58、保険証とお礼

 冬も深くなると、母はなにかと保険証のことを話題にだすようになりました。

 この頃には、自分の名義で保険証を発行しなおすことは、半ばあきらめていました。それでも不安は募るばかりでしたが、世帯分離や保険証の再発行、扶養をはずれようとする私の行為を、母は「就職に不利になる」「将来足を引っ張る」と脅すように止めました。

 インフルエンザ等が流行り始めた時期、それを引き合いに出した母の提案は、「お父さんに保険証を送ってもらおうか?」というものでした。


 最初は拒否していたものの、「何かあったら困るでしょう」「病院代、馬鹿にならないんだよ」としつこく詰め寄られ、私は「お母さんから頼んでもらってもいい?」と母に連絡しました。もし保険証の原本があれば、籍を抜くことだってできるかもしれない、という打算もありました。

 私の言葉足らずでもあったのでしょうが、てっきり、母を経由してくるものだと思っていました。しかしながら、保険証は父から直接、速達で送られてきました。

「ちょっとまって住所教えたの?」

 私は慌てて母にLINEを送りました。母からはすぐ電話がかかってきました。曰く、「お父さんの会社の税金などの手続き上、住所を教えなければならないから、教えてもいいかと聞いたはず。了承していたでしょう」と。

 正直記憶になくて、心臓はずっとドキドキしていました。母には申し訳ない話ですが。

 母はその後、「保険証を送ってもらったお礼を一言いいなさい」と私にしつこく催促しました。父とコンタクトを取りたくなくて、私はずっとお茶を濁し続けていました。


 数週間経って、運悪くインフルエンザになりました。サークル内でびっくりするほどインフルエンザが流行っている時期でした。

 先日まではなんともなかったのに、昼頃になって急に熱が上がり始める感覚。「これはまずい」とコンビニで体温計とポカリスエットを買い、熱を測ったところ、三十七度七分。あれ、と思って十五分後測りなおしたところ、八度五分まで熱が上がっていました。

 これは完全にまずい奴だ……。

 病院に行き検査をすると、案の定A型でした。保険証はばっちり役に立ちましたが、それでも四千円かかりました。

 九度台まで上がった熱はなかなか下がらず、苦しい思いをしながらうなされていました。友達が何かと気を遣ってくれ、食べ物や飲み物、冷えピタなどを持ってきてくれたことが救いでした。

 

 母は心配してくれましたが、治ったと思うや否や、いっそう父へのお礼を催促し始めました。「保険証、あってよかったでしょう。助かったでしょう」「相手がどんな人間だろうと、人としての礼節を欠いちゃだめ。ちゃんとお礼を言いなさい」「はがきの一つでもいいんだから。保険証ありがとうって、一言だけでいいんだから」


 今に至るまでずっと続いていますが、それでも踏み切れずにいます。

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