57、あれを愛と呼ぶのなら

 年末年始。皆がそろって里帰りする中、私も母の家に帰っていました。東京でしかできない時給の高いアルバイトをするためと、「お正月くらいはうちに顔を出して」という母の要望からでした。家では食べられない美味しいご飯に誘われて上京したのだから、私も現金なものです。冷蔵庫も調理器具もないので、自宅ではお雑煮すら用意できない有様でした。

 年末年始には、仕事で家を空けることの多かった母の再婚相手もいました。おじさんは、不器用で口下手で、とても優しい人でした。子供たちにとても懐かれていたし、私の父と違って滅多に怒らない人でした。私もそんなおじさんが好きで、こんな人が父だったらどれほどよかっただろうと、何度も思ったほどでした。

 そう思っていました。


 ことが起こったのは、母の家に来て最初の日の夜でした。

 子供たちは既に眠っていました。私は次の日アルバイトを控えていて、そのための用意をしているところでした。

「一大人として助言しておくけど、お金に関してはやっぱりお父さんに頼った方がいいよ」

 不意に横に座ったおじさんが、私に神妙な顔で言いました。

 授業料の面で苦心していることは、おじさんも母から聞いているようでした。

「それだけは嫌」

 私は即答しましたが、忘年会帰りでひどく酔っていたおじさんは、私が折れるまで何度も同じ話を繰り返しました。

「俺は親だからわかるよ。子供を大事に思ってない親なんかいない。今までだってお金を出してくれていたんでしょ? 何十万も何百万も。それは愛がなきゃできないことだよ」

「だからって、暴力や暴言や嫌だった気持ちが相殺されるわけじゃないでしょう?」

 私は苦々しい気持ちでそう返しました。

「逆もそうだよ。お金を払ってくれた、生活を支えてくれた事実も消えない」

 聞き分けのない子供を諫めるような口調。私は、どうしてわかってもらえないのかと、泣きたいような気持ちになりました。

 私にとってお金とは呪縛そのものです。「誰の金だと思ってるんだ」に抑圧され続けてきた私には、父から経済援助を受けるということそのものが、父から精神的に解放されないことを意味します。父のお金に頼ってしまったら、私は自分で自分を許せなくなる。「一人じゃ生きていけないくせに」という父の言葉を否定できなくなる。そんなことをするくらいなら、奨学金や教育ローンに手を出したり、自分を汚してまでお金を稼ぐ方が、何倍も何倍もマシでした。

 同輩たちは私のこの気持ちを分かってくれました。けれど、おじさんだけでなく、母も、バイト先の上司も、カウンセラーも、弁護士も、良識的な大人と呼ばれる人たちは、揃いも揃って父に頼ることを勧めました。いくら「嫌だ」と訴えても、「そこは割り切らなきゃ」と諭すのでした。言葉を尽くしても伝わらないのがとても歯がゆく思われました。

「お父さんは弱いだけなんだと思う。言うほどひどい人じゃないよ」

 私は黙ったまま、何も答えませんでした。

「怖かったのはその時だけでしょう? 今は家から出て自由なんでしょう? 少しくらいはお父さんに頼ってもいいんだよ、それは甘えじゃない」

「そうだよ。十分頑張ったでしょう」

 母も加勢してきます。それでも絶対に嫌だ、とダダっ子のように私は言いました。

 いつの間にかぼろぼろと泣いていました。

「親としての責務を果たしたいのが親心だよ。学費くらい払わせてあげなよ」

 もしそうだとして、どうして私が親の自己満足に付き合わなきゃいけないんだ、と腹立たしい気持ちでした。

「だったら私は、親の責務を果たさせない形であいつに復讐する」

「復讐なんてして何になるの? そんなことしたらお父さんと同じところまで落ちるよ」

 泣いて拒む私を、おじさんはいつまでも、同じ言葉を使って諭し続けました。

「授業料はお父さんに払ってもらいなよ」

 私は「それだけは絶対に嫌」と何があっても言い続けました。父は自分が思っているほど極悪非道な人間ではないのかもしれない。それでも、父のあの態度を「愛」と呼ぶのなら、私はそんなもの少しもいらない。そう主張しました。そのたびに、おじさんは呆れたように溜息をつきました。

 丁度のタイミングで、交番から落し物の連絡がきました。どうやら、母の家に来る際に、駅の近くに落し物をしたようでした。

 おじさんと少しでも早く離れたくて、私は一人で家を出ようとしました。「女の子に夜道を一人で歩かせては危ない」と、母も付いてきました。


「おじさんは、悪気があったわけじゃないんだよ。お酒を飲んでいたし……理不尽だと思う気持ちはわかるけど。ごめんね」

 夜道を歩きながら、母は言いました。私は拗ねたように黙って、返事をしませんでした。

「殴られたのはその時だけっていうのはね、そんなことないって思うよね。おじさんは大柄だし、男の人だし、力が強いから、わからないのかもしれないけど。……それでも、悪気はなかったんだよ。本当に」

 母はずっと釈明を続けました。


 おじさん。

 好きだったおじさん。

 優しくて、不器用で、お互いにコミュ障だから距離もうまく詰められなくて。だけど、母や子供たちをすごく愛していること、母があなたにべた惚れなことが、自然と伝わってくるような素敵な人。こんな人が父だったら、そう思わせてくれる人。

 だけど私は、おじさんのことを、初めて怖いと思いました。

 大柄な男の人に詰め寄られて、子供を叱るみたいにずっと言い聞かせられて、「うん」というまで絶対に開放してくれなくて。すごく怖かった。

 嫌いになんてなりたくなかった。

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