44、父のいる夏休みは地獄のようだった

 父はしばらく自宅療養となりました。

 私も丁度アルバイトがない時期で、休日を満喫していた矢先のことでした。

 かくして私と父の休みが重なってしまったのでした。自分が家でゆっくりできる機関に、父が一日中家にいる! そう思うと嫌すぎて吐きそうでした。


 父は絶対安静だったので、父が受け持っていた分の家事も私と妹が受け持ちました。その点については、多少やることが増えたくらいでいつもとあまり変わりませんでした。

 一番鬱陶しかったのは病人アピールでした。父はもともと独り言が多い人でしたが、さらに独り言が増えました。「大丈夫?」と大袈裟に心配しないと不満そうな顔をするのが面倒なところでした。一度面倒になって「そうなんだ」とだけ返していたらブチ切れられました。

 父は「職場は俺がいなくて大変らしくて電話が来る」「俺は病人なのに」と、愚痴とも自慢とも取れない何かを絶えずこぼしていました。周りのレベルが低い、俺がいないとこの職場は回らない、が父の口癖でした。どの程度まで真実なのかはわかりません。


 最初の何日間かは、父はほとんど動けなかったのでまだ楽でした。

 厄介だったのは、父が少し回復をしてきた頃でした。楽になったらしく、起き出てくることが増えると、当然接触も増えました。露骨な病人アピールは相変わらずでした。

 自分が食事の支度をしている時は、やってほしいことを先回りしてやり続けないと不機嫌になり、やることがなくてのんびりしていると「俺は座っていないのに」と怒り出し、「おいしいよ、作ってくれてありがとう」と機嫌を取らないとへそを曲げる父。

 私が食事の支度をしている時は、こまごまとした手伝いはおろか、ずっと座ったまま、TVを見ながらビールを飲んでいます。部屋に呼びに行くまでリビングに来ないこともありました。「お前の不味い飯を食ってやってる」なんて台詞は聞きなれたものでした。食事を出したまま「今忙しいから」と三十分は手を付けなかったこともありました。「同じことを私がやったらめちゃくちゃ怒る癖になあ」とぼんやり考えていました。

 毎食向かい合っての食事。常に家にある父の気配。体調が芳しくないのと、仕事のことでますます不機嫌になる父。

 大きな赤ちゃんがいるみたいだ、と思いました。息が詰まりそうでした。


 一日中家にいるのはとても耐えられなかったので、ある日「レポートがあるから」と家から逃れて図書館に行きました。

 夕方ごろ。家に帰って玄関のドアを開けると、すさまじく不穏な気配が漂っていました。

「ただいま」

 返事がありません。ご機嫌な時は「おかえりい」と間延びした返事が来るはず。無視や無反応が多くなるのは、機嫌が悪い時に見られる兆候でした。

 私は慎重に辺りを伺いました。キッチンのシンクに見える、水に浸かったゴトク。洗面台に置かれた排水溝の蓋。あけ放たれたトイレのドアと、廊下に覗く洗剤の容器。風呂場からの乱暴な物音と、不機嫌そうな父の呟き声。強い漂白剤のにおい。

 ――これは、やばい。

 不機嫌がある段階に達すると、父はいきなり手の込んだ掃除を始める癖がありました。

 一度こうなってしまうと、勝手に手を付けても「邪魔をするな」と怒られるし、傍観しても怒られるのが常でした。

 父はどうやらご機嫌ナナメらしい。このまま家にいるとろくなことにならないと思った私は、忘れ物を取りに行くふりをして、慌てて図書館に戻りました。


『なんでお父さんあんな怒ってんの』

 妹にLINEを送ると、「なんか『なんでヘルニアの俺が家事をやるんだ』と言いながらいきなり掃除を始めた」とのことでした。全くもって意味が分からないと思いました。


 避難先にしていた友達は実家に帰省していて、避難できるあてもありません。図書館も夏休みの間は十八時に締まります。ファミレスなどに滞在するお金もないし、夕飯時には仕方なく家に帰りました。

 父の機嫌はすっかり直っていて、安心したような拍子抜けしたような気分になりました。


 後日。手術をするかどうかを判断する診察日のこと。手術が決まればそのまま入院となるはずだったけれど、帰ったら父がいて少し驚きました。

 経過を何も知らされていなかった私は、素朴に疑問を覚え、尋ねました。

「仕事だったんだ。手術はどうなったの?」

「なにお前俺が手術して入院とかになった方がよかったわけ?」

 父は間髪を入れずに返しました。棘のある言い方でした。

「別になにも聞かされてないから聞いただけ、おやすみ」

 私はそのまま部屋に向かいました。

 言いたいことを呑み込んで、父をいたずらに刺激しなかった。私はえらい。そう言い聞かせながら。

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