45、無駄なのはお金ではなく
八月後半になって再び始まった夏期講習を、私は半ばほっとした気持ちで迎えました。
どこかで夏風邪をもらったのか、不意に体調を崩したことがありました。ひどい悪寒と怠さ。夏期講習はまだ何日か残っています。
「熱あるから夕飯お願い、私の分は作らなくていいから」
父からは生返事が返ってきました。私は少しでも治さなければと、とにかく横になっていました。
夕飯時を少し過ぎたくらいだったでしょうか。不意に部屋のドアが開けられました。
「食欲はあるの?」
布団に潜ったまま「ない」と答えると、「それじゃあ俺のしたことは無駄だったんだな」と不機嫌そうな声音。私は怪訝に思って顔を上げました。どうやら私の分の夕飯まで作っていたようでした。
「さっき『私の分は作らなくていい』って言ったじゃん……」
返事までしておいて、父は「聞いてない」の一点張りでした。そんなことを言われても、こちらとしては「言った」としか言いようがないのですが。
「じゃあ俺がお前の聞こえないような声でなんか言ったとしてそれが意思疏通ってことでいいんだよな??」
父は逆切れ気味に言い、乱暴にドアを閉めました。
自分にはあんなに甘いくせに。
私はもやもやとしたけれど、期待するだけ馬鹿らしいとわかりきっていました。思えば、母が体調を崩した時も、父は不思議と不機嫌になる人でした。自分の思い通りに事が運ばないと八つ当たりをしだすのは、本当に赤ちゃんみたいだ、と思いました。
自分の機嫌ぐらい自分でとれよ。
しっかりしてよ、大人なんだからさ。
布団を頭まですっぽりかぶりながら、ドア越しに聞こえる父の声や物音から耳を塞いでいました。
九月に入ってからは、教習所に通い始めました。国立に受かったから免許取得の金は出してやる。春先、機嫌のいい父から言われたことでした。
より安いという理由で、父からは合宿免許を勧められました。半月もアルバイトを休みたくなくて、私は頑なに合宿を拒みました。自分で自由に使えるお金が半減するのは嫌だったし、丁度人手が少ない時期で、休むわけにはいきませんでした。
父は私の選択に不満そうでした。それ以後、「くれぐれも金をドブに捨てるなよ」と事あるごとに強調されました。そんなことしか言えない父が嫌いでした。
十月になって、再び大学が始まると、以前にも増して家に寄り付かないことが増えました。
夏休みに入って以来作っていなかった弁当も再開しませんでした。荷物になるし、汁漏れもするし、夜遅くに帰って弁当箱を洗うのも、あれこれ考えながらおかずを作るのも億劫でした。友達と一緒に学食に行っても、冷めてちっともおいしくないお弁当を広げなければいけないことに、いい加減嫌気が差していました。
買い食いでお昼を済ませる私に、父は「金の無駄」と吐き捨てました。自分のお金で好きなものを食べるくらいいいじゃないか、と思っても、何も言えませんでした。
金の無駄。金の無駄。金の無駄。
小さい頃から何度同じ台詞を聞かされたかわかりません。
母の必要最低限の買い物にも、私のお小遣いの使い道にも、父はそう言って目くじらを立てました。
しかし、父は単なる吝嗇家とも、守銭奴とも言えませんでした。七十万円の自転車をはじめとして、自分に対しての出費は惜しみないものでしたから。
ここでひとつ、高校生の時のエピソードを紹介したいと思います。
下校の途中で車にはねられたことがありました。左折する車の信号無視。私は自転車ごと吹っ飛ばされたけれど、足を大きく擦りむいたくらいで、大した怪我にはなりませんでした。現場は学校の近くだったので、話を聞きつけた先生がすぐさま訪れました。
一応報告をしなければと、仕事中の父に連絡を入れました。「たいしたことないんだな」と言われただけでした。うちには迎えに来てくれる保護者もいません。学校や警察に連絡をし、近隣の病院で軽く手当てをした後、事故を起こした人の身内だと言う人に自宅まで送ってもらいました。
軽い事故とはいえ、私は怪我をしていたし、自転車のフレームも歪んでいました。たったそれだけだったけれど、父にはまるで関心がなさそうでした。
先方からは示談が提示されました。どれほどの額だったのかは私は知りません。私の小さな出費にも眉を顰める父のことだから、貰えるお金は貰っておくんじゃないか、と思いました。しかし、父は「そんなに気にしないでください」と示談を断り、金を受け取ろうとはしませんでした。私は不思議でした。
それでも申し訳なかったのでしょう、先方は「お嬢さんに」と焼き菓子の入った菓子折りを贈ってくれました。父はそれにすら「大袈裟だな」と言って笑っていました。
その時、私は気がついたような気がしました。この人がいかに私のことがどうでもいいのか、無頓着なのか、ということに。
傷ついた、なんて大それたことは言いません。自分に対してはあれだけ必死に怒ったりわめいたりする父に、私のことに関してもそうしてほしかった、とも言いません。だけど、私の中には言いようのない虚しさがありました。
「まだ使えるだろ、金の無駄だ」
父はそう言って、歪んだ自転車を買いなおすことも修理に出すことも許しませんでした。「金の無駄」という言葉で押さえつけられるのはいつものことでした。
父にとっての無駄とはお金ではなく私自身なのだろう、と思いました。
そう思うと、全てが腑に落ちたような感じがしました。
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