42、コーヒーがお湯の味しかしなかった

 父が発作的に怒りを爆発させることは、相変わらず多くありました。

「一人で生きてみろ」「生活費を出さない」と言われることも依然としてありました。一人暮らしをしようにも、「学費も生活費も全て自分で賄う」ことが条件では、不可能も同然でした。(という理由を付けて、私自身が進んで囚われていたのかもしれない、と今なら思います)

 高校までと父の態度は何一つ変わらない。結局は家に縛られ続けてしまうことも変わらない。父の気配や物音に対して覚える不快感は、日増しに増えていきました。

 ただ一つ、高校までと決定的に違ったのは、私に逃げ込める場所ができたことでした。

 月日が経つごとに、気心の知れた友達が少しずつできてきました。その中には一人暮らしの人も多くいました。父の機嫌がどことなく悪そうな時、これ以上一緒にいると確実に爆発が怒る時は、何かと理由を付けて友達の家に避難しました。


 ある時、日曜日の夕飯を久しぶりに作った父が、「本来おかずは三品以上あるのが基本」「つゆものには浮身を乗せるのが常識」「俺は身内だから多少大目に見ているけど、この程度のことができなかったら客人にも幻滅される」「人付き合いをなくす」と、妹にしつこいくらいに言い聞かせていたことがありました。どうやら普段一品ものばかり作っている私への当てつけのようでした。

 食卓の席でもずっと続いているので、私は「出されたご飯にいちいち文句を言ってくるような人はこっちから願い下げだけどね」と小さく口をはさみました。父は乱暴に酒のジョッキを置き、「そうやって誰にも相手にされなくなればいいんじゃないですかあ?」と言うようなことを、繰り返し口にしていました。

 いつにも増して父との食事が苦痛でなりませんでした。さっさと食事を片付け、「コンビニに行ってくる」と言って家を出ました。かき込むように食べたご飯は少しもおいしくありませんでした。

 コンビニで二十分ほど時間を潰した帰りがけ、「友達から花火に誘われた」と適当な嘘をついて、その日は友達の家に転がり込みました。「パピコあるけど食べる……?」とどこか不安げに私を気遣う友人の表情は、今でもよく覚えています。


 七月下旬、大学が本格的に夏休みを迎える少し前。小中高校の夏休みが始まる時期でした。私がアルバイトをしていた先の塾では、夏期講習が始まりました。小学生から高校生までくまなく授業を受け持つ塾です。死ぬほど授業が入り、半日近くアルバイト先にいることも少なくない日が続きました。

 日中から夜半までバイト先にいるために、家にはほとんど寝に帰るだけの生活でした。夏期講習を皮切りに、家を空ける時間も頻度も増していきました。

 この頃「父のお金で買った食べ物」「父が作ったもの」が全く受け付けなくなりました。「父の経済力に支えられて生活している」ということが嫌だと思うあまり、父の稼いだお金で買ったものだと思うと、少しも喉を通りませんでした。

 私がアルバイトで家を空ける日は、父が夕飯を作っていました。事のついでなのか、私に少しおかずが残っていることもありました。料理で仕事をしていた経験もある人なので、味は確かなのが悔しいところでしたが、いつしか、それすら口に入れられなくなりました。

 父はしばしばコンビニのスイーツをお酒のついでに買ってきました。私と妹へのお土産で、父なりの気遣いだったのでしょう。甘いものは何より好きだったけれど、父のお金で買ったと思うと手が付けられなくて、全部妹にあげていました。


 全くの拒食症というわけではなく、自分で稼いだお金で買ったものは、抵抗なく食べることができました。外ではカロリーメイト、家では自分で買ったグラノーラを食べる生活をしばらく続けました。

 まだスーパーが空いている時間にアルバイトが終わった日は、スーパーのイートインで、三百円程度のお弁当を買って食べることもありました。

 アルバイト先と家を行き来する生活では、スーパーのイートインが最も安らげる場所でした。


 いつだったか。この食生活ではさすがにガタが来たのか、味覚がなくなりかけたことがありました。砂糖をスプーン二杯は入れたはずのコーヒーが、お湯の味しかしなかったのです。何かおかしいと思い、別の甘いものを口に含んでみたけれど、やっぱり甘みが全く感じられませんでした。

 これ以後、さすがにまずいと思った私は、少しずつ食生活を見直しました。亜鉛不足による味覚障害だったのか、それとも心因性のものだったのか、真偽はわからないまま、気づくと味覚は元に戻っていました。

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