせずに、そのまま彼をどこかへと連れていく。
少年が向かった先は、娼窟として有名なエリアだった。年齢的にも精神的にも不釣り合いな存在でありながら、少年は一切の迷いもなく道の中央を歩いていってしまう。むしろ大人の漆原の方がおどおどとしてしまっている有様だ。
それはもしかしたら彼が軍服を着ているからかもしれない。堂々と歩く彼にはいたるところから様々な視線が向けられていた。
好奇、愛着、嫌悪、そして――欲望も。
突然ガラの悪そうな男たちが少年と漆原の前へと立ちふさがり、少年の顔をはるか上から覗き込んできた。
「よぉ軍人さん。随分と大事そうな荷物を持ってるじゃねえか」
「はい、大事な荷物です! でもそれがお兄さんたちと何の関係が?」
流れるような仕草で取り囲んできた三人の男たちに、少年はきょとんとした目を向ける。男たちは顔を見合わせて。ゲラゲラと笑い始めた。少年はいまだに何をいわれているのか分かっていないようで、首を傾げている。
「何が可笑しいんですか? 別に冗談を言ったつもりはないんですが」
「俺たちにとっちゃ、お前の存在自体が冗談だぜ?」
「はい……?」
「つまりだ。その大事な荷物を俺たちに渡せっつってんだよ」
しばしの沈黙の後、少年は困り切った表情で返事をした。
「ええ……それは困るんですが……」
どこまでもマイペースな彼の言葉をあざ笑いながら、男たちは二人ににじり寄ってきた。
さすがにまずいという状況だけは理解したらしく、少年は懐から手帳を取り出して宣言した。
「ええと、僕は『鬼切』です! 僕にはあなた方を鎮圧・逮捕する権利が与えられています。おとなしく道を開け――うわっ!」
ちょうど少年の腕があったところを、男が取り出したナイフが空振る。と同時に、いつの間にか背後に回っていた男の一人が、少年の首を腕で拘束した。
「おら、オッサン。大切な護衛さんはこの通りだぜ? さっさとその荷物を渡してもらおうか」
標的が自分に向いてしまったと自覚した漆原は、鞄を抱えなおして男たちをにらみつけた。その足はがくがくと震え、しかしその荷物への執着だけは抱き続けている。そんな目を漆原は彼らに向けていた。
にらみ合うこと数秒。その数秒の沈黙を破ったのは、ぽつりと呟かれた少年の声だった。
「いこう、
ぶわりと。
風もないのに少年の髪が巻き上げられたように見えた。直後響いたのは彼を拘束していたはずの男の悲鳴だ。
「ぎゃああああ!」
少年を拘束していた腕が解け、目を抑えながら男は崩れ落ちる。残された少年は男に手の平を見せたようだった。漆原はそれに視線を向けかけ――全身に怖気が走って慌てて目をそらした。
見てはいけない。あれは、目を合わせてはいけないものだ。
「め、目、目がぁ!」
何かを見てしまった男は、目を押さえてもだえ続けている。唖然としてそれを見ていた男二人だったが、少年が鯉口を切った音に気づいて彼に視線を戻した。
「まさかお前、『
ぬらりと退魔の刀を抜き放った少年は、先ほどよりは真剣な面持ちで、だけど口元には笑みを浮かべながら言い放った。
「見たところあなたたちは『欠片無し《にんげん》』ですね? だとすれば事を構えればどちらが勝つかぐらい分かるでしょう」
刀の切っ先を男たちに向け、少年は軽く首を傾けてみせた。
「
少年の与えた猶予に、男たちは「ひぃ」だの「ひぇ」だのと情けない悲鳴を上げながら逃げ去っていった。彼はそれをじっと見送った後、刀を鞘へとゆっくりと納めた。それと同時に辺りに満ちていた緊張感が消え去り、漆原は思わず止めていた息をやっと吐くことができた。
「大丈夫ですか? 怪我とかありませんか?」
下から覗き込んでくる彼のまなざしは、出会った直後のように優しくて幼さを感じる目へと戻っていた。漆原は何度も深呼吸をした後、ようやく一度大きく頷いた。
「よかった! じゃあ行きましょうか。変なのに捕まるのも嫌ですし!」
少しだけ早足になった少年に合わせて、漆原も歩幅を広げる。とは言っても、彼の目的地はもう目と鼻の先に存在していた。
娼窟の片隅にへばりつくように、その建物は建っていた。もとは町医者の住居か何かだったのだろう。玄関先には真っ黒に塗りつぶされた看板が揺れている。
「あれ、ちょっと待ってください、鍵どこにしまったっけ……」
そう言いながら少年はぱたぱたと自分の服のあちこちを探し始める。手持無沙汰になった漆原は、鞄を抱きしめて息を吐いた。
錆びついた通りから視線を上にやると、ごちゃごちゃと立ち並ぶ建物によって、乱雑に切り取られた空が見える。時計によれば間違いなく昼間だというのに、そこに陽光が差し込むことはほとんどない。
四六時中、霧の立ち込める廃墟のようなこの街を、漆原はどうしても好きになれずにいた。
「どうかしましたか?」
ふと気づくといつの間にか玄関のドアを開けた少年が、漆原の顔を見上げてきていた。漆原は一気に物思いから引き戻され、しどろもどろになりながら視線を宙に彷徨わせた。
「あー、いや、ええと、正直驚いたんだ。君のような子供が『鬼切』にいるだなんて」
とっさに口に出したのは、彼に出会った時から抱いていた正直な疑問だった。ドアを開けて待っている少年に目を合わせることができず、ぼそぼそと言葉を連ねてしまう。
「私も君より少し小さいぐらいの子供がいるんだ。だからなんというか……」
最後には消え入りそうな声で漆原は言う。彼の脳裏には、可愛い愛娘の姿があった。もし彼女がこうやって『鬼切』として働くことになったら、自分はどう思うだろうか。そして、彼の親はどう思っているのだろうか。
ぐるぐると巡る思考を止めたのは、少年の明るい一言だった。
「僕は僕の意思でここにいます。それに――僕は一人ではないので!」
力強いその言葉に漆原は、自分がしていたものが杞憂だと知り、しかしそんなことを口にしてしまう少年にほんの少しの憐れみを覚えてしまった。
漆原は少年に声をかけようとし――自分が彼の名をまだ聞いていないことに気がついた。
「ところで、君の名前は……」
彼もまた自分がまだ名乗っていないことに驚いたようで、何度か目を開け閉めして、それから屈託のない笑みを浮かべた。
「
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